お役立ちコラム お墓の色々

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2025年大河ドラマで横浜流星さんが演じる蔦屋重三郎の墓はどこにある?

墓地・墓石コラム

2025年大河ドラマで横浜流星さんが演じる蔦屋重三郎の墓はどこにある?

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~」では、18世紀半ばの江戸時代を舞台に、数多くの浮世絵師や作家の才能を見出して世に送り出した出版人「蔦屋重三郎」(つたや じゅうざぶろう/演:横浜流星さん)の波乱万丈な人生が描かれます。サブタイトルにある「蔦重」は蔦屋重三郎の通称です。

今回は、蔦屋重三郎の生涯とそのお墓についてお伝えいたします。

蔦屋重三郎とは

吉原で生まれた蔦重

蔦屋重三郎(以下、蔦重)は、寛延3年(1750年)に吉原(現在の東京都台東区)で生まれました。貧しい庶民の子であった蔦重は、幼くして両親と別れ、引手茶屋(ひきてぢゃや/吉原遊郭内で遊客を遊女屋へ案内する茶屋)を営む喜多川氏の養子となります。喜多川氏の屋号が「蔦屋」でした。

当時、吉原遊郭は流行の発信地でもあり、蔦重は吉原の引手茶屋を間借りして書店(貸本屋)を開きます。そして24歳のとき、吉原の案内書である「吉原細見(よしわらさいけん)」の編集者に抜擢。序文の執筆者として発明家であり学者・作家でもある平賀源内(ひらがげんない/演:安田顕さん)が起用され話題を集めます。

独立、そして“江戸のメディア王”へ

安永6年(1777年)には書肆(しょし/書店のこと)として独立。幕政の中核を担っていた老中・田沼意次(たぬま おきつぐ/演:渡辺謙さん)の政策により、自由な気風の中で文化が花開いていたことも追い風となり、1780年(安永9年)には出版事業を拡大し数多くの戯作や狂歌本(社会風刺を織り込んだ短歌の挿絵入りの本)を次々に刊行します。

天明3年(1783年)には地本問屋・丸屋小兵衛の株を買取り、一流版元の並ぶ日本橋通油町に進出。洒落本(しゃれぼん:遊郭での粋な遊びについて書かれた本)や黄表紙(きびょうし:挿絵を多用した小説本)などのヒット作を次々に出版。江戸屈指の地本問屋に成長した蔦重は、“江戸のメディア王” “江戸の敏腕プロデューサー”とも言うべき活躍をみせます。

ちなみに現代のレンタル事業・書店の大手企業「TSUTAYA」は、書籍などに関連するという点で江戸の「蔦屋」と共通項があり、「蔦屋」にあやかって屋号がつけられた…との逸話があります。

寛政の改革

天明7年(1787年)、順風満帆に見えた蔦重の事業にかげりが見え始めます。そのきっかけは田沼意次の失脚です。代わって老中となった松平定信(まつだいら さだのぶ/演:寺田心さん)の「寛政の改革」により、娯楽を含む風紀取締りが厳しくなります。

寛政3年(1791年)には、蔦重が刊行した山東京伝(さんとう きょうでん:浮世絵師、戯作者)の洒落本・黄表紙などが摘発されます。山東京伝は両手首に鎖をはめられ自宅で謹慎させられる「手鎖50日の刑」、蔦重は出版活動によって風紀を乱したとして「身上半減(財産の半分を没収される)」という処罰を受けました。

寛政の改革により、蔦重は大幅な事業の縮小を余儀なくされます。

晩年〜歌麿と写楽の発掘〜

向かい風の中、蔦重が次に目をつけたのが浮世絵です。浮世絵師・喜多川歌麿(きたがわ うたまろ/演:染谷将太さん)を推していきます。

寛政5年(1793年)頃には、歌麿の美人大首絵(おおくびえ/上半身あるいは頭部にクローズアップした人物画)を大量に出版。再び、江戸の出版界をリードする存在となります。

寛政6年(1794年)には当時無名であった東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)の浮世絵を約10か月の期間で145点出版。 写楽はその後忽然と姿を消したため、この時期に出したものが写楽の全作品となり、後年“謎の浮世絵師”の異名を取ることになります。

精力的に活動していた蔦重でしたが、寛政9年(1797年)病に倒れ、この世を去りました。享年48。当時「江戸わずらい」と呼ばれていた脚気(かっけ)による最期でした。

2025年大河ドラマで横浜流星さんが演じる蔦屋重三郎の墓はどこにある?

蔦屋重三郎の墓はどこにある?

蔦重の菩提寺は、現在の東京都台東区東浅草にある誠向山正法寺です。ここに蔦重は眠っています。

ただ、元の墓石は火災・震災・空襲によって失われてしまいました。現在、正法寺にあるのは、新たに建てられた蔦重とその母の顕彰碑と、蔦屋家(喜多川家)のお墓です。上蓮華付きの和型墓石の竿石には、「幽玄院義山日盛信士」という蔦重の戒名も刻まれています。

墓碑に刻まれた「喜多川柯理墓碣銘」は、蔦重と同じ時代を生きた、国学者で狂歌師の石川雅望(いしかわ まさもち)と、大田南畝(おおた なんぽ)によるものです。

喜多川柯理墓碣銘

蔦重の本名は 柯理 ( からまる )と言い、雅望と南畝によって作られた漢文には、蔦重の生い立ちから最期までの他に、蔦重の人柄もこう書かれてあります。

為人志気英邁 不修細節 接人以信
(その人となりは、志、人格、才知が殊に優れ、小さな事を気にもかけず、人には信頼をもって接した)

また、蔦重の訃報を受けた石川雅望の気持ちもこう記されてあります。

予居相隔十里 聞此訃音心怵神驚 豈不悲痛哉
(自分は十里を離れたところに居て、この訃報を聞き畏れの心と共に心底驚いた。まさに悲痛の極みである)

正法寺にお参りすると、この碑文の全文が現代語訳された用紙をいただくことができます。これを機に一度足を運んで見て、仲間たちから蔦重がどう慕われていたのかを感じてみるのも良いかもしれません。

※碑文の現代語訳の配布は、予告なく終了する場合があるかもしれませんので、事前にご確認いただいてからのお参りをおすすめいたします。

まとめ

蔦屋重三郎の「お墓」は残っていませんでしたが、当時慕っていた仲間の思いや、それを大切に後世に継いでいる人々の思いに触れることは、今も可能です。
48年の生涯を駆け抜け、多くの人々に愛された“蔦重”とは、一体どんな人間だったのか。そういったことを思い描きながら大河ドラマを見てみるのも、良いのかもしれません。

蔦重の墓碑には、蔦重の生涯や仲間からの想いが刻まれていましたが、墓石に刻む文字のことについて解説した記事もございます。どうぞ、あわせてお読みください。

墓石に刻む文字、言葉、漢字のおすすめを紹介します

蔦屋重三郎の墓碑(正法寺)への交通アクセス

<鉄道>
営団地下鉄銀座線・都営浅草線・東武伊勢崎線「浅草駅」より徒歩11分
都営バス「今戸」停留所下車、徒歩1分