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『鎌倉殿の13人』源義経の魂が眠る義経公供養塔

供養・埋葬・風習コラム

『鎌倉殿の13人』源義経の魂が眠る義経公供養塔

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、主人公・北条義時の生涯を軸に、源平合戦から鎌倉幕府の誕生、そして源頼朝の死後繰り広げられる御家人同士の権力闘争と承久の乱までの様子が描かれます。

その物語の序盤の見どころである源平合戦では、源義経が大活躍しますが、後に頼朝の怒りを買い、最後は奥州・平泉でその生涯を閉じることになります。

「平家物語」などを代表とする軍記物の中でも、義経の物語は特に印象深いエピソードとして、江戸時代の芝居や小説などでも盛んに題材となり、数多くの浮世絵にも描かれました。

「判官贔屓(ほうがんびいき)」という言葉が生まれるほど、多くの人々の心を引きつけた義経。その義経を偲んで建てられた供養塔が、京都・鞍馬寺にあります。

鞍馬寺で幼少期を過ごした義経

鞍馬寺(くらまでら)は、京都市左京区鞍馬本町にある鞍馬弘教(くらまこうきょう)の総本山の寺院です。京都盆地の北、豊かな自然環境を残す鞍馬山の南斜面に位置します。

今から800年ほど前、源義朝の九男として生まれた義経(幼名:牛若丸)は、平治の乱(1159年)で父が敗死したことにより、この鞍馬寺に預けられます。

牛若丸はここで遮那王(しゃなおう)という稚児名をつけられ、後に自らの出生を知ると、僧になることを拒否し、鞍馬山を駆け回り、武芸に励んだということが、軍記物や伝説により伝わっています。遮那王、11歳(※7歳、15歳説もあり)の頃です。また、鞍馬山では、天狗の面を被った落人(=鞍馬天狗)から、剣術の手解きを受けたとされています。

『鎌倉殿の13人』源義経の魂が眠る義経公供養塔

鞍馬寺・義経公供養塔

義経公供養塔は、1940年(昭和15年)、遮那王が住んでいたとされる東光坊の跡に建てられました。この供養塔は「宝塔(ほうとう)」に分類されます。

宝塔とは?

宝塔とは、仏塔の建築形式の1つで、平安時代後期から密教の考えに基づいて作られるようになり、鎌倉時代中期から後期にかけて急速に普及しました。中でも、石でつくられた宝塔は平安時代から江戸時代に数多く作られ、現在にも受け継がれる由緒正しいものです。

宝塔は、一般的に上から「相輪(そうりん)」「笠」「塔身(とうしん)」「基礎」の4つの部位で構成されます。

相輪

五重の塔など仏塔の最上部にある部分のことを「相輪/そうりん」といいます。インドの仏塔の傘蓋(さんがい) が発展したものです。
相輪は、上から「宝珠/ほうじゅ」「九輪/くりん」「請花/うけばな」「伏鉢/ふくばち」「露盤/ろばん」で構成されますが、九輪が省略されたり、請花と宝珠のみの形、時には独自の形を成す場合もあります。

屋根にあたる笠は一般的に平面四角形となっていて、軒口に近い位置に薄く段形がある場合は垂木型(たるきがた)、首部(塔身の最上部)に近い位置に厚めに段形が表現される場合は斗拱型(ときょうがた)に分類されます(義経公供養塔は斗拱型)。

宝塔の特徴は笠(屋根)が一重であることです。
一方、笠が二重になっているものを多宝塔(たほうとう)と呼びます。

塔身

塔身は上から「首部/しゅぶ」「軸部/じくぶ」から構成され、首部の下に「匂蘭/こうらん」を設けたり、軸部の上に「縁板/えんいた」「框座/かまちざ」を設けることもあります。
軸部には鎌倉中期以降、多宝如来・釈迦如来の二仏並座を示す扇形や鳥居形、あるいは像容・種子(しゅじ=梵字)が彫られます。
なお、義経公供養塔の軸部には「源義經(義経)公供養塔」と彫られています。

基礎

基礎は、素面のものが古く、鎌倉中期以降の多くは輪郭を巻いて格狭間(こうざま)が入ります。義経公供養塔にも格狭間が見えます。基礎の下には基壇や台座を設ける場合もあります。

鞍馬寺に残る義経ゆかりの「石」

鞍馬寺には義経公供養塔以外にも義経ゆかりの「石」があります。それが「義経公背比べ石」です。

鞍馬寺と奥の院魔王殿の間にあるこの石は、鞍馬寺を出奔して奥州平泉へと下る際、16歳の遮那王が名残を惜しんで背を比べた石と伝えられています。

石の高さは1.2mほど。小さな体で、はるか遠い平泉を目指す当時の遮那王の心境は、どのようなものであったのでしょうか。

このように、鞍馬寺には義経ゆかりの史跡がいくつも残っており、また、後世義経をしのんで建てられた供養塔もあります。

ぜひ一度当地を訪れ、歴史にふれてみてはいかがでしょうか。

鞍馬寺への交通アクセス

<鉄道>
叡山電車鞍馬駅下車 徒歩30分

<バス>
京都バス鞍馬停留所下車 徒歩30分