お役立ちコラム お墓の色々

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ファンなら一度はお参りしたい偉人のお墓 戦国編

供養・埋葬・風習コラム

ファンなら一度はお参りしたい偉人のお墓 戦国編

お墓参りの際、今後の抱負や約束事を墓前に誓う方は多いと思われます。お墓の厳かな雰囲気はこうした気持ちを引き締めるのにピッタリですし、約束事を破ると故人が見ているかのような感覚も覚悟を決めるのにはふさわしいものです。私たちは、神社やお寺にお参りするかのように、お墓参りをしている面もあるのです。
家のお墓の前で誓いを建てるのも良いですが、尊敬する偉人・生きざまに憧れる偉人のお墓に誓いを建てるのも、より一層気が引き締まって良いでしょう。本記事では、現代でもお墓参りが可能な、戦国時代の偉人の墓所を紹介いたします。有名人のお墓巡りを趣味にしている方々は「墓マイラー」と呼ばれ、実は秘かなブームにもなっています。

*お墓参りは密集・密接・密閉の危険が比較的少なく、ウィルス感染拡大の危険が低いものですが、移動中の電車などではお気をつけください。

徳川家康

征夷大将軍に任命された1603年~大政奉還が行われる1867年まで、およそ2世紀半にも渡る、世界的にも稀な長期政権を築いた徳川家康。幼少期の人質生活から始まり、武田信玄に大敗した「三方ヶ原の戦い」など、数々の苦難を乗り越えた末に天下人となった彼の姿は、「我慢強さ」の象徴として後世の人間にも度々信奉されます。
彼のお墓は、日本で一番有名と言っても過言ではないでしょう。三猿・眠り猫でおなじみの日光東照宮です。歴史の教科書で必ず勉強しているでしょうし、人によっては修学旅行で現地を訪れているかと思います。
絢爛豪華な東照宮ですが、家康を祀った五輪塔「奥社宝塔」は東照宮の一番奥の静かな場所にあります。眠り猫のあしらわれた門をくぐり、階段を上った先にある巨大な宝塔は、観光客で溢れる陽明門や本殿とは異なり、質素で神秘的な雰囲気に包まれています。

『日光東照宮』

また、実は東照宮以外にも家康の墓と言い伝えられている場所があります。
家康が遺言で遺体を埋めるよう指示した場所、それが静岡県静岡市駿河区根古屋にある『久能山東照宮』です。
家康の遺言には「自分が死んだら増上寺で葬儀を行い、静岡の久能山に遺体を納め、三河にある菩提寺に位牌を納めよ。一周忌の後は日光に勧請すること」との言葉がありました。謎を呼んでいるのは文末の「勧請」という部分です。これが「遺体を移せ」という意味なのか、それとも「(遺体はそのままに)日光で神として祀れ」という意味なのかが現代ではわからず、そのまま久能山に埋められている説と、日光に移された説の2つの説が浮上しています。当時の臣下達は、果たしてどちらの意味でとらえたのでしょうか?遺体がどちらにあるのかは、現在でも判明していません。

『久能山東照宮』

豊臣秀吉

農民から、天下人まで登り詰めた豊臣秀吉。織田信長の下で機転を利かせて出世していき、とうとう天下統一を成し遂げました。戦国時代でもっとも大成した人物と言えるでしょう。
しかし、上り調子だった若かりし頃とは裏腹に、その晩年は無理な朝鮮出兵を繰り返したり、跡継ぎだったはずの甥・秀次を、実子の誕生をきっかけに追放したりと、「暴君」の面が目立ち始めます。こうした言動・行いが諸大名の反感を買い、後継の秀頼の代には、徳川家康に天下人の座を奪われてしまうのでした。
「関ヶ原の戦い」後、「大阪冬の陣」「大坂夏の陣」と、徳川家康から徹底的に痛めつけられた豊臣家。お墓は残っているのでしょうか?
秀吉のお墓は京都府京都市東山区にある阿弥陀ヶ峰の山頂にあります。「豊国廟」と呼ばれる高さ10メートルもある五輪塔です。実は、この豊国廟は後年再建されたものです。もともとのお墓と山麓にあった社殿は、徳川家康の命で一度取り壊されています。徳川幕府にとって、豊臣一族とそれに従う者たちの反乱はもっとも危惧するところだとは思いますが、それにしても恐ろしい周到さと言えるでしょう。再建されたのは、なんと明治になってからです。社殿は、「豊国神社」という名前で、廟から徒歩30分程度の位置に再建されます。

『豊国廟』

『豊国神社』

明智光秀

2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で注目された明智光秀。織田信長の重臣でありながら、突然謀反を起こし、京都・本能寺で信長を討ちました。本能寺の変後は、同じく信長の家臣であった豊臣秀吉と「山崎の戦い」にて決戦を行い、これに敗れてしまいます。本能寺の変からわずか10日後のことでした。「明智の三日天下」などと揶揄されることもありますが、当時破竹の勢いで勢力を伸ばす織田家の野望を挫いたという意味では、良くも悪くも後世に影響を残した人物と言えるでしょう。

光秀のお墓は、実は全国で何か所かあります。ここでは、そのうちの2つをご紹介します。
1つは、自身が治めていた滋賀県大津市坂本にある「西教寺」です。西教寺は、信長の比叡山焼き討ちの際に、一緒に被害を受けましたが、光秀の手で再興されました。
現在は、「明智光秀公と一族の墓」が残っており、光秀とその妻・熙子の座像が祀ってあります。

『西教寺』

もう1つは、岐阜県山県市中洞にある中洞白山神社にある「桔梗塚」です。桔梗は明智家の家紋です。山崎の合戦で討たれたのは実は光秀の影武者で、本人は密かに故郷まで落ち伸びていたという逸話が残っています。

『桔梗塚』

正しいお墓の場所は諸説あります

偉人のお墓は諸説・複数あることが多く、本項で紹介した以外の土地にも点在しています、なので、一例として参考になさってください。しかし、決意を固くするためにお墓参りをするなら、まず大事なのはあなたの心がけです。ご自身の気持ちが引き締められる場所であれば、本当に遺体が埋まっているかどうかは、問題ではないと思います。
熾烈な時代を命がけで生き抜いた戦国武将のお墓の前で建てる誓いは、あなたの決意を一層固くしてくれるはずです。当時の彼らが「何を考え、どう生きていたのか?」、そんな思いを馳せながら、お墓参りに出かけてみましょう。

織田信長のお墓はこちらで紹介しています。
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