お役立ちコラム お墓の色々

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【信長が寵愛した小姓】森蘭丸のお墓はどこにある?

墓地・墓石コラム

多くの作品でも取り上げられ、近年では「ババンババンバンバンパイア」というアニメの主人公にもなっている森蘭丸(もり らんまる)。2025年7月には実写映画も公開されます。森蘭丸は小姓として信長の傍を離れず、忠誠をつくし、信長と最期を共にした人物で、信長の寵愛をいちばんに受けたと言われています。

果たして森蘭丸はどのようにして信長お気に入りの小姓になったのか、信長と運命を共にしたその覚悟とは、そしてそのお墓は一体どこにあるのかをご紹介して行きたいと思います。

※蘭丸が生きた時代には蘭の文字がなく、実際は「森乱」や「乱丸」などと記述されていますが、本記事内では蘭丸で表記します。

13歳で信長に仕える

1565(永禄8)年、尾張の葉栗郡(現在の愛知県一宮市)に、織田信長の家臣であった森可成(もり よしなり)の三男として蘭丸は生まれます。ちなみに蘭丸という名前は幼名で、本名は成利(なりとし/一説には長定 ながさだ)です。父の可成は、信長の家臣として若き日の信長を支えていた重臣でした。この頃の信長は今川義元を倒した直後で、武将としての頭角を現していました。そして父と同じく蘭丸も13歳で織田家に出仕。小姓として信長に忠誠を誓うこととなりました。出仕後、信長のもうひとりの小姓で寵愛を受けていた万見仙千代重里(まんみせんちよ しげさと)というという検使役(戦場視察や領内調査な雑多で重要な役目)の男がいましたが、1578 (天正6)年12月に戦死してしまいます。翌年そのポストを継いだのが蘭丸で、この時15歳です。

「小姓」とは、主君の身の回りの世話から秘書的な仕事までを担う役目です。さらに蘭丸が引き継いだ検使役や戦場では馬廻衆(うままわりしゅう)と共に本陣を固める務めも果たします。

ちなみに『森家先代実録』という書物に「容姿端麗はもちろんのこと、その立居振舞いが完璧すぎて、驚いた」との記述があり、創作作品では美少年に描かれることが多い蘭丸ですが、当時の美的感覚や親兄弟の勇猛ぶりから、史実では美丈夫であったことが伺えます。

気遣いの人・蘭丸

有能で人格を兼ね備えていた蘭丸は信長に大層気にいられていたようですが、それだけではなく、誠実さや正直さも気に入られていたようです。刀身に不動明王が彫られた「不動行光(ふどうゆきみつ)」という短刀を持っていた蘭丸。実は元々信長の持ち物でした。信長は事あるごとに「不動行光」を自慢していました。

ある時小姓たちに愛刀を自慢した際、おもむろに不動行光をから抜いた信長は、小姓たちに「刀の鍔に刻まれた模様の数を当ててみよ」と聞きました。

小姓たちが当てずっぽうで数をいうなか、蘭丸は黙して語りませんでした。信長が「なぜ答えんのだ」と聞くと「私は既に答えを知っております。知らないふりをして答えることはできません」と一言いいました。

信長の小姓として常にそば仕えをしている蘭丸は、厠に行く際に預かったことがあったため、その際に数えたことがあるのです。信長はその正直さに感心し、信長の愛刀であった「不動行光」を与えたそうです。

またある時、かごいっぱいのみかんを運んでいた蘭丸に向かって、すれ違いざまに信長は「そんなに沢山運んでいると転ぶぞ」と言いました。そしてその通り、蘭丸は転びます。信長は笑ってその場を立ち去りました。後日「なぜ注意を聞かなかった?」と他の小姓に聞かれた蘭丸は「殿様が倒れるぞと仰せになったのに、みかんの台を転ばずにきちんと運んでしまえば、殿様の考えが誤ったことになります。それで、わざと倒れたのです。何事にせよ殿様の誤りになってしまうのはいけないことです」と言いました。つまり蘭丸は、信長に恥をかかせないようわざと転んだのです。他にも「信長の爪拾い」や「ふすま閉め」など数々の気遣いあふれるエピソードがあります。

今で言うと「あざといヤツ」となるのでしょうが、持ち前の誠実さで気遣いの一環として行っていた蘭丸は、武士としての武勲はあげていないもののその有能な働きぶりをもって認められ、小姓でありながら5万石(1万石以上で大名扱いとされる。5万石の資産価値は25億円ほど)を与えられるなど、信長の寵愛を受けることとなります。

森蘭丸のお墓はどこにある?

1582年(天正10年)6月「本能寺の変」が起こります。前日に博多の豪商を正客に迎えた、織田信長自慢の茶道具を披露する茶会が行われていたため、本能寺には信長や蘭丸の他に、小姓集や中間衆(ちゅうげんしゅう/身分の低い使用人)、さらには女性なども合わせて100人程が滞在していたとされています。

光秀率いる明智軍はおよそ13000の軍勢で本能寺を包囲します。その時信長と蘭丸は殿舎(本堂)にいたとされています。 蘭丸は、実戦経験が乏しいながらも主君を護ろうと他勢の明智軍を相手に最後まで奮戦します。しかし光秀の配下安田国継(やすだ くにつぐ)に討たれ戦死。わずか18歳という若さで、その生涯を終えました。

蘭丸は現在、岐阜県可児市兼山にある可成寺(かじょうじ)で、父や兄弟たちと静かに眠っています。

3つ並んだ「五輪塔」と呼ばれる墓石の真ん中にあるのが蘭丸のお墓で、向かって左に4男の坊丸のお墓が、右には5男の力丸のお墓があります。兄弟仲良く並んでいるようにも見える墓石は石垣の上に建立されていて、高さはおよそ2mほど。墓石に文字は刻まれていませんが、それぞれに卒塔婆があり戒名が書いてあります。 そのほか、京都の阿弥陀寺には信長・信忠親子のお墓があり、主君を死後も守るように蘭丸をはじめ森三兄弟や、家臣複数名のお墓も並んで建っています。

可成寺】岐阜県可児市兼山596

【蓮台山 阿弥陀寺】京都府京都市上京区鶴山町14

まとめ

現代では創作作品などの影響もあり、単に「信長のお気に入りの秘書」というイメージが強い森蘭丸ですが、実際は「信長の寵愛をいちばんに受けた小姓」として、その寵愛に報いて余りある忠義や誠実さをもって信長に仕えていたことがわかっていただけたのではないでしょうか。 信長に「自慢できるもの」として「第一に白斑の鷹、第二に青の鳥、そして第三に蘭丸」と言わしめるほどに寵愛されていた蘭丸は、敵にも認められる素質があったようです。

上杉謙信の領地にスパイとして潜入したものの上杉側にばれてしまい、自害しようとした蘭丸を見込んだ上杉謙信は自害をやめるよう諌めます。それだけではなく、謙信は蘭丸に「城下を自由に見て回って良い」と許可したと言われています。

ひょっとしたら蘭丸は、今で言うカリスマのような魅力を持っていたのではないでしょうか。今となっては絵すらも残っていないため知る術はありませんが、蘭丸のお墓を参ることでそのカリスマ性や、信長へのひたむきな忠誠心を感じ取ることができるかもしれません。

今でも受け継がれる想いや絆があふれる場所お墓。一緒に訪れた人との語らいの時間にもなるのがお墓参りです。教科書や作品でしか知らない有名人・著名人ですが、お墓を巡ることで、実際にその人が生きていた時代を感じることができるでしょう。

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