お役立ちコラム お墓の色々

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ファンでなくとも一度はお参りしたい著名人のお墓~童謡界の三大詩人編

墓地・墓石コラム

ファンでなくとも一度はお参りしたい著名人のお墓~童謡界の三大詩人編

ご先祖のお墓参りに限らず、歴史上の偉人・著名人のお墓を詣でる趣味を持つ人を、昔から掃苔家(そうたいか)と呼びます。「お墓の苔をきれいに掃き清める」という意味からきていますが、昨今では「墓マイラー」という呼び方をする場合も多いようです。

今回は、有名な童謡の作詞家である3人にスポットを当て、その生涯とお墓の特徴などをご紹介します。それぞれのお墓も特徴的な形となっておりますので、一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

北原白秋(詩人・歌人)

童謡「あめふり(雨雨降れ降れ母さんが〜)」「この道(この道は いつか来た道)」「待ちぼうけ」などの作詞者として有名な北原白秋。日本の近代文学に偉大な足跡を残した白秋の人生は、実は波乱に満ちたものでした。まずはその生涯を振り返ります。

北原白秋の生涯

生い立ち

熊本県玉名市関外目村(現:南関町)に生まれた北原白秋(本名・隆吉)。
中学生の頃から詩人としての才能があり、沢山の詩をあらゆる雑誌に応募した結果、19歳の時に雑誌への掲載が決まります。これをきっかけに白秋は両親に無断で中学を中退、「家業を継いでほしい」という両親の想いを振り切って上京し、当時文学を目指す人間の憧れであった早稲田大学英文科予科へ入学します。同級生に同じ九州出身の歌人・若山牧水などがいます。

作品が発行禁止に

応募した詩が新聞、雑誌に何度も掲載され、文学結社にも参加。順風満帆に見えた白秋の人生ですが、1910年、詩誌「屋上庭園」に掲載された「おかる勘平」という詩が「内容が官能的すぎる」という理由で発行禁止処分を受けます。
さらに1912年、隣家に住んでいた人妻との不倫が原因で、白秋の人気は急落します(ちなみにこの二人はのちに結婚します)。
その1年後、初めての歌集『桐の花』を発表し再び注目を集めます。

晩年

2度の離婚を繰り返し、1921年に3度目の結婚。この頃作曲家・山田耕作と出会い、様々な童謡や社歌、校歌などを次々と生み出していきます。1942年、糖尿病と腎臓病のため阿佐ヶ谷の自宅で死去。享年57歳でした。

お墓について

様々な作品をこの世に残した北原白秋は現在、東京都府中市の都立多磨霊園に眠っています。
その墓石は丸いドーム状に石を貼り付けた「かまくら」の様な形が特徴です。向かって左側には「北原家墓」と書かれた碑があります。
墓の設計者は、版画家で詩人の恩地孝四郎という人物です。白秋の詩集の表紙を装幀し、白秋をモデルにした版画も制作するなど深い親交があったようです。
貼り付けてある石は葺き石(ふきいし)と言い、古墳の表面の化粧や、土石の流出を防ぐ意味を持っていますが、白秋の墓石はコンクリート製なので化粧の意味だと思われます。
ちなみに、ドーム状に葺き石を貼り付けた姿のお墓は、廃仏毀釈(薩長新政権が打ち出した思想政策によってひき起こされた、仏教施設への無差別な破壊活動)があった明治〜戦前の神道のお墓に時折みられる形です。

西條 八十(さいじょうやそ)(詩人)

「肩たたき」(母さんお肩をたたきましょう〜)、「ズイズイズッコロ橋」などの童謡を作詞、そして「闘魂こめて(ジャイアンツ球団歌 )」「東京音頭」など数多くの流行歌や多くの社歌や校歌の作詞も手がけるなど、北原白秋・野口雨情とならび、大正期を代表する大作家と称される西條八十(さいじょう やそ)。その人生を紐解いて行きましょう。

西條八十の生涯

生い立ち

1892年、現在の東京都新宿区に生まれた西條八十。「八十」という名前は本名で、両親が「苦」に通じる「九」を抜いた「八」と「十」を用いて命名したと言われています。実家は石鹸の製造業で財を成していましたが、父親が亡くなると廃業に追い込まれ、没落します。
桜井尋常小学校を卒業後早稲田中学校に入学。そのまま早稲田大学へと進学します。
大学在学中にフランス文学家の吉江 喬松(よしえ たかまつ)に出会い、フランス文学の道へ。

早稲田大学にフランス学科を設立

早稲田大学を卒業後、1916年フランスのソルボンヌ大学へ留学、1920年に帰国し早稲田大学のフランス文学料を創設します。留学中に自費出版した詩集「砂金」が大ベストセラーとなり詩人として注目を集めます。またこの頃生涯の伴侶、晴子と出逢います。
その後1923年に童謡「肩たたき」を発表、以降も数々の作品を生み出していきます。

晩年

妻の晴子を64歳で亡くし、自身は咽頭ガンに冒されながらも執筆活動を続けましたが、10年後の1970年に急性心不全のため世田谷区成城の自宅で死去。享年78歳。
西條八十は生前「僕が死んだら絶対に告別式をしてくれるな」と言っていたそうですが、子供たちの意見を尊重し簡素な葬儀が行われたそうです。

お墓について

西條八十と妻の晴子は現在、千葉県松戸市の八柱霊園で、同じお墓に眠っています。
その墓石は、文学者らしく本を広げた形をしています。八十本人がデザインしたのですが、フランスの小説家・モーパッサンの墓碑からヒントを得たとのこと。
本型の墓石には
「われらたのしくここにねむる
離ればなれに生まれ めぐりあひ
短き時を愛に生きしふたり
悲しく別れたれどここにまた
心となりて とこしへに寄りそひねむる 」
と自筆で刻まれている。
その奥には、「西條八十・西條晴子墓」と金文字で彫られた大理石があり、また墓石の左奥には「肩たたき」「青い山脈」の詩が刻まれた筆塚もあります。

野口雨情(のぐち うじょう)(詩人)

最後にご紹介するのは、童謡・民謡作詞家として多くの名作を残し、北原白秋、西條八十とともに「童謡界の三大詩人」と謳われた詩人・野口雨情(本名:野口英吉)です。
その波乱の生涯を紐解いていきます。

野口雨情の生涯

生い立ち

1882年に現在の北茨城市生まれ。家は代々水戸藩の薪炭奉行を勤め、廻船問屋(商船の荷下ろしなど )を営む名家です。
4年制の尋常小学校、4年制の高等小学校(現在の中学校に相当 )を卒業後、早稲田大学へと進学します。
しかし「詩を作って自分の考えを発表し世の中のために役立てたい」と考えた雨情は、大学を中退し作詩活動に励みます。

北海道で新聞記者に

実家の没落とともに茨城に戻ることになった雨情。借金を返すためだけに働くという鬱屈な日々に嫌気が差し失踪。
その後1906 ~ 1909年頃に北海道で新聞記者となる。同僚には石川啄木がいました。1907年に娘が誕生しましたが、一週間ほどで亡くなっています。1928年に発表された童謡「シャボン玉」は、幼くして亡くなった娘のことを歌っているとされます(根拠がないとする説もあります)。新聞記者として転々とし、母の死をきっかけに実家に戻るも創作活動が出来ず悶々とした日々を過ごす中、またも家出。その後1915年に離婚、1918年に再婚し詩の創作活動を再開します。

晩年

1919年に「都会と田園」という詩集で詩壇に復帰します。その後童謡詩人として「七つの子(カラス なぜ鳴くの〜)」や「赤い靴(赤い靴履いてた女の子〜)」「証城寺の狸囃子」などの作詞を手がけました。
1943年に脳出血を発症、2年後の1945年に疎開先の宇都宮市にて死去。享年62歳でした。

お墓について

野口雨情の遺骨は分骨され、現在は東京と生まれ故郷の茨城の2箇所で眠っています。

茨城県北茨城市

茨城の方のお墓は、前妻の長男・雅夫が建立、形状はこちらも芝台・中台・上台・竿石で構成された一般的な墓石で、「野口雨情墓」と刻まれています。
場所は番地等不詳で、北茨木市磯原国道6号線、廃墟のパチスロ店の脇の道に入り、ガードをくぐった先の森の中にあります。
道路沿に「雨情先生」と書かれた石碑があるので見つけやすいのですが、その先がとてもわかりにくいので「生家資料館」などで詳しい場所を聞かれてから尋ねられると確実です。

野口雨情生家資料館:茨城県北茨城市磯原町磯原73

東京都東村山市

東村山市にある小平霊園の方のお墓は、後妻の長男(家系では三男 )・存彌(のぶや)が建立しました。形状は芝台・中台・竿石で構成されたものですが、中台が左右に長く、竿石も一般のものより横に長いので洋型寄りなデザインの夫婦墓になっています。その竿石には大きく「野口英吉」「妻 つる」の文字が刻まれ存在感を放っています。

終わりに

今回は「童謡界の3大詩人」にスポットを当てご紹介しました。

おそらく誰もがなじみ深い童謡の作詞者である3人。
学校や幼稚園などで習ってきた童謡をお子さんやお孫さんと一緒に口ずさみながらお墓参りをしてみると、時代は流れて世代が移り変わっても受け継がれていく、変わらないものや想いがあることを実感できるのではないでしょうか?

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