お役立ちコラム お墓の色々

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【幕末四大人斬り】人斬り以蔵・岡田以蔵のお墓はどこにある?

墓地・墓石コラム

幕末という激動の時代、多くの志士たちがそれぞれの理想を掲げ、日本の行く末を変えようと立ち上がりました。
その中でも、ひときわ異彩を放つ存在として語り継がれているのが、土佐藩出身の剣客・岡田以蔵(おかだ いぞう)です。近年では漫画『ちるらん 新選組鎮魂歌』などの作品でも土方歳三と剣を交えるライバル的存在として描かれています。

「人斬り以蔵」という異名を持ち、尊王攘夷運動の最前線において、暗殺や警護といった危険な役割を担った武闘派な人物でした。確かな剣の腕を武器に数々の標的を討ったその姿は、恐れられる存在として語られることが多く、後世においても冷酷な剣士として描かれることが少なくありません。

しかし、その実像は決して単純なものではありませんでした。郷士という武士階級の下層身分に生まれ、上へと這い上がろうとした強い思い、主君に対する忠誠、そして組織の中で役割を果たす中で次第に追い詰められていく孤独。以蔵の生涯には、時代の歪みと人間の弱さが色濃く映し出されています。

理想に殉じた英雄でもなく、ただの冷酷な殺し手でもない。時代に求められ、その役割を背負わされた以蔵。

今回は、以蔵の生涯と最期、そしてそのお墓がどこにあるのかについてご紹介します。

以蔵誕生

以蔵は、1838(天保9)年頃、土佐国土佐郡江口村(現在の高知市はりまや町)に生まれました。身分は「郷士」と呼ばれる半士半農の立場で、武士の待遇を受けながらも、上士とは明確に区別され、武士の下層階級に属していました。

土佐藩では身分制度がとりわけ厳格で、上士と郷士の間には生活や待遇だけでなく、精神的にも大きな隔たりがありました。こうした環境の中で育った以蔵は、幼い頃から身分の壁を強く意識せざるを得なかったと考えられています。上士から認められたいという思いと、どうにもならない現実との間で揺れる感情は、やがて以蔵の内面に複雑な影を落としていきました。

一方で、その家庭環境は決して荒んだものではありませんでした。父は岡田家5代当主の岡田嘉平太、母は里江といい、ともに学問に通じた教養人だったと伝えられています。明るい家庭の中で、以蔵は漢学や読書に触れながら育ち、幼い頃から撃剣(げっけん:実践的な剣術)にも親しんでいきました。

もっとも、学問そのものにはあまり熱心ではなかったともいわれていますが、頑強な身体と俊敏性を併せ持ち、早くから、武芸において頭角を現していきます。粗削りながらも実戦的な強さを持つその剣は、やがて周囲から一目置かれる存在となりました。

こうした中で、父・嘉平太がその教育を託したとされるのが、土佐勤王党を率いる武市半平太(たけち はんぺいた)です。学問と人望に優れ、尊王攘夷を掲げて土佐の若者たちをまとめ上げていた武市は、以蔵の剣の才に目を留め、その力を組織の中で活かそうとしました。 半平太との出会いによって、以蔵は単なる剣の使い手から、「役割を持つ存在」へと変わっていきます。自らの力をどこに向けるべきか、その道筋を初めて見出した瞬間でもありました。

人斬り以蔵

1850年(嘉永3年)半ば頃からは、師である半平太の道場において小野派一刀流を学び、基礎から実戦に至るまで剣術の研鑽を積みます。

当時の土佐藩では、外国船の来航に備えて西洋砲術の導入が進められており、以蔵もまた砲術を学びながら武芸全般の力を高めていきました。剣と実戦感覚の双方を身につけていったこの時期は、以蔵の戦闘能力の土台を形作った重要な段階といえるでしょう。

やがて1856年(安政3年)、19歳となった以蔵は藩の支援を受けて江戸へと赴きます。これは剣士としての実力をさらに高めるための修行であり、半平太の後を追う形でもありました。江戸では、剣術家桃井春蔵の道場・士学館に入門し、鏡新明智流を学びます。

以蔵は短期間で実戦性の高いこの流派の技を習得し、翌年には中伝の目録を得るまでに至りました。こうして以蔵は、土佐で培った基礎に加え、江戸で磨いた実戦的な剣を身につけ、剣士として大きく成長していきます。 その後、1860年(万延元年)には半平太とともに四国・中国・九州の諸藩をめぐる修行の旅に出ました。この頃、日本各地では尊王攘夷運動の気運が急速に高まりつつあり、同年には桜田門外の変が起こるなど、幕府への反発は頂点へと向かっていきます。

こうした時代のうねりの中で、1861年(文久元年)、半平太は尊王攘夷を掲げて「土佐勤王党」を結成します。以蔵もこれに加わりますが、強い思想があったわけではなく、師である半平太に認められたい、忠義を尽くしたいという思いから参加したとも言われています。

やがて土佐へ帰郷した以蔵は、組織の中で活動を本格化させていきます。尊王攘夷運動が激化する中、以蔵に与えられたのは武力行使の“実行役”という危険な役割でした。

当時の京都では政治的対立が極限まで高まり、暗殺や襲撃が日常的に行われていました。そうした中で以蔵は、半平太の指示のもと、田中新兵衛らとともに「天誅」と称した暗殺を繰り返していきます。

標的となったのは、監察の井上佐一郎や志士の本間精一郎、尊王攘夷派弾圧に関与した宇郷玄蕃などで、その剣は容赦なく振るわれました。こうした働きによって、以蔵は次第に「人斬り以蔵」と恐れられる存在となっていきます。

一方で、こうした過激な行動は仲間内でも危惧されていたとされ、その激しさは次第に孤立を招く要因ともなっていきました。

また、尊王攘夷派の公卿である姉小路公知の護衛を務めるなど、要人警護という役割も担っており、単なる暗殺者ではなく、組織の中で重要な任務を任される存在でもありました。

しかし、その一方で、以蔵自身が思想的な中心人物であったわけではありません。卓越した剣の腕を持ちながらも、その力の使い道を組織に委ねる立場にあったともいえるでしょう。

脱藩

1863年(文久3年)1月、理由は定かではないものの以蔵は土佐藩を脱藩し、無宿者として各地をさまようことになります。

京都を離れた以蔵は江戸へと向かい、同年2月には長州藩士の高杉晋作のもとを訪ねたと伝えられています。さらにその後、幕臣でありながら多くの志士たちから信頼を集めていた勝海舟の護衛を務めたとも伝えられています。

同じ年、京都では八月十八日の政変が起こります。会津藩・薩摩藩、そして公武合体派の公卿らが結束し、尊王攘夷派の長州藩勢力を京都から排除したこの出来事は、政局を大きく転換させるものでした。これにより、江戸幕府を支持する佐幕派が勢力を盛り返し、尊王攘夷派は一気に追い詰められていきます。

この影響は、長州藩と連携していた土佐勤王党にも及びました。京都での活動は困難となり、組織は急速にその足場を失っていきます。 さらに土佐藩では、かつて謹慎していた元藩主・山内容堂が政権を掌握し、藩内の引き締めを図る中で土佐勤王党への弾圧を開始しました。党首である半平太も捕らえられ、組織は存亡の危機に直面します。

脱藩して無宿者となっていた以蔵もまた、京都で追い詰められていました。「鉄蔵」と名を偽り、商家から金品を取り立てる「押し借り(おしかり)」に及んだことで、洛外追放の処分を受けます。しかしその直後、今度は土佐藩の目付によって捕らえられることとなりました。

以蔵の最後

捕縛された以蔵は、厳しい取り調べと拷問を受けることになります。以蔵の自白によって自分たちにまで被害が及ぶことを恐れた半平太は、以蔵の毒殺を企てますが失敗に終わります。半平太を信じ仕え、すべてを捧げてきた相手から命を断たれようとした事実は、以蔵にとって大きな裏切りでした。

この裏切りを知ったことで、以蔵の心は大きく揺らぎます。土佐勤王党の活動や、半平太の指示による暗殺の顛末について口を開いていきました。

その供述は、まだ捕らえられていなかった党員や関係者にも影響を及ぼします。

かつての仲間たちからも警戒される存在となった以蔵。そこには、剣によって生き、組織の中で実行役という過酷な役割を担ってきた一人の人間が、極限の状況の中で追い詰められていく姿がありました。

やがて土佐勤王党は壊滅へと向かい、多くの志士たちが処罰されていきます。その流れの中で、以蔵もまた運命を免れることはできませんでした。 1865年(慶応元年)閏5月11日、半平太が切腹に処されたのと同じ日、以蔵は打ち首により処刑されます。享年28という若さでした。その首は雁切河原(がんきりがわら:現在の高知市・鏡川周辺にあったとされる刑場)に晒されたとされています。

以蔵のお墓はどこにある?

以蔵の墓は、高知市内の真宗寺山の山頂付近に位置しています。高知IC南西の北環状線沿いに位置する家電量販店と回転寿司店の間の道を北へ進み、マンションを右手に見ながら進むと、突き当たりに出ます。そこを左折して西へ進むと、すぐに電柱に設置された案内板が見えてきます。その案内に従い、民家の間を抜けて山裾へと続く簡易舗装の里道を西へ進みます。途中、避難通路の標識と鳥居のマークが見えたら右へまがると「岡田以蔵の墓」と記された案内板が、墓所への入口となっています。周囲には孟宗竹の林が広がり、静かな雰囲気に包まれています。

岡田以蔵の墓と記された標識や、竹に巻かれた赤いビニールテープを頼りに竹林の中へさらに20メートルほど進むと、岡田家の墓地があります。

墓地の最奥には「岡田以蔵宜振墓」と刻まれた墓石があり、周囲には、父・義平や弟の登稔(勤王党員)、登稔の妻のお墓などが並んでいます。 墓前には線香や供花が絶えることなく手向けられており、訪れる人々の手による寄せ書きノートや、以蔵の生涯を簡潔に紹介した案内板も設置されています。現在も県内外から参拝者が訪れており、その関心の高さをうかがうことができます。

【岡田以蔵の墓】高知県高知市薊野北町1丁目11

【高知縣護國神社】高知県高知市吸江213

まとめ

「君か為 尽す心は 水の泡 消にしのちそ すみ渡るべき」。
以蔵が残した辞世の句で、「主君のために捧げた忠誠や人斬りとしての役割は泡のように消え去るが、命を終えた後には心は澄み渡る」という意味が込められているといわれています。

以蔵は、幕末という激動の時代の中で、「人斬り」として生きた剣士でした。その卓越した剣の腕は多くの命を奪うことにもなりましたが、その背景には、郷士という身分ゆえの差別や、尊王攘夷という時代のうねりがあったともいわれています。

剣によって認められ、剣によって役割を与えられた以蔵。しかしその一方で、自らの意思で道を選び続けることは難しく、師への忠義から、命ぜられるままに役割をこなすうちに、次第に逃れられない運命へと組み込まれていきました。

やがて組織は崩れ、仲間との関係も失われ、以蔵は孤独の中で最期を迎えます。その生涯は、単なる英雄譚でも、冷酷な殺し手の物語でもなく、時代に翻弄されながらも忠義に生きた一人の人間の姿として、今に伝えられています。

以蔵の墓前に立てば、背負っていたものの重さや葛藤に思いを馳せられるでしょう。

お墓は、亡き人を悼む場であると同時に、その人が生きた歳月や想い、家族とのつながりを静かに伝える場所です。墓前に立つことは、物語に心を寄せ、記憶を分かち合うひとときでもあります。歴史上の人物の墓を訪ねれば、偉人もまた一人の人間であったと実感し、「お墓の意味」をあらためて見つめ直すきっかけとなるのではないでしょうか。その気づきは、自身の家族のお墓について考える機会にもつながります。

お墓の継承や建て替え、墓じまいなどに迷った際は、石材店へ相談するのも一つの方法です。お付き合いのある石材店がない場合は、以下の記事を参考に、ご自身に合った石材店を探してみてはいかがでしょうか。

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