お役立ちコラム お墓の色々

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ファンでなくとも一度はお参りしたい偉人たちのお墓~北里柴三郎編

墓地・墓石コラム

ファンでなくとも一度はお参りしたい偉人たちのお墓~北里柴三郎編

お墓参りの際、今後の抱負や約束事を墓前に誓う方は多いと思われます。お墓の厳かな雰囲気はこうした気持ちを引き締めるのにピッタリですし、故人に見守ってもらっているかのような感覚にもなります。
私たち日本人は、自然と身についた習慣として神社やお寺にお参りするかのように、お墓参りをしている面もあるのではないでしょうか。

また、家のお墓の前で誓いを立てるのも良いですが、時には尊敬する偉人や生きざまに憧れる偉人のお墓に誓いを立てるのも、より一層気が引き締まって良いでしょう。なお、有名人のお墓巡りを趣味にしている方々は「墓マイラー」と呼ばれ、実は秘かなブームにもなっています。

日本の偉人たち

日本には世界に名を残す偉人たちがたくさんいます。
文学や医学、戦国時代の武将や明治維新の立役者など、多岐に渡ります。

今回は、新1000円札の肖像画として選ばれた北里柴三郎の足跡とお墓を紹介いたします。

北里柴三郎

1853年1月29日(旧歴嘉永5年12月20日)に現在の熊本県阿蘇郡小国町北里で、代々庄屋を務める家に生まれました。少年時代は剣道や馬術などの武道に打ち込み、その流れで政治家や軍人を志していましたが、1871(明治4)年に18歳で古城医学所兼病院(現熊本大学医学部)にて、当時同校で教鞭を取っていたオランダ人医師コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトの「医学も男子一生の仕事なり得る」と言う言葉を受け、医学の道を志します。
その後1874年に上京し、東京医学校(現東京大学医学部)に入学。在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」との確信に至り、予防医学を生涯の仕事とすることを決意しました。 1883(明治16)年に卒業した後、その志を実践するため内務省衛生局に入局し公務に就きます。

伝染病の先駆者

内務省衛生局入局後、1886(明治19)年から6年ドイツに留学し、細菌学者ローベルト・コッホの教えを受けて細菌学に取り組み、破傷風菌の純粋培養に成功、 さらに血清療法を確立したことで世界に名を知られます。
留学期間が終わり、帰国した彼が決意したことは、日本にも伝染病研究所をつくることでした。1892(明治25)年、福沢諭吉らからの支援を受け、現在の東京都港区芝公園にドイツのコッホ研究所、フランスのパスツール研究所と並んで、世界三大研究所といわれるまでに成長することとなる「大日本私立衛生会伝染病研究所(のちに国立伝染病研究所)」を設立します。1893(明治26)年、日本で初めての結核専門病院「土筆ヶ丘養生園」を開設し結核の予防とその治療に寄与し、1914(大正3)年には61歳で医学研究機関「北里研究所」を創立。狂犬病やインフルエンザ、赤痢などの血清開発を続けました。
破傷風の血清療法を確立し、ペスト菌発見や、北里研究所の設立など、伝染病研究に終生を尽くした柴三郎は、“日本のコッホ”とも称されました。

北里柴三郎のお墓

1931(昭和6)年6月13日、脳溢血により78年の生涯を閉じた北里柴三郎は現在、青山霊園 (19号・1種イ・2側・1-5番)で眠っています。墓石の正面には「男爵北里柴三郎之墓」と刻まれています。お墓は3段で、高さはおよそ85cmです。竿石は太く短い形で125cm、材質は灰色の花崗岩で作られています。

◆青山霊園(東京都港区南青山2丁目32番2号)

まとめ

今回は新1000円札の肖像画として選ばれた北里柴三郎の足跡とお墓を紹介いたしました。
ちなみに旧1000円札の肖像画として選ばれていたのは北里柴三郎の弟子のひとり野口英世です。今の私たちの健康的な生活があるのは、近代日本医学の礎を築いた二人のおかげと言っても過言ではありません。お札を手にするたびに感謝の気持ちを忘れないようにしたいものですね。
また青山霊園には、同じ年代を生きた大久保利通や、西郷隆盛を支えた妻イトのお墓などもあります。広い霊園内を散策し、多くの偉人のお墓参りを通して地域の文化や歴史の一端に触れてみるのもよいのではないでしょうか。

なお、本サイトでは同じく青山霊園にお墓がある人間国宝の六代目中村歌右衛門の墓所も紹介しております。こちらの記事も併せてご覧ください。
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