お役立ちコラム お墓の色々
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【遠山の金さん】は実在した?!遠山景元のお墓はどこにある?

「遠山の金さん」という時代劇をご存知でしょうか。1957年にテレビドラマが放送され、 何度もドラマ化されている時代劇で、特に杉良太郎さんや松方弘樹さんなどが演じたシリーズが有名です。実はこの時代劇は江戸時代に実在した人物「遠山景元」のエピソードをもとに作られています。景元は旗本(将軍に謁見を許された将軍家直属の家臣)で、天保年間に江戸北町奉行、大目付、南町奉行等を歴任した人物です。
奉行時代には庶民に同情的な吟味をしたと言われていますが、果たして本当にドラマのような人物だったのか、どのような人生を歩んだのか、そしてお墓はどこにあるのか。今回は遠山景元をご紹介して行きたいと思います。
複雑な家系に生まれ
1793(寛政5)年、景元(幼名:通之進)は長崎奉行を務めた遠山景晋(とおやま かげくに)の子として江戸で生まれます。
景元の家系は複雑で、景元の実父である景晋は、跡取りがいなかった遠山景好(とおやま かげよし)の養子に入ります。その後景好に実子である景善が誕生します。景晋は景好の実子である景善を養子に迎え、その景善が景元を養子にした、という経緯です。
つまり家系図上では、実父の景晋が景元の祖父で、義兄の景善が父となっています。
そんな複雑な環境もあったためか、若き日には家出をして町屋に住み、遊興に耽っていたと言われています。旧幕臣の中根香亭(なかね こうてい)の記した「帰雲子伝」には、景元が「金四郎(1809年に父の通称であった金四郎に改名)」を名乗り江戸の芝居小屋の森田座で囃子(はやし)方をつとめ、腕には入れ墨があったという話が紹介されています。
なおドラマなどでは片腕から胸、背中にかけて入った桜吹雪の入れ墨を見せ、大見得を切るシーンが有名ですが、実際どのような形でどのような模様の入れ墨が入っていたかは不明です。
しかし放蕩生活は長くは続かず、家に戻った景元は、1814(文化11)年、堀田一定(ほった かずさだ)の娘、けいと結婚します。当時の堀田家は知行(ちぎょう:武士に支給された土地)が4200石で、知行500石の遠山家とは釣り合いが取れていませんでしたが、景元は将来出世するであろうと堀田家から見込まれたのだと言われています。
10年後の1824(文政7)年末に景善が亡くなると、翌1825(文政8)年、江戸幕府に出仕します。江戸城西丸の小納戸(こなんど:将軍に近侍して日常の細務に従事する職)という役職を得ます。給料として300俵を支給され、当時徳川家の嫡男だった、のちの12代将軍徳川家慶の世話を務めました。
天保の改革、老中たちと対立
景晋が隠居して当主になった後も順調に昇進を重ねた景元は1837(天保8)年作事奉行、1838(天保9)年勘定奉行、1840(天保11)年北町奉行へと出世の階段を駆け上がります。
1841(天保12)年に徳川家斉が死去すると、老中首座(ろうじゅうしゅざ:老中の筆頭者で現代の首相相当の役職)であった水野忠邦は自らの理想とする政策を実行するため反対派を一掃したのち、老中や若年寄、勘定奉行、江戸町奉行などに、自分の賛同者を着任させました。いわゆる天保の改革の始まりです。
そんな中、北町奉行の役職にあった景元。当時の奉行は町民の裁きにくわえ江戸の町に住む人々の調査や将軍などからの命令の伝達、各地の事業の陣頭指揮など、行政や治安維持などの役割も担っていました。現代風にいうと「東京都知事兼警視総監兼裁判長」となります。多忙ではありましたが、その分町民に近い立場だったため景元は町人の生活と利益を脅かすような極端な法令の実施には反対の立場をとりました。当時南町奉行だった矢部定謙(やべ さだのり)と共に、忠邦や目付の鳥居耀蔵(とりい ようぞう)と対立することとなります。
1841(天保12)年、景元は忠邦に「町人への贅沢を禁止していながら、武士には適用していない」という意見書を提出し、「町人に対しても細かな禁止ではなく分相応の振る舞いをしていればそれでよい」と、禁止令の緩和を求めます。この意見書は家慶に提出されますが景元の意見は採用されず、忠邦は贅沢取締りの法令を奉行所から町中に張り出させました。
1842(天保13)年、耀蔵による謀略で、定謙は過去に不正を行ったとされ、南町奉行の職を罷免。士籍をはく奪され失意のうちに死んでしまいます。
その後、定謙と対立していた耀蔵が後任の南町奉行になり、権勢を誇る忠邦・耀蔵と寄席の削減についても景元は1人で対立することとなります。景元は禁止項目に入っていた女浄瑠璃(女性が演じる浄瑠璃)を出している寄席のみの営業停止を忠邦に提案しますが、忠邦は寄席そのものの全面撤廃を主張します。
芸人の失業と町人の生活の糧である娯楽が消える恐れから、景元は忠邦の主張に反対。しかし、結果として全面撤廃はされなかったものの、寄席は一部しか残らず、演目も教育物しか許されませんでした。同年11月に忠邦が耀蔵の進言を受けて芝居小屋を廃止しようとした際にも景元は反対し、浅草猿若町への小屋移転だけに留めました。この動きに感謝した関係者が、景元を賞賛する意味で、もともと評判の悪かった耀蔵らとの対立を描き、のちの『遠山の金さん』シリーズの原型となる演劇を上演し、後々にまで語り継いだと言われています。
他にも、農村から江戸に出稼ぎで来た人々を農村に帰らせる「人返しの法」という政策を実施しようとした時には、景元は「江戸から人を追い払えば、江戸は人手不足になってしまう。人手不足になると賃金も上がり物価高に陥ってしまう」と考え、「凶作の年に備え、江戸の備蓄米を充実させてはどうだろうか」と提案をしました。
こうして景元は、町人の生活を考え、厳しいと思う政策には堂々と反論していったのです。その後も事あるごとに対立を続けた景元は、耀蔵の策略によって北町奉行を罷免され、地位は上がるものの実質権限のない大目付に転任させられてしまいます。
南町奉行に就任
1843(天保14)年に忠邦が天保の改革の失敗により罷免されると、耀蔵は反対派に寝返って地位を保ちます。しかし翌1844(弘化元)年に忠邦が老中に復帰すると耀蔵は失脚。忠邦の弟である跡部良弼(あとべ よしすけ)が後任として南町奉行に就きました。しかし、再び罷免となった忠邦の煽りを受ける形で良弼が罷免されたため、景元が南町奉行として江戸の町に戻ってきます。同じ人物が南北両方の町奉行を務めたのは、当時としても極めて異例のことでした。
南町奉行在任中、景元は株仲間(商工業者が結成した企業連合)の再興に尽力したり、床見世(屋台など、居住しない店舗)の存続を幕府に願い出て、これを実現させました。制限されていた寄席の復活にも寄与し、規制が撤廃され元通りとなりました。
忠邦の引退後、老中首座の地位に就いた阿部正弘からも重用され、1851(嘉永4)年の赦律(しゃりつ:恩赦に関する法令)編纂にも関わったとされています。
1852(嘉永5)年に隠居して家督を嫡男の景纂(かげつぐ)に譲り隠居。俳句を読んだりしながら、のんびりと余生を過ごしたと言われています。
そして隠居から3年後の1855(嘉永8)年に名奉行・遠山景元はその生涯を閉じました。享年63歳でした。
遠山景元のお墓はどこにある?
景元は現在、東京都豊島区の本妙寺で眠っています。「名奉行・遠山金四郎景元の墓」と書かれた標柱が目印です。向かって左側に五輪塔があり、そこに景元の戒名「帰雲院殿従五位下前金吾校尉松僲日亨大居士」の文字が刻まれています。右側には、まるで巨大な岩がそそり立っているかのような墓石があり、「遠山氏先塋之碑」の文字が彫られています(「塋/つか」は墓地などを意味する漢字です)。本妙寺は元々文京区本郷にありましたが、本妙寺が1911 (明治44)年この地に移転した際に、景元のお墓も改葬されました。
ちなみに本妙寺は1657 (明暦3)年に起こった、江戸時代最大の火災と言われる明暦の大火(振袖火事)の火元となったとされていますが、真偽は不明です。
【遠山景元の墓】東京都豊島区巣鴨5丁目35−6 本妙寺内
まとめ
倹約は美徳ではあるものの、町民に寄り添った立場から文化や芸能を厳しく規制することには否定的だった景元。結果として人々の娯楽を守った景元(遠山金四郎)の人気は絶大で、当時(江戸時代)から寄席での講談や歌舞伎の題材として何度も上演されるほどでした。実際にはドラマのような名裁きをした記録はほとんどありません。しかしながら、町民のことを思い、町民のために動いた景元は間違いなく「名奉行」だったのではないでしょうか。
景元のお墓を参ることによって、権力に屈せず、間違いだと思うことに対してははっきりと反対していた景元が心に抱いていた強い信念や熱い想いを感じ取る事ができるかも知れません。もしかしたら「遠山の金さん」の名場面も頭の中で巡ってくるかもしれませんね。
また本妙寺の境内には、同じ時代を生きた北辰一刀流の創始者・千葉周作のお墓もあります。時代劇ファンの方はもちろん、その時代が好きな方や少し興味を持った方はもし近くに行くことがあれば是非立ち寄って、一緒に参られてみてはいかがでしょうか?
今でも受け継がれる想いや絆があふれる場所お墓。一緒に訪れた人との語らいの時間にもなるのがお墓参りです。教科書や作品でしか知らない有名人・著名人ですが、お墓を巡ることで、実際にその人が生きていた時代を感じることができるでしょう。
マナーに十分に注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょうか。
なお、 景元と同じように享保の改革に反対し、「暴れん坊将軍」吉宗と対立した「徳川宗春」関する記事もございます。併せてご覧ください。