お役立ちコラム お墓の色々
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- 供養をきわめる -
ファンでなくとも一度はお参りしたい偉人たちのお墓~津田梅子編
お墓参りの際、今後の抱負や約束事を墓前に誓う方は多いと思われます。お墓の厳かな雰囲気はこうした気持ちを引き締めるのにピッタリですし、故人に見守ってもらっているかのような感覚にもなります。
私たち日本人は、自然と身についた習慣として神社やお寺にお参りするかのように、お墓参りをしている面もあるのではないでしょうか。
また、家のお墓の前で誓いを立てるのも良いですが、時には尊敬する偉人や生きざまに憧れる偉人のお墓に誓いを立てるのも、より一層気が引き締まって良いでしょう。なお、有名人のお墓巡りを趣味にしている方々は「墓マイラー」と呼ばれ、実は秘かなブームにもなっています。
日本の偉人たち
日本には世界に名を残す偉人たちがたくさんいます。
文学や医学、戦国時代の武将や明治維新の立役者など、多岐に渡ります。
今回は、新五千円札の肖像画として選ばれた津田梅子の足跡と、お墓を紹介いたします。
新しいお札
2024年7月3日より、2004(平成16)年以来20年ぶりに日本のお札のデザインが変更になりました。お札のデザインを定期的に変更するのは、新しい技術を使用して偽札作りを防止するためです。
お札の肖像画に選ばれるのは、主に日本が世界に誇る偉人で「教科書に出ている」など、よく世の中に知られている人から選定され、最終決定を財務大臣が行います。
一万円札は福沢諭吉から渋沢栄一に、五千円札は樋口一葉から津田梅子に、千円札は野口英世から北里柴三郎にそれぞれ変わりました。
津田梅子
新選組による池田屋事件が起こった1864年、現在の東京都新宿区南町に津田仙・初子夫妻の次女として生まれました。
1871年(明治4年)、北海道開拓使が募集した「岩倉使節団」の一員となり、わずか6歳でアメリカに向けて旅立ちます。ちなみにこの時、梅子以外にも4人の少女が選ばれ同船しましたが、梅子が最年少でした。
当時は「6歳で留学など早すぎる」との声もあったそうですが、父である仙がアメリカに強い関心を持っていた事(梅子に先立ち渡米経験もある)や、いろいろなことを吸収するには若い方がいいということから留学が決定したそうです。
翌年7歳の時に到着した梅子は、10年にわたる留学生活の中で小学校過程を終え、その後女学校(現在の中学〜高校)に進みフランス語やラテン語、数学、物理学、天文学などを学びます。
また、8歳の時にキリスト教の洗礼を受け教徒となりますが、アメリカ人女性のような立派な女性になることが留学の主な目的であった梅子にとってはごく自然なことであったと考えられます。
そして1882年(明治15年)11月、梅子が17歳の時帰国します。
2度目の留学、大学設立
帰国した梅子を待っていたのは、不正スキャンダルにより解散した北海道開拓使でした。夢を膨らませ帰国したのにも関わらず、役所がなくなっていたせいで梅子たちには働き口がありませんでした。当時は女性の地位が低かったこともあり、男性の留学生には重要なポストが当てがわれましたが、女性には修学した才能を発揮する場所はありませんでした。
父の仕事や家事などを手伝いながらも「官費留学生としてアメリカに派遣された以上、学んだことを日本の発展のために役立てなければならない」と、頑ななまでの義務感と使命感を持っていた梅子は日々悶々としていました。
そしてもう一つ、自分に仕事がないだけでなく、日本の女性の地位の低さにも落胆していました。女性が自らを高めなければならないというのが梅子の信念です。闇雲に権利を主張するのではなく、女性自身が学び、考え、権利を主張する。そういう風な社会にならないといくら学んでも意味がないと考えた梅子は1889年(明治22年)の時、24歳で再びアメリカに留学、生物学を学びました。また留学中の1891年(明治24年)に、一回目の留学で接点があった多くの人の協力を得て8千ドルを集め、自分の後に続いてアメリカへ渡る日本人女性のための奨学金制度「日本婦人米国奨学金」を設立します。
1900年(明治33年)梅子35歳の時、念願の女子英学塾(のちの津田塾大学)を創立します。女性の地位向上こそ日本の発展につながると信じて、「男性と協同して対等に力を発揮できる女性の育成」をめざし、梅子は女性の高等教育に生涯を捧げました。
津田梅子のお墓
1929(昭和4)年、糖尿病により64歳の若さで亡くなった津田梅子は、現在東京都小平市津田町二丁目1番1号、津田塾大学・小平キャンパス校舎から少し離れたグランドの奥でひっそりと眠っています。
なぜ校内にあるのかというと、梅子は遺言で「自分の墓は小平の新校地に建てて欲しい」と残していたからです。
しかし、遺言とはいえ校地内に墓を作るのは困難で、一度は青山に仮葬されました。
その後遺族や卒業生などからの要望により「津田梅子に限る」という東京府の許可が得られ、小平キャンパスの北東隅に墓所が造られました。1932(昭和7)年9月30日に墓地落成、10月8日には改葬式が行われました。
洋式・横長の竿石の表にはローマ字で「UME TSUDA」と刻まれ、裏には梅子の略歴が刻まれています。
石質は白色系の花崗岩で2段、高さは約40cmです。
◆津田塾大学・小平キャンパス(東京都小平市津田町二丁目1番1号)
まとめ
今回は新五千円札の肖像画として選ばれた津田梅子の足跡とお墓を紹介いたしました。
女子英学塾の講堂にて行われた葬儀には卒業生を含む約1000人が参列し、親友であった新渡戸稲造や、2代目塾長の星野あいが弔辞を述べました。いかに周りの人たちから慕われていたかがわかります。
人生を女性の学力・地位向上に捧げた津田梅子。男女平等や女性の社会的地位向上が叫ばれて久しいですが、梅子の尽力があったからこそではないでしょうか。
また、津田塾大学の近くには一万円札の肖像画となった福沢諭吉と渋沢栄一が援助して設立された一橋大学があります。訪れてみると、同じ年代を生き日本を思い行動した偉人たちの息吹が感じられるかもしれません。
なお、本サイトでは谷中霊園に眠っている、同じく新一万円札の肖像画に選ばれた渋沢栄一の墓所も紹介しております。こちらの記事も併せてご覧ください。
◆ファンでなくとも一度はお参りしたい偉人たちのお墓~渋沢栄一編