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【逃げ上手の若君】弓の名手・小笠原貞宗のお墓はどこにある?

墓地・墓石コラム

先日アニメ第2期が終了した「逃げ上手の若君」に登場する小笠原貞宗(おがさわら さだむね)は、主人公・北条時行の前に立ちはだかる因縁の武将の一人です。優れた弓術と鋭い観察眼で、時宗の実力を見抜き、影の師匠的側面を持ちつつ、お互いの実力を認め合うライバルとして描かれています。

史実においても、貞宗は鎌倉幕府滅亡後の動乱期に活躍した武将でした。足利尊氏に従って勢力を伸ばし、信濃国の守護を務めたほか、後世には徳川将軍家の公式礼法にもつながる小笠原流礼法の中興の祖としても知られています。北条時行や新田義貞、足利尊氏らが入り乱れた南北朝時代。貞宗はどのような生涯を送り、どこに眠っているのでしょうか。 今回は、小笠原貞宗の生涯や功績を振り返りながら、お墓の場所についてご紹介します。

弓の名門・小笠原家に生まれる

小笠原貞宗は、1292(正応5)年に生まれたとされています。小笠原氏は清和源氏の流れをくむ武家で、弓馬術に優れた一族として知られていました。

貞宗が生きた鎌倉時代後期は、幕府の支配体制が揺らぎ始めた時代です。元寇以降、御家人たちの間では恩賞や所領をめぐる不満が高まり、幕府の権威も次第に低下していきました。こうした中、後醍醐天皇による討幕運動が起こります。1333(元弘3)年、新田義貞らの挙兵によって鎌倉幕府は滅亡。政治の中心は大きく変化し、武士たちは新たな権力関係の中で自らの立場を築いていくことになります。

貞宗もまた、この激動の時代を生きた武将の一人でした。

北条時行と対峙した信濃の武将

鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は天皇を中心とした政治を目指す「建武の新政」を始めました。しかし、武士への恩賞や土地をめぐる問題などから不満が高まり、政権は次第に不安定になっていきます。

1335(建武2)年には、北条高時の遺児である北条時行が挙兵しました。鎌倉幕府の再興を目指したこの反乱は「中先代の乱」と呼ばれています。

時行の軍勢は一時的に鎌倉を奪還しましたが、足利尊氏が討伐に乗り出すと、敗れて再び逃れることになりました。

この時代、貞宗は信濃国を拠点に勢力を伸ばしていきます。1334(建武元)年頃には信濃国内で大きな影響力を持ち、翌年には信濃守護として活動したとされています。信濃国は、時行を支援する勢力とも関係が深い地域です。貞宗は尊氏方の武将として、信濃における支配体制の確立に関わりました。

『逃げ上手の若君』では、貞宗は卓越した弓術と鋭い観察眼を持ち、主人公・北条時行の才能を見抜いて追い詰める敵将として描かれています。時行の逃げる能力を警戒しながらも、その非凡さを認める貞宗の姿は、単なる敵役にとどまらない存在感を放っています。こうした人物像には作品独自の演出も含まれますが、史実の貞宗もまた、南北朝時代の動乱の中で信濃国を拠点に活躍し、武将として確かな足跡を残した人物でした。

足利尊氏に仕え、武士の礼法を伝える

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇と足利尊氏は対立し、やがて朝廷は南朝と北朝に分かれました。尊氏は京都に室町幕府を開き、各地の武士を従えて新たな政権を築いていきます。

貞宗は尊氏に従い、武将として活動しました。信濃守護を務めたことからも、当時の政治・軍事体制の中で一定の地位を築いていたことがうかがえます。

また、貞宗の名は武士の礼法や弓馬術の歴史にも深く刻まれています。小笠原氏は弓馬術や礼法を伝える名門として知られ、後に「小笠原流」として武家社会に大きな影響を与えました。武士にとって弓馬の技術は戦場で必要な能力であると同時に、身のこなしや礼節を含めた武家文化そのものでした。
貞宗は後醍醐天皇の弓馬の師をつとめ、「小笠原は武士の定式なり」との御手判と「王」の字をあしらった家紋を授けられたと伝えられています。小笠原流礼法の中興の祖とも称えられる貞宗は後に尊氏に仕えることになりますが、その技量を認められ、小笠原家は代々将軍家の弓の師範を務めました。

小笠原貞宗の最期

晩年は京都とのかかわりも深かった貞宗は1347(正平2・貞和3)年5月26日、京都で亡くなったとされています。55歳の生涯でした。

その死後も、小笠原氏は信濃国を中心に勢力を保ち、後世には信濃守護を務める一族として発展していきます。時代が下ると一族内での争いや領地をめぐる動きも生じますが、後に徳川家康にも仕え、徳川幕府を支える有力譜代大名にもなっていきます。

貞宗の名は、南北朝時代の武将としてだけでなく、弓馬術や礼法を伝える小笠原家の歴史の中にも刻まれています。

小笠原貞宗のお墓はどこにある?

小笠原貞宗の墓所は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院、禅居庵(ぜんきょあん)に伝わっています。禅居庵は、建仁寺の塔頭寺院です。貞宗は中国から渡来した禅僧・大鑑清拙正澄(だいかん せいせつ しょうちょう)禅師に帰依し、信濃国伊那に開善寺を創建したことでも知られています。禅居庵は、貞宗ゆかりの寺院として現在までその歴史を伝えています。

境内には、貞宗が信仰したとされる摩利支天を祀る摩利支天堂があります。摩利支天は、古くから武士などに信仰されてきた神で、開運や勝利のご利益があるとされています。禅居庵の摩利支天堂は、貞宗によって創建されたと伝えられています。禅居庵では貞宗の命日にあたる5月26日に毎年、小笠原貞宗忌が営まれ、摩利支尊天堂に位牌が祀られます。

貞宗のお墓はこの時代の武士のお墓に多く見られる、石造りの五輪塔と言われていますが、貞宗の墓所そのものは非公開です。訪問の際は、公開されている境内を参拝する形となります。墓所への立ち入りはできないため、現地を訪れる場合は寺院の公式案内をご確認ください。

【禅居庵 摩利支天堂】京都府京都市東山区小松町146

まとめ

小笠原貞宗は、南北朝時代の動乱を生き抜いた武将であり、後世へ受け継がれる小笠原流礼法の発展にも大きな足跡を残しました。

『逃げ上手の若君』では、時行の前に立ちはだかる個性的な敵将として描かれています。作品をきっかけに貞宗の生涯をたどると、激動の時代を生きた武将としての一面だけでなく、後世へと受け継がれた小笠原氏の歴史にも目を向けることができます。

墓やゆかりの寺院を訪ねることは、歴史上の人物の生涯を知り、その足跡をたどる機会にもなります。小笠原貞宗のゆかりの地を訪ねると、武将として乱世を生き抜いた貞宗の姿や、弓馬術・礼法を現代まで受け継いできた小笠原氏の歴史を感じることができるかもしれません。

お墓は、亡くなった人を悼む場所であると同時に、その人が生きた時代や功績を今に伝える場所でもあります。 著名人のお墓だけでなく、ご自身のご家族のお墓も同じように、その人が歩んだ人生や思いを静かに語りかけてくれる場所です。 お墓に向き合う時間は、故人を偲ぶだけでなく、自分自身の生き方や家族とのつながりを見つめ直すきっかけにもなるでしょう。

お墓の継承や建て替え、墓じまいなどで迷った際は、石材店に相談することで、状況に合った最適な方法を提案してもらえます。

お付き合いのある石材店がない場合は、以下の記事を参考に信頼できる石材店を選ぶことが、お墓の悩みを解決する第一歩です。

マナーに十分注意しながら、訪れることができるお墓を巡ってみてはいかがでしょう。

◆【保存版】お墓参りのマナーや常識 5つのポイント

◆古くて新しい?お墓を巡礼する墓マイラーとは

小笠原貞宗と対峙した北条時行や、貞宗が仕えた足利尊氏についても、それぞれのお墓や生涯を紹介した記事があります。あわせてお読みください。

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