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『光る君へ』地獄に落ちたって本当?「源氏物語」の作者・紫式部のお墓

墓地・墓石コラム

『光る君へ』地獄に落ちたって本当?「源氏物語」の作者・紫式部のお墓

2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」は、平安時代の貴族社会を舞台に、世界最古の長編小説『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の、波瀾万丈な生涯を描いた物語です。
ドラマでは、『源氏物語』の主人公「光源氏」のモデルの一人とも言われる藤原道長(演:柄本佑さん)との恋愛模様も描かれています。

今回は、現代まで伝わる人気小説を残した紫式部の生涯について解説しつつ、そのお墓をご紹介していきます。

紫式部の生涯

幼少期から才覚を発揮

紫式部が生まれたのは、970~978年(天禄元年~天元元年)頃だと言われています。
平安時代中期の漢詩人であり、和歌や漢学にも秀でていたことから第65代・花山天皇の教育係も務めたとされる藤原為時(ふじわらのためとき/演:岸谷五朗さん)を父に持ち、幼い頃から文才にたけていたと言われています。父・為時が紫式部の兄弟に漢文を教えていたところ、そばで見ていた紫式部の方が早く覚えてしまうのを見て、「この子が男の子であったら」と残念がったという逸話も残されています。

『源氏物語』の執筆

998年(長徳4年)頃に結婚し一女を儲けましたが、わずか3年ほどで夫と死別。『源氏物語』の執筆を始めたのはこの頃とされており、一説には、夫を失った悲しみや寂しさを乗り越えるためだったとも伝えられています。

源氏物語はすぐに評判となり、それが貴族の有力者である藤原道長に伝わったことで、その娘で一条天皇の中宮(ちゅうぐう/皇后)となった藤原彰子(ふじわらのあきこ、しょうし/演:見上愛さん)の女房(身の回りの世話をする女官)として宮仕えすることとなり、教育係を任されることとなります。その間も『源氏物語』の執筆は続き、多くの貴族に読まれたと言われています。印刷技術のなかった時代ですが、人の手で書き写す「写本」によって広く後世まで伝わることとなりました。

「紫式部」という名前の由来は?

平安時代、貴族階級の女性は実名を公にしないことが多く、また中宮(皇后)になった場合以外は生没年などの詳しい記録が残されないことが一般的であったため、紫式部をはじめ、清少納言や和泉式部も、その本名は分かっていません。

紫式部が中宮彰子の女房として宮仕えした当時は、「藤式部(とうしきぶ)」と呼ばれていました。これは父親である藤原為時の名字と「式部丞(しきぶのじょう)」という役職名から付けられたものです。その後『源氏物語』の登場人物「紫の上」にちなんで「紫式部」と呼ばれるようになったと言われています。

紫式部の最期

前述のように、亡くなった時期や年齢などについても、詳しい記録は残されていません。この時代の作品や資料から研究が進められていますが、早くは1012年(長和元年)、遅いものでは1031年(長元4年)と、さまざまな説が存在しています。

紫式部はその生涯で、『源氏物語』のほか、宮中の様子などを記した『紫式部日記』、自らが詠んだ和歌をまとめた『紫式部集』などを執筆しました。また、多くの人に知られている『百人一首』57番に収められた歌、「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」のほか、多くの歌を残しています。

『光る君へ』地獄に落ちたって本当?「源氏物語」の作者・紫式部のお墓

紫式部墓所(京都市北区)

晩年を過ごした地にあるお墓

紫式部の墓所と言われる場所は、京都市北区、堀川北大路の交差点の近くにあり、平安時代に活躍した官僚であり歌人の小野篁(おののたかむら)の墓と隣り合って建てられています。

この辺りはかつて、紫式部が生まれ、そして晩年を過ごしたとされる雲林院の境内であったと伝えられています。『源氏物語』について書かれた『河海抄(かかいしょう)』などの書物に、「紫式部の墓は雲林院の小野篁の墓の西にあった」と記されていることから、この場所が墓所として長年守られてきたようです。

小野篁との関係は?

小野篁(おののたかむら)は遣隋使であった小野妹子(おののいもこ)の子孫で、平安時代前期に活躍した官僚です。参議篁(さんぎのたかむら)という名前で小倉百人一首に選ばれている歌人・詩人でもありますが、紫式部との接点はありません。それなのにお墓が隣り合っているのは、なぜなのでしょうか。

実は、小野篁は、「閻魔大王の裁判を補佐していた」という伝説を持つ人物です。
一説によると、紫式部は、真実ではない空想の色恋の物語を書き人々を惑わせたことで、死後は地獄に落ちたと言われるようになり、地獄の役人である小野篁に救済を祈願するため、ここに墓が建てられたと伝えられています。

お墓の特徴

墓所の入り口には、右に「紫式部墓所」と刻まれた石碑が、左に「小野篁卿墓」と刻まれた石柱が建てられており、石畳の通路を奥に進むと2つの墓が並んでいます。向かって左側(西側)が紫式部の墓です。
「紫式部墓」と刻まれた石柱の奥に土が盛られた小さな墳丘があり、その上に高さ約80センチほどの五輪塔が建てられています。

五輪塔について詳しくは、こちらをご覧ください。
五輪塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

他にもある紫式部の供養塔

千本ゑんま堂 引接寺 紫式部供養塔(京都市上京区)

この寺院は、前述にて、紫式部と墓が隣り合っていることで紹介した、小野篁が開いたと伝わる寺院です。ここに、高さが6m、十層もある花崗岩製の石造層塔が残されています。1386年(至徳3年)に建てられたとされ、国の重要文化財にも指定されている石塔です。こちらも、上で紹介した京都市北区の墓所同様、地獄に落ちたとされる紫式部の成仏を願って建てられたとされ、雲林院からこちらに移されたとも伝えられています。

石山寺 紫式部供養塔(滋賀県大津市)

滋賀県の石山寺(いしやまでら)は、二重塔としては日本最古と言われ国宝に指定されている多宝塔が有名な寺院です。
この境内にある紫式部の供養等は、宝篋印塔(ほうきょういんとう)を3つ重ねた三重宝篋印塔と呼ばれる珍しい形をしており、1番下の塔身の4面には仏像が彫られています。宝篋印塔とは、四角い塔身の上に、段型で四隅に耳飾りのついた笠を乗せた形の供養塔です。

宝篋印塔について詳しくはこちらをご覧ください。
宝篋印塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

石山寺は多くの文学者が参詣したことでも知られ、紫式部もここで『源氏物語』の着想を得たと伝えられています。また、紫式部の霊が登場する能の演目「源氏供養」の舞台にもなっています。

恵日院 慈眼堂 紫式部供養塔(滋賀県大津市)

恵日院(えにちいん)の境内にある慈眼堂(じげんどう)は、織田信長の比叡山焼き討ち後、延暦寺の復興に尽力したとされる僧侶、天海を祀る廟所で、国の重要文化財に指定されています。慈眼堂の隣には墓所があり、そこに桓武天皇の御骨塔などの他、紫式部、清少納言、和泉式部の供養塔が建てられています。大型の五輪塔のようですが、紫式部のものは笠の部分がない形をしています。

天平の丘公園 紫の五輪塔(栃木県下野市)

栃木県有数の桜の名所として知られる天平の丘公園の中に、紫式部の墓と伝えられている大型の五輪塔があります。鎌倉時代のものと考えられていますが、建てられた詳しい経緯などは分かっていないようです。この辺りの地名が「紫」であることから、紫式部の墓と伝えられるようになったとされています。

神戸市藍那駅そば 紫式部墓

神戸市北区の南側に位置する、藍那(あいな)地区。「国営明石海峡公園神戸地区・あいな里山公園」の最寄り駅である、神戸電鉄・藍那駅の線路わきに立つ宝篋印塔が、紫式部の墓と伝えられています。高さは1.7mで、「永和二年七十四」(1374年7月14日) と刻まれているようです。由来などは不明とされていますが、地域に残る史跡として大切に守られているようです。

まとめ

平安時代の女性は、貴族であってもその記録はほとんど残されていません。そのような中でも紫式部の名が広く知られ、各地で供養されてきたのは、残した歌や物語とともに時代を超えて人々に敬愛されてきた証と言えそうです。

京都や滋賀は、平安時代や、女流文学者とゆかりの深い地でもあります。ぜひ現地を訪れ、紫式部が生き、『源氏物語』が生まれた時代に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。

京都に残されている、偉人の墓や文化財については、こちらでも紹介しています。
今こそお参りしたい偉人のお墓 京都編

一度は見ておきたい重要文化財/美術品シリーズ・京都の旅編・その4

紫式部墓所へのアクセス

自動車

京都駅より約15分
京都縦貫自動車道 「沓掛IC」より約25分
名神高速道路 「京都東IC」または「京都南IC」より約20分

鉄道

京都市営地下鉄 烏丸線「北大路駅」下車
→北大路バスターミナルより 市バス 佛教大学・鷹峯源光庵・玄琢行き「北大路堀川」下車 徒歩約3分

バス

市バス 「北大路堀川」下車 徒歩約3分(京都駅より約30分)