お役立ちコラム お墓の色々
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- 供養をきわめる -
ファンでなくとも一度はお参りしたい偉人たちのお墓~渋沢栄一編
お墓参りの際、今後の抱負や約束事を墓前に誓う方は多いと思われます。お墓の厳かな雰囲気はこうした気持ちを引き締めるのにピッタリですし、故人に見守ってもらっているかのような感覚にもなります。
私たち日本人は、自然と身についた習慣として神社やお寺にお参りするかのように、お墓参りをしている面もあるのではないでしょうか。
また、家のお墓の前で誓いを立てるのも良いですが、時には尊敬する偉人や生きざまに憧れる偉人のお墓に誓いを立てるのも、より一層気が引き締まって良いでしょう。なお、有名人のお墓巡りを趣味にしている方々は「墓マイラー」と呼ばれ、実は秘かなブームにもなっています。
日本の偉人たち
日本には世界に名を残す偉人たちがたくさんいます。
文学や医学、戦国時代の武将や明治維新の立役者など、多岐に渡ります。
今回は、新一万円札の肖像画として選ばれ、2021年大河ドラマのテーマにも選ばれた渋沢栄一の足跡と、お墓を紹介いたします。
新しいお札
2024年7月3日より、2004(平成16)年以来20年ぶりに日本のお札のデザインが変更になりました。お札のデザインを定期的に変更するのは、新しい技術を使用して偽札作りを防止するためです。
お札の肖像画に選ばれるのは、主に日本が世界に誇る偉人で「教科書に出ている」など、よく世の中に知られている人から選定され、最終決定を財務大臣が行います。
一万円札は福沢諭吉から渋沢栄一に、五千円札は樋口一葉から津田梅子に、千円札は野口英世から北里柴三郎にそれぞれ変わりました。
渋沢栄一
江戸時代後期の1840年3月16日(旧歴天保11年2月13日)に武蔵国(現在の埼玉県深谷市血洗島)の農家に生まれました。幼い頃から家業である藍玉(藍の葉から作られる染料)の製造・販売や養蚕などを手伝いながら、渋沢家の後継ぎとして学問の手ほどきも受け、7歳頃からは、隣村に住む従兄の尾高惇忠のもとへ通い「論語」などを学びました。
北辰一刀流の道場にも入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶなかで、尊皇攘夷の思想に影響を受けた栄一は、幕府の階級制度や一連の外交施策に不満を募らせ、23歳の時に仲間や従兄弟らと共に横浜外国人商館焼討ちなどを企てますが、同じく従兄の尾高長七郎の説得により計画が実行されることはありませんでした。
その後政府から追われる身となった栄一ですが、一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により徳川将軍家の一門である一橋家に仕える機会を与えられます。幕府に仕えることとなった栄一は財政の改善などに手腕を発揮、次第にその力を認められ、15代将軍となった一橋(徳川)慶喜が将軍になったことに伴い幕臣となります。
徳川慶喜の異母弟らとともに渡欧し、そこで近代的な社会制度や技術などに触れたことが、栄一の人生を大きく変え、さらには日本経済の変革・発展へとつながって行きます。
日本資本主義の父
渡航中起こった大政奉還により欧州から強制帰国した栄一は、静岡で謹慎していた徳川慶喜と面会し「これからは自分の好きな道を歩むように」と告げられました。その言葉に奮起し、慶喜のいる静岡で商法会所という事実上の銀行を作り、農家に資金を貸したりコメや農産物を販売したりしていました。その手腕を買われ、明治政府から「新政府の為に働かないか」と誘われます。元幕臣であった栄一は断るつもりでしたが、大隈重信の強い説得により承諾。29歳にして新しい国づくりに関わることとなります。この時にお金の制度作りに関わり、紙幣寮の初代トップ、「紙幣頭」になって日本初の近代的なお札「明治通宝」を発行します。
1873(明治6)年、大隈重信や太政大臣の三条実美との対立により官僚を辞めた栄一は、第一国立銀行(後の第一銀行、第一勧業銀行。現:みずほ銀行)の総監役(頭取)となり、民間人として経済による近代的な国づくりを目指しました。銀行を拠点に企業の創設・育成に力を入れて生涯に約500もの企業に関わり、約600の社会公共事業・教育機関の支援や民間外交に尽力しました。
栄一にとって会社を作る目的は「人々の暮らしを豊かにする」ことでした。その為会社は自分のためのものではなく「社会全体のため」のものと考え、自分の名前を会社にほぼ冠さず、次から次へと会社を作り「経営がまわるまでしか関与せず、その後は他の者に任せる」と言う手法で次から次へと会社を作り、地域や日本全体の急速な経済発展に寄与しました。
渋沢栄一のお墓
1931(昭和6)年に92歳の天寿をまっとうした渋沢栄一は、東京都台東区にある谷中霊園の乙11号1側にある渋沢家墓所に眠っています。5基の墓石が並んでいますが、正面に立って左から2番目が栄一のお墓です。墓石の正面には「青淵澁澤榮一墓」と刻まれています。
一番左には「澁澤儒人伊藤氏之墓」と書かれた、2番目の妻である兼子のお墓があり、栄一のお墓から2つ右隣には、「澁澤儒人尾高氏之墓」と書かれた、1番目の妻であった千代のお墓があります。また栄一と千代のお墓の間には、孫である「渋沢敬三」とその妻の「登喜子」のお墓もあります。2020年に建てられたこちらのお墓は、ほかの墓石に比べ小さなものとなっています。
ちなみに栄一、千代、兼子 3基のお墓は台東区史跡として登載されています。
◆谷中霊園(東京都台東区谷中7丁目5−24)
まとめ
今回は新一万円札の肖像画として選ばれた渋沢栄一の足跡とお墓を紹介いたしました。
大河ドラマの主人公にも選ばれた渋沢栄一。尊王攘夷派から幕臣へと真逆の人生を歩み、果ては近代日本の経済の基礎を作ると言う、ドラマよりもドラマチックな人生を歩んだのではないでしょうか。
また谷中霊園には、最後まで仕え、謹慎中何度もその元を訪れたという15代将軍、徳川慶喜公お墓などもあります。広い霊園内を散策し、多くの偉人のお墓参りを通して地域の文化や歴史の一端に触れてみるのもよいのではないでしょうか。
なお、本サイトでは青山霊園に眠っている、同じく新千円札の肖像画に選ばれた北里柴三郎の墓所も紹介しております。こちらの記事も併せてご覧ください。