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【雪の花-ともに在りて-】笠原良策(白翁)のお墓はどこにある?

墓地・墓石コラム

笠原良策(白翁)のお墓はどこにある?

現在公開中の映画「雪の花-ともに在りて-」の主人公である笠原良策(白翁)。人気実力派俳優の松坂桃李が主演ということで話題を集めています。明治時代を生きた町医者で、蘭方医学や漢方医学を学び人生を天然痘の種痘をひろめて、予防に尽力した人物です。

天然痘の予防に牛痘を使用し種痘が広まった、という話はご存じの方も多いと思いますが、映画で知るまで、笠原良策という名前すら聞いたことがないと言う方も多いのではないでしょうか。

そこで今回は、未曾有の疫病であった「天然痘」に立ち向かった町医者、笠原良策にスポットを当ててご紹介して行きたいと思います。

15歳で医者への道へ

1809(文化6)年、越前国足羽郡深見村(現在の福井市深見町)という所で、福井城下の町医笠原龍斎の息子として良策は生まれます。

15~16歳の頃に福井藩医である「妻木陸叟」の下で本草学(中国の薬物学。薬用とする植物・動物・鉱物の、形態・産地・効能などを研究する学問)を学びます。1829(文政12)年から1832(天保3)年の間、古医方(漢方医学の一つで、後漢時代の医学を行う派閥のこと)を学ぶため江戸へ出向き、漢方医の第一人者である磯野公道に弟子入りします。その後、福井城下木田中町で町医者として開業します。

当時、土着の感染症となっていた天然痘はしばしば流行をおこし、多くの人々、特に幼児が亡くなるのを目の辺りにしていた良策は、その光景をただ見ていることしかできませんでした。1836(天保7)年 、28歳の時に湯治のため山中温泉に向かった際、大聖寺藩医、大武了玄(おおたけ りょうげん)と出会い、そこで了玄から「蘭学」の進歩の様を聞いた良策は、1840(天保11)年、その蘭学を学ぶために自分の病院を廃院し、シーボルトにも師事したことのある日野鼎哉(ひの ていさい)に弟子入りするため京都へと向かいます。

天然痘の治療法を模索する

福井藩に帰った後も人々は天然痘の脅威にさらされていましたが、治療法がなく手が出せずにいました。良策は1845年にエドワードジェンナーが生み出した牛痘(ぎゅうとう/主に牛がかかるウイルスで、人にとっては危険の少ないウイルス)由来の痘苗(とうびょう/ワクチン)が天然痘ウイルスに対して有効であることを知り、1846年と1848年に福井藩に天然痘のワクチンとなり得る牛痘の痘苗を輸入するよう上申しました。しかし当時日本は鎖国中であったため、良策の嘆願書を役人が握りつぶし、福井藩主の松平春嶽まで届くことはありませんでした。

剛を煮やした良策は、福井藩医の半井仲庵(なからい ちゅうあん)を通じ、春嶽の右腕であった中根雪江(なかね せっこう)の協力の下、江戸幕府の老中阿正弘へと繋いでもらい1848年(嘉永元)年、ついに痘苗の輸入許可を得たのでした。

天然痘の予防のために私財をなげうつ

輸入許可は得たのですが、結局清国から取り寄せることはできませんでした。しかし1849年(嘉永2)年7月、オランダ船がもたらした痘苗が蘭館医モーニッケの手で長崎の小児に接種されていて、接種に成功していました。さらに2か月後の9月には、この時の痘苗が良策の師である京都の日野鼎哉のもとに送られていました。京都にあることを知った福井藩は幕府へ使用したい旨を上申し、良策に京都へ向かうよう命じます。モーニッケが作った痘苗が京都に届きましたが、届いた8苗のうち7苗はすでに失活していました。最後の1苗を医師仲間の子に種痘(二又針にワクチンを付着させ、上腕部に刺して傷を付け、皮内に接種する)したところ、奇跡的に痂皮(かひ/かさぶたのようなもの)を作りました。

良策はしばらく京都に留まり、京都に開館した日野の「除痘館」にて150名余りの幼児に接種する間に接種法を学び、痘苗のさらなる失活に備え大阪の緒方洪庵にも分苗したのち、いよいよ福井に持ち帰ります。

とはいえ痘苗そのものは、生物に移植しないと時間経過で失活してしまうためそのまま持ち帰ることは出来ませんでした。持ち帰る方法は幼児の腕に1週間ごとに接種しながら植え継いで行く方法しかありませんでした。そこで良策は、4組の親子に相当の金銭を支払い持ち帰る方法を選択します。

京都を1月2日に発ち、真冬の北陸街道を北上するという過酷な道のりでした。急傾斜の山道や猛吹雪、2mほどの積雪などに阻まれながらも、福井まで痘苗を持ち帰ることに成功します。 その後良策は浜町(現在の福井市中央3丁目)の自宅横に種痘所を作りましたが、福井藩内では漢方医の反対や、牛の膿(海)を植え付けるということで、「牛になる」や「牛の角が生える」と言った迷信を恐れ、接種を拒否する人間も数多くいたため、痘苗はまったく広まりませんでした。しかし藩主の松平春嶽は藩医に対して良策に協力するよう命じます。春嶽の命により、下江戸町(現在の春山1丁目)に福井藩の除痘館が設置されます。良策は3年間で6500人以上の小児に接種しました。

笠原良策のお墓はどこにある?

良策は明治維新の後東京に移住します。1880年(明治13年8月23日)72歳の時、慢性の腸炎に悩まされ、麹町の岩佐病院でその生涯を閉じました。亡骸は遺書の通り、福井市田ノ谷町の大安禅寺の山道を登ったところにある墓所に、歌人で親友の橘曙覧(たちばな あけみ)や、両親や弟などと共に埋葬されています。

6基並んでいるお墓の、向かって左から3番目が良作のお墓です。高さは1mほどの小さなお墓です。 墓石群の傷みが激しく、良策の末裔の方が中心となりプロジェクトを立ち上げ、補修のためクラウドファンディングで資金を募っています(2025年4月12日ごろまで)。

【大安禅寺】福井県福井市田ノ谷町21−4


まとめ

痘苗はその後、良策の尽力もあって各地へ広まって行きました。府中(現在の越前市府中)の医師斎藤策順らは、良策の福井伝苗の過程で接種された小児三人を連れ帰り、府中の子供に植え継ぎます。これが府中伝苗の初めと言われています。また鯖江藩には嘉永3年、藩医の土屋得所らを通じて福井から伝苗されています。大野藩にも福井から伝苗がなされ種痘が行われた。その他、金沢・富山・敦賀・勝山・丸岡・金津・三国などへも福井から伝苗がなされ、痘災を免れるにいたることとなりました。

迷信を信じ種痘を恐れ拒否する人間も数多くいましたが、良作自らの私財をはたき、貧しい農家の子どもを集めて、種痘を行ったほどだったそうです。

現代も未知の感染症(新型コロナウイルス)などが流行し猛威を振るっています。新型コロナウイルスに対抗するワクチンがなかった頃は「人と会わない」「家から出ない」などの対策しか取れなかった時期が長く続きました。新型コロナウイルスのワクチンが世に出回った時、ワクチンに対するありがたみを覚えた方も多いのではないでしょうか。

良策が広めた「ワクチンを接種(未然に予防)する」という考えによってつながれた命と絆。先人の偉業を礎に、今を生きる我々にできる最大の感謝の一つは「先人の努力を忘れない」ことではないでしょうか。

今でも受け継がれる想いや絆があふれる場所お墓。一緒に訪れた人との語らいの時間にもなるのがお墓参りです。教科書や作品でしか知らない有名人・著名人ですが、お墓を巡ることで、実際にその人が生きていた時代を感じることができるでしょう。 マナーに十分に注意した上で、いろいろなお墓を巡ってみてはいかがでしょうか。

なお、笠原良策と同時代を生きた幕末の偉人のお墓に関する記事も紹介しております。併せてご覧ください。