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『光る君へ』京都のどこに?藤原道長の墓がある宇治綾

墓地・墓石コラム

『光る君へ』京都のどこに?藤原道長の墓がある宇治綾

2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」は、平安時代の貴族社会を舞台に、世界最古の長編小説『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の、波瀾万丈な生涯を描いた物語です。

ドラマでは、『源氏物語』の主人公「光源氏」のモデルの一人とも言われる藤原道長(演:柄本佑さん)との恋愛模様も描かれています。

藤原道長は、天皇に代わって政治を主導し、藤原家の全盛期を築いたとも言われる人物ですが、現在はどこに眠っているのでしょうか。今回は、道長の生涯とともに、そのお墓について解説していきます。

藤原道長の生涯

五男でありながら出世して左大臣に

「藤原家」は、飛鳥時代の貴族で大化の改新を推進した政治家・中臣鎌足(なかとみのかまたり/後に藤原鎌足)から続く、日本を代表する貴族です。平安時代中期には、娘を天皇に嫁がせ、生まれた孫を天皇に立てることで天皇の外戚(母方の親戚)となり、幼い天皇を補佐する「摂政」や成人した天皇を補佐する「関白」の役職について天皇に代わって政治を行う「摂関政治」を行い、政治の実権を握っていました。

966年(康保3年)、藤原家の中でも摂政や関白を多く輩出していた家系にあり、自身も摂政・関白を務めた藤原兼家(ふじわらのかねいえ/演:段田 安則さん)の五男(一説では四男)として生まれたのが藤原道長です。

大きな権力を持つ家系に生まれたものの、五男ということで目立たない存在だった道長ですが、父の兼家や兄が早くに亡くなり、その後の権力争いに勝つことで、太政官(政治の最高機関)の事実上の最高位とも言える左大臣に昇りました。

娘たちを次々と中宮(皇后)に立て、藤原家の全盛期へ

999年(長保元年)、道長は長女の藤原彰子(ふじわらのあきこ、しょうし/演:見上愛さん)を一条天皇の中宮(ちゅうぐう/皇后)として嫁がせ、続いて次代の三条天皇が即位すると、次女である藤原妍子(ふじわらのけんし、きよこ)を中宮としました。

更に、彰子の子で道長の孫である敦成親王(あつひらしんのう)が数え8歳にて後一条天皇(ごいちじょうてんのう)として即位すると、道長は外祖父(母方の祖父)として摂政となりますが、わずか1年でその座を長男の頼通(よりみち)に譲り、後一条天皇には三女の藤原威子(ふじわらのいし/たけこ)を嫁がせて中宮としました。
このように、一人の大臣の娘が天皇三代すべての皇后に立つことは前代未聞であり、「一家立三后(いっかりつさんごう)」と言われるなど周囲を驚かせたと伝えられています。

この時に、威子の立后を祝う宴で道長が詠んだと言われるのが、有名なこちらの和歌です。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」

この頃が藤原家の全盛期とも言われ、その栄華を誇ったものだとの解釈が一般的ですが、娘三人が皇后となったことを「満月のように欠けていない」と表し喜びを表現した、これから欠けていく満月に例えて栄華の儚さを表現したなど、さまざまな意味で解釈されています。

紫式部との関係

道長は、実は文学好きであり、歌の出来栄えを競う歌合(うたあわせ)などを積極的に開いていただけではなく、娘・彰子に仕えた紫式部や和泉式部など女流文学者を支援したと伝えられています。

特に、紫式部が彰子の女房となる際には道長が宮中に呼び寄せたとされ、『源氏物語』の続きを書くよう依頼していたとも言われています。これは、中宮となった彰子が、文学好きの一条天皇に気に入られるための策だったとも考えられています。

道長は源氏物語の主人公「光源氏」のモデルの一人とも言われ、ドラマのように惹かれあっていたかは分かりませんが、道長と紫式部は支え合っていたと言えるのかもしれません。

一説によると、道長が彰子の母となる源倫子(みなもとのりんし、みちこ、ともこ/演:黒木華さん)と結婚した際、紫式部が倫子付きの女房(身の回りの世話をする女官)として仕えていた可能性があるとされ、道長と倫子両方からの厚い信頼があったのではないかとも言われています。

仏教を深く信仰した道長の晩年

栄華をきわめた道長ですが、この頃から健康状態が良くなかったと言われています。
仏教を深く信仰していたと言われる道長は、1019年(寛仁3年)に出家すると、自身の邸宅の隣に「法成寺」(現在の京都市上京区)を建立し、晩年はそこで過ごしました。法成寺は「東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)」と呼ばれる大通りのそばに建てられたことから「京極御堂」とも呼ばれ、それを完成させた道長も、関白になったことはありませんが「御堂関白」「御堂殿」と称されるようになりました。
この建物は、広大な敷地に数々の堂舎が立ち並ぶ大規模なものだったと言われています。

1027年(万寿4年)、自らの死期を悟った道長は、法成寺にある阿弥陀堂で9体の阿弥陀如来の手と自分の手とを糸で結んで横たわり、僧侶たちの読経の中、自身も念仏を口ずさみながら最期を迎えたと伝えられています。

藤原家の墓所「宇治陵」

藤原家の墓所は、京都府宇治市小幡(こはた)の「宇治陵(うじりょう、うじのみささぎ)」にあります。
宇治綾とは、宮内庁が管理している陵墓群で、宇治市の東北部の丘陵に37ヶ所の陵墓が点在しています。この辺り一帯は、古墳時代から多くの墓が築かれた土地であり、1877年(明治10年)に行われた宮内庁の調査において、藤原家から天皇家に嫁いだ女性や親王のもととされる20ヶ所が「小幡陵」と定められ、その後37ヶ所に拡大されて「宇治陵」と名づけられました。

「陵墓」とは、天皇家の墓を指す言葉です。しかし、平安時代にはこの辺りが藤原家の埋葬地となっており、天皇家に入った女性たちも生家である藤原家の墓所に埋葬されたことから、道長らの墓所も含めて陵墓とされることとなったようです。

また、かつては、道長が藤原家の菩提を弔うために建てたとされる浄妙寺が、現在の木幡小学校の辺りにあったことも明らかになっています。

特徴

37号までの陵墓はそれぞれ、住宅街や茶畑の中に点在しており、広さも様々です。陵墓域は柵や生垣などで囲まれ、「宇治陵 宮内庁」と刻された石標が立てられています。門は閉められており中に入ることはできず、現在は草木が茂った状態となっています。

1号墳が総拝所となっており管理事務所があります。説明板には、道長の娘で天皇に嫁いだ彰子、妍子、威子など、藤原家から天皇に嫁いだ女性や親王ら20人の名前が記されています。また、「藤原氏塋域」(塋域とは墓所のこと)と記された石碑も残されており、こちらには道長のほか、父・道兼や兄・道隆の名前も刻まれています。

道長の墓

実は、どの陵墓に誰が眠っているのかは特定されていません。
中には、伝承として藤原家の人物の墓と伝えられているものもあり、32号墳が道長の墓という説もあります。

一方で、道長が藤原家の菩提寺として建てたとされる浄妙寺跡の発掘調査が進み、小幡小学校の東側から、現在は重要文化財に指定されている「青磁の水注ぎ」が発掘されました。これは道長の骨壺ではないかとの説もあり、また、書物に残る「道長の長男・頼通が、浄妙寺の大門より東に行き、道長の墓所に参った」との記録とも相違がないことから、この辺りに道長の墓があるのではないかという説が有力視されています。

道長の供養塔

東北院(とうぼくいん)は、道長の長女・彰子(その頃は国母上東門院)が建てたと伝わる、京都市左京区にある寺院です。
道長の死後、道長が建てて晩年を過ごした法成寺の一角に建立され、彰子はここで晩年を過ごしたと伝えられています。
境内には、本尊とともに藤原道長の衣冠束帯姿の像が安置され、供養等も残されています。

東北院には、紫式部とともに彰子に仕えた和泉式部が植えたとされる梅の木が残されており、道長の供養塔は、和泉式部のものとされる供養等と並んで安置されています。
小型の五輪塔のように見えますが、笠の上の「空輪」「風輪」と呼ばれる部分は欠損しており、本来は方形(四角い形)で1番下を支える「地輪」と呼ばれる部分は丸くなっています。

五輪塔についてはこちらで詳しく解説しています。
五輪塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

まとめ

平安貴族としての栄華をきわめた藤原道長ですが、晩年を過ごした法成寺、菩提寺として建立した浄妙寺はどちらも、度重なる火災などによって廃絶し、詳しい埋葬地はわかっていません。しかし、その生涯は多くの書物などによって語り継がれ、多くの人が知る人物として歴史に名を残しています。

宇治陵では、ドラマでお馴染みの登場人物の名前も見ることができ、ドラマの世界をより身近に感じることができるでしょう。また現在、浄妙寺の発掘調査なども進められており、今後明らかになることもあるかもしれません。
ドラマにも登場する平安貴族たちの、ゆかりの地でもある京都。ぜひ足を運び、道長らとともに育まれた平安文化や文学の世界に触れてみてはいかがでしょうか。

「光る君へ」の主人公・紫式部や、京都に残されている偉人のお墓についてはこちらの記事で紹介しています。
『光る君へ』地獄に落ちたって本当?「源氏物語」の作者・紫式部のお墓

今こそお参りしたい偉人のお墓 京都編

宇治綾(総拝所1号墳)へのアクセス

自動車

京滋バイパス(国道1号)「宇治西IC」から約12分/「宇治東IC」から約8分

鉄道

JR奈良線 「JR木幡駅」から徒歩約10分
京阪電鉄宇治線「京阪木幡駅」から徒歩約10分下車