お役立ちコラム お墓の色々

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【ばけばけ】小泉八雲のお墓はどこにある?

墓地・墓石コラム

今期のNHK朝ドラ「ばけばけ」は、文明開化に沸いた明治を舞台に松江(島根県)の没落士族の娘・小泉セツと、その夫で小説家の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)をモチーフにした物語です。小泉八雲という名前やその作品は教科書などにも掲載されているため、ご存知の方も多いのではないでしょうか。しかしその人生を詳しくご存知の方は少ないと思います。アイルランドから日本へと渡ってきた八雲が、いかにしてセツと出会ったのか。近代化の波に揺れる明治の日本で、2人がどのように生きたのか。そしてそのお墓がどこにあるのか。

今回は小泉八雲についてご紹介していきます。

※この記事内では、和名の小泉八雲で統一します

恵まれなかった幼少期

小泉八雲は1850年6月27日、ギリシャ西部のレフカダ島という場所で、アイルランド出身で軍医の父チャールズと、ギリシャ出身の母ローザの間に生まれました。八雲が2歳の時、父の転任によって母と共に父の実家であるアイルランドの首都・ダブリンへ移り住みますが、慣れない土地での暮らしに耐えきれなかった母は、彼を残して故郷ギリシャへ帰ってしまい、八雲は裕福な大叔母に引き取られます。そして八雲が7歳の時両親が離婚。13歳になった八雲はイギリスの全寮制の学校に入学しますが、そこで待っていたのは厳しいカトリック教育でした。カトリックを強要された八雲は信仰に反発するようになり、ケルト神話などの地域に根付く信仰に心を引かれるようになります。

16歳のとき、友人とロープで遊んでいる最中にロープの結び目が左目に当たり失明。その年の11月父がマラリアで他界、さらに翌年大叔母が破産するという不幸が立て続けに八雲を襲いました。

単身アメリカへ渡る

頼る人を失った八雲は1869(明治2)年、移民船に乗りアメリカへ渡りました。最初の居住地はオハイオ州シンシナティで、移住後は極貧の生活を強いられ、夜を過ごす場所もないほどでしたが、生涯父と慕うこととなる、印刷業を営むヘンリーに助けられ、印刷の知識を身につけます。やがて文章力が評価され新聞社に就職し、そこで新聞記者としての才能を発揮、次第に認められるようになっていきます。

八雲はとりわけ異国の人々の生活や口承文化に強い関心を寄せ、それを独自の文体で紹介することで注目を集めました。1877(明治10)年、ニューオーリンズへ移って独自の視点で文化や社会を描き伝え、その後カリブ海のマルティニーク島に渡ると豊かな自然や多様な文化に触れながら、旺盛な取材と執筆を続けました。

八雲、日本へ

そんな八雲が日本に関心を抱くきっかけとなったのは、英訳『古事記』を読んだこと、そして1884(明治17)年にニューオーリンズで開かれた万国産業綿花博覧会で日本文化に触れた経験でした。

日本への興味が尽きなかった八雲は、1890(明治23)年、ついに日本へ渡り、8月には島根県尋常中学校の英語教師として松江に赴任し、そこで日本の風土や人々の暮らしに深く魅了されていきます。しかし、異国の地での食事や住居、言葉の問題に悩んでいた八雲は、身の回りの世話をしてもらうため、ある女性を紹介されます。その人こそ、松江藩士・小泉弥右衛門湊の娘、セツでした。

同年セツと共に転居し1894(明治27)年まで熊本の第五高等中学校で英語教師を勤めました。英語だけでなく西洋文学の魅力や異文化理解を伝え、生徒たちから非常に人気があったと言われています。

しかし、執筆家として活動したかった八雲は教師を辞め、1894年(明治27年)に神戸へ移り、英字新聞 「神戸クロニクル」 の記者・編集者として働きました。

ここで彼は、社説やコラムの執筆、外国人社会に関する記事などを担当しました。しかし、社風や同僚との人間関係になじめず、また自分の文筆活動に集中したい思いもあって、わずか1年ほどで退社しています。

1896年(明治29年)3年前に第一子が誕生した頃から進めていた帰化手続きが完了、小泉八雲と改名します。

同年9月、帝国大学文科大学(現・東京大学)の講師に就任し、英文学を講じました。しかし1903年、大学を解雇された八雲は早稲田大学に移り、英文学の講師として働く傍ら、日本の伝承や怪談を再話した「怪談」をはじめ、紀行文の執筆や翻訳などの著述活動にも力を注ぎました。

そんな八雲の代表作は他にも、松江・出雲での生活を中心に、日本文化への新鮮な驚きと感動を記した「知られざる日本の面影」や、日本の日常や風習を題材にした随筆を収録した「日本雑記」、日本人の精神性や価値観を分析したエッセイ集「心」などがあります。

1904(明治37)年9月26日、西洋人の目を通した日本の姿を描き、日本と西洋から愛される作品を産んだ八雲の波乱に満ちた人生は、心臓発作のため54歳でその幕を閉じました。

小泉八雲のお墓はどこにある?

八雲は現在、東京都豊島区にある雑司ヶ谷霊園内で静かに眠っています。法名は「正覚院殿浄華八雲居士」です。お墓は南向きに建てられており、墓石には「小泉八雲之墓」の文字が刻まれています。

高さは約1.2m、台座は1段で高さ35cm、境石の高さは10cmです。

向かって左側には「小泉セツ之墓」の文字が刻まれた高さ約70cmほどの妻・セツのお墓があり、また右側には「小泉家之墓」と刻まれた墓石があります。

三基とも自然石を台座にして、その上に細長い竿石が立っており、自然石をくり抜いた水鉢と花立が一体になった石が台座の前に設置されているという、八雲の生涯を表すかのような個性的な造りです。

【雑司ヶ谷霊園】東京都豊島区南池袋4丁目25番1号

また、松江市には八雲の生涯や業績を紹介している「小泉八雲記念館」があります。

【小泉八雲記念館】島根県松江市奥谷町322

まとめ

八雲の著書は、日本を深い愛情をもって見つめたものが中心でした。 亡くなってから十七回忌を迎えた際には、日本に尽くした功績が改めて認められ、従四位が贈られました。

波乱に満ちた人生を送りながらも、日本を深く愛し、その文化を世界へ伝え続けた作家・小泉八雲。その生涯は、異なる文化と文化の狭間に立ち続けた一人の人間の軌跡であり、今日もなお多くの人々の心に生き続けています。

史実ではセツが日本の昔話や風習を八雲に語り聞かせたことが、八雲の作品を産むきっかけになったと言われています。つまり二人の出会いは単なる夫婦関係にとどまらず、日本文化と西洋文学を結びつける重要な契機になったとも言えます。そんな2人が朝ドラ「ばけばけ」ではどのようにして出会うのか、また日本についてどのように語るのかにも注目して見てみると面白いかもしれません。

八雲とセツのお墓に足を運んでお参りをすると、数奇な運命を辿りながらも日本に辿り着き、日本を愛した八雲の想いを感じ取ることができるかもしれません。

お墓は受け継がれる想いや絆があふれ、過去の偉人が遺したその功績までをも感じ取れる場所。そして、一緒に訪れた人との語らいの時間をもたらしてくれるのがお墓参りです。教科書や作品でしか知らない有名人・著名人ですが、お墓を巡ることで、実際にその人が生きていた時代を感じることができるのではないでしょうか。

マナーに十分に注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょう。