お役立ちコラム お墓の色々

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一度は見ておきたい重要文化財/美術品シリーズ・滋賀の旅編・その2

供養・埋葬・風習コラム

一度は見ておきたい重要文化財/美術品シリーズ・滋賀の旅編・その2

日本では、国内にある建造物、美術工芸品、考古資料、歴史資料等の有形文化財の中で、歴史上・芸術上の価値が高いもの、または学術的に価値の高いものを、文化財保護法に基づき重要文化財として指定、保護しています。

全国各地にある石仏や石塔の中にも、重要文化財の指定を受けているものがいくつもあり、その所有者や地域の人々によって、石仏や石塔に込められた想いや由来が語り継がれてきたことで、今もなお私たちに歴史や文化の息吹を感じさせてくれます。

今回は「一度は見ておきたい重要文化財/美術品シリーズ」と題し、歴史的価値、学術的価値の高い石仏や石塔をご紹介し、その魅力に迫っていきます。

観光情報も添えていますので、ぜひ実際に足を運んでいただき、その雰囲気を肌で感じ、目で愉しみ、心で歴史に触れてみてはいかがでしょうか?

一度は見ておきたい重要文化財/美術品シリーズ・滋賀の旅編・その2

比都佐神社 宝篋印塔(滋賀県蒲生郡日野町十禅師)

近江鉄道本線・日野駅の南東にある滋賀県蒲生郡日野町十禅師。
このあたりは弥生時代にはすでに開けていたとされ、飛鳥時代の頃には、開発の早かった近江八幡方面から見て「遠くにある野」ということで「ひさ野(久野)」と呼ばれていました。
この久野の郷を守護するため久野大明神が祀られたのが、比都佐(ひつさ)神社です。

創祀年代こそ不詳ですが、延長5年(927年)にまとめられた官社の国郡別一覧表である
「延喜式神名帳(えんぎしき じんめいちょう)」にその名が記された由緒ある神社で、以降も、地元豪族の崇敬を集め、栄えていきます。

比都佐神社の拝殿の西側に、国の重要文化財に指定されている宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。

宝篋印塔とは

宝篋印塔は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種で、「宝篋印陀羅尼経(だらにきょう)」という経典を内部に納めたことが、その名の由来となっています。中国から伝来し、日本で独自の発展をしたといわれ、鎌倉時代から江戸時代頃に全国各地で信仰の塔や墓石としてさかんにつくられました。

一般的に上から「相輪(そうりん)」「笠」「塔身(とうしん)」「基礎」の4つの部位で構成されます。

笠の四隅には隅飾(すみかざり)と呼ばれる突起があるのが特徴です。

また、基礎の上面には反花(かえりばな/下側へ反転するように開いた蓮弁)を据えたり、塔身を2〜3段の階段状に据えることもあります。

塔身の4面に四方仏を梵字で刻むことなどから、宝篋印塔は多数の如来が集っているとも考えられ、ご先祖様の供養はもちろんのこと、子孫を守り、一族の繁栄へと導くともいわれています。

特徴

比都佐神社宝篋印塔は花崗岩製で、現高約175cm。鎌倉時代後期である嘉元2年(1304年)に造立したことを示す刻銘が基礎の西面にあります。

相輪

相輪は欠失しており、代わりに小型宝篋印塔基礎と五輪塔空風輪が載っています。

軒付より下に2段、上に7段刻んであり、三弧(さんこ)と呼ばれる大きな隅飾があります。輪郭を巻き、その内側は素面です。笠下端の軒裏には、塔身の周囲に溝を彫り丁寧な加工が施してあります。

塔身

各面とも蓮華座(台座)上に、月輪が彫られ、胎蔵界四仏の種子(しゅじ=梵字)を配しています。

基礎

各面ともに輪郭が巻かれ、格狭間(こうざま/刳形(くりかた)の装飾)が入っています。東と南の2面には向かい合った孔雀が入り、北面は開花蓮、西面は素面です。

塔身と基礎には刻銘があり「亡き父の12回忌」という造立目的を知ることができます。

規模が大きく、細部の造形が優れており、日本有数の石塔と評される貴重な宝篋印塔です。
なお、1930年5月23日に国の重要文化財に指定されました。

周辺の観光情報

比都佐神社をはじめとする日野町内の神社では、県の無形民俗文化財「日野のホイノボリ」という行事が毎年春に行われます。

日野では竹ひごのことを「ホイ」と呼んでいます。細長く割った竹ひごに白やピンクの紙をつけた「ホイ」を幟の先から傘のように取り付けた花状の幟(のぼり)が、「ホイノボリ」です。疫病の退散を祈る鎮火祭が起源となっています。

しだれ桜のように垂れ下がるホイノボリは日野に春を告げる風物詩です。

※新型コロナウイルス感染症の影響で、行事内容等が変わる場合がございます。
 事前に各神社や観光サイト等をご確認の上お出かけくださいませ。

比都佐神社への交通アクセス

<鉄道>
近江鉄道本線日野駅から徒歩15分

<自動車>
名神高速「八日市IC」より国道421・307号経由で約20分
名神高速「蒲生スマートIC」より国道477号経由で約15分

一度は見ておきたい重要文化財/美術品シリーズ・滋賀の旅編・その2

梵釈寺 宝篋印塔(滋賀県東近江市蒲生岡本町)

梵釈寺(ぼんしゃくじ)は、滋賀県東近江市にある黄檗宗の寺院です。ご本尊の木造宝冠阿弥陀如来坐像は国の重要文化財にも指定されています。享保13年 (1728年)に京都・宇治黄檗山万福寺の末寺となりました。
山門をくぐると、右手南側の境内に宝篋印塔が建てられています。

特徴

梵釈寺宝篋印塔は、日野町で産出される米石といわれる花崗岩製で、塔身にある建刻銘から鎌倉時代後期の嘉暦3年(1328年)に建てられたことがわかっています。総高は226cmです。

相輪

上から、宝珠・単弁請花・九輪・単弁覆輪付請花・伏鉢となっており、平成21年11月に基壇とともに復元されています。

軒付より下に2段、上に5段刻んであり、隅飾は二弧輪郭付きで、内に無地の小円相が刻まれています。

塔身

金剛界四仏の種子(しゅじ=梵字)が刻まれ、正面には「アク(不空成就如来)」、背面には「キリーク(阿弥陀如来)」側面には「タラーク(宝生如来)」と「ウーン(阿閦如来)」の梵字が確認できます。

梵字の歴史や、梵字と仏教の関係、なぜお墓で使われているのかについて解説した記事がございます。こちらもあわせてご覧ください。

梵字とは?お墓で見かける理由

基礎

基礎は壇上積(だんじょうづみ/均一の大きさで、直角に加工した石材を規則的に積み上げた基壇のこと)。
基礎の格狭間には山茎蓮華(さんけいれんげ)・散蓮(さんれん)、そして近江式装飾文と呼ばれる孔雀の文様が半肉彫りで彫られています。

四仏種子や九輪溝部の表現に、南北朝に近い姿が見てとれます。

なお、昭和8年に国の重要美術品に指定されました。

歴史

梵釈寺創建時期は不明ですが、一説には延暦5年(786年)に大津・滋賀の里の山中に建立され栄えていた梵釈寺の面影を映そうとして、在地の豪族が天文年間 (1532~55年) に鋳物師村に建立したとされています。

戦国時代以降は衰退していましたが、天和年間 (1681~83年)に日野・正明寺 (黄榮宗) の住持・晦翁 (かいおう) 禅師が梵釈寺復興を志します。
この話を耳にした時の領主・奥田三良衛門が、寺一切を寄進し、現在の地に堂宇伽藍が移され、山号を天龍山としたと伝わっています。

周辺の観光情報

梵釈寺から歩いて10分程の所に、ガリ版伝承館(旧堀井新次郎住宅)があります。これは、近江商人で謄写版(ガリ版)を発明した堀井新治郎・耕造父子の住まいを修復したもので、堀井父子の功績を知ることができ、また謄写版の文化にふれることができる施設です。建物自体も明治末に建てられたもので、その歴史を感じることができます。

謄写版は、ヤスリの上の和紙にロウを引いた原紙を置き、その上から鉄筆などでガリガリと描画することで穴を開け製版します。そのガリガリという音から「ガリ版」という愛称で親しまれ利用されていましたが、館内ではその「ガリ版」を体験することができます(事前予約要・有料)。
なお、梵釈寺は堀井家の菩提寺でもあります。梵釈寺を訪れた際は、ガリ版伝承館も一緒にご覧になってみてはいかがでしょうか。

梵釈寺への交通アクセス

<鉄道>
近江鉄道本線 朝日大塚駅下車、徒歩10分

<バス>
JR琵琶湖線 近江八幡駅 南口から近江バス日野行き麻生口下車、徒歩15分

<自動車>
名神高速「蒲生スマートIC」より県道41号経由で約10分

まとめ

宝篋印塔は鎌倉時代から江戸時代頃に全国各地で信仰の塔や墓石としてさかんにつくられたこともあり、今もなお、当時のままの姿を残すものが存在します。

そして、経年により一部を欠いてしまうことがあっても、地元の方の強い想いにより復元され、今日も美しい姿を見せてくれています。

長い年月をかけて受け継がれてきたその姿を、ぜひ直にご覧いただき、当時の様子に想いを馳せたり、受け継いできた人々の心に触れてみてはいかがでしょうか。

滋賀県内には他にも歴史的価値、学術的価値の高い石塔があり、「滋賀の旅編(その1)」では、「正法寺石造宝塔」と「少菩提寺跡石造多宝塔」をご紹介しています。こちらの記事もあわせてお読みください。

一度は見ておきたい重要文化財シリーズ・滋賀の旅編(その1)