お役立ちコラム お墓の色々

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【三国志演技の主人公格】劉備玄徳のお墓はどこにある?

墓地・墓石コラム

その内容を詳しくは知らなくても、誰もが一度は耳にしたことがあるだろう中国の歴史書「三国志」。

三国時代の英雄の活躍、戦略、友情、裏切り、悲劇を織り交ぜ描かれた有名な書物です。

そんな三国志の英雄たちの中でも、とりわけ人気が高い人物が、蜀(しょく)という国を興した劉備玄徳(りゅうび げんとく)です。
後漢末の混乱期に生まれ、皇帝の末裔ともされる劉備は、義に厚く民を思う心を持つリーダーとして、義兄弟の契りを結んだ関羽・張飛という生涯の同志とともに乱世を駆け抜け、中華統一をめぐる壮大な戦いへと身を投じていきました。

その生い立ちや若い頃の資料には不明点も多い劉備ですが、民の信頼を集め、数々の困難を乗り越え、ついには蜀漢皇帝へと上りつめた姿は正史『三国志』にも記されています。
『三国志演義』では「仁義の皇帝」として情に厚い人物像が強調されますが、特段文武に優れていたわけでもない劉備がどのようにして多くの仲間を集め乱世を生き抜いたのでしょうか。

今回は、そんな劉備玄徳の歩んだ道と、お墓についてご紹介していきます。

漢王室の末裔・劉備

劉備は、後漢の桓帝が治めていた161年ごろ、現在の河北省にあたる 涿郡涿県(たくぐん・たくけん) で誕生したと伝えられています。名門・漢王室の末裔である中山靖王の系譜を引く家柄でしたが、当時の劉家はすでに没落しており、その暮らしぶりは決して裕福なものではありませんでした。幼い劉備は、母や叔父とともに 草で編んだ筵(むしろ)や草履を作って生計を立てていたとされ、王族の血を引きながらも、民と同じ生活を送る少年時代を過ごしたといわれています。

生まれつき裕福ではなかった劉備は、従叔父(いとこおじ)である劉元起の援助を受けその子である劉徳然とともに、名士として名高い 盧植(ろしょく) の門下に入り学問を学びます。盧植は当時としては高名な儒学者であり、劉備はそこで初めて学問や政治の道に触れ、己の志を育てていき ました。同じ師のもとに集った人々との出会いにも恵まれ、多くの仲間と友誼を結びます。

関羽・張飛との出会い

劉備が歴史の表舞台へ姿を現すきっかけとなったのが、後漢末の大規模反乱 「黄巾の乱」(184年) でした。当時、後漢の政治は腐敗し、民は疲弊しついに太平道の教祖張角がその信者と共に起こした黄巾の乱が全国へ広がります。

朝廷はこの危機に対し、各地で義勇軍の結成を認めます。 義勇軍募集の立札の前で出会った劉備・関羽・張飛は意気投合し、かの有名な逸話「桃園の誓い(生涯義兄弟となる契り)」を結び、自ら義勇兵を募って参戦したのです。

財力に乏しい劉備の軍は大規模なものではありませんでしたが、勇猛な関羽・張飛に支えられ、地元涿県周辺の黄巾軍討伐で功績を挙げます。この働きが評価され、劉備は 安熹県尉(あんきけんい/ 安熹県の県警本部長に任命され、初めて官職に就くこととなりました。

ちなみに正史『三国志』では三人が義兄弟の契りを交わしたという記録は存在しないため、有名なエピソードである「桃園の誓い」は三国志演技の創作であると考えられます。

しかし劉備伝には関羽と張飛について「関羽・張飛は共に劉備を助け、劉備もまた二人を特別に扱った」と記されており、三人の強い結びつきは確かなものとして示されています。

また、劉備は戦乱の中でたびたび敗走を重ねましたが、そのたびに関羽・張飛は劉備に寄り添い、軍勢が散っても三人は決して離れることはありませんでした。正史では、三人が互いに深い信頼を持ち、苦しい境遇の中で協力しながら立ち上がっていく姿が描かれており、ここに後世の「義兄弟」のイメージの原点を見ることができます。

さらに張飛伝では、劉備が困難な状況に追い込まれると、張飛が憤りをあらわにしたという逸話があり、彼の劉備への献身が強く表れています。関羽伝でも、関羽は「劉備を追い求め、そのもとへ帰ることを第一とした」人物として描かれ、その忠誠心の深さは正史上でも際立っています。

三顧の礼

劉備が、後に軍師となる諸葛亮孔明を迎えるため、三度にわたり諸葛亮の住む隆中の草庵を訪ねたという話は、多くの方にとっておなじみかもしれません。黄巾の乱で名を挙げた劉備が、まだ世に知られていなかった諸葛亮のもとへ自ら足を運び続けたこの行動は、単なる美談ではなく、正史にもその事実が記されています。

 荊州に身を寄せていた当時の劉備は、曹操や孫権といった大勢力に比べれば、まだ一地方武将にすぎませんでした。群雄が割拠し、天下の行方が混沌としていた中、劉備は自らの進路を定めかねていました。そんな中、名士・徐庶や司馬徽が、若くして卓越した叡智を備える人物として諸葛亮の名を劉備に推挙したのです。

劉備はすぐさま諸葛亮を訪ねますが、最初の訪問では留守。二度目の訪問でも不在で、劉備はただ礼を尽くして帰るしかありませんでした。それでも諦めることなく、寒さ厳しい冬の日、三度目の訪問を決意した劉備は、関羽と張飛という頼れる両名を連れ、再び諸葛亮の住む隆中の草庵を訪れました。そしてついに、諸葛亮との初対面が実現します。

この時、諸葛亮は劉備に「天下三分の計」を語りました。これは、荊州と益州を蜀の基盤とし、呉の孫権と連携して魏の曹操に対抗するという戦略です。

赤壁の戦い

赤壁の戦いとは、208年に長江沿いで曹操軍と孫権・劉備の連合軍が激突した戦いです。北方をほぼ統一した曹操が南下して江南を支配しようとしたのに対し、孫権は呉を、劉備は荊州南部を拠点として曹操に抵抗していました。

兵力は曹操軍が圧倒的に多く、数十万ともされる大軍を率いていたのに対し、孫権・劉備の連合軍はわずか数万規模でした。しかし、呉の総司令官である周瑜は、曹操軍の船団を火攻めで焼き払う作戦を立てます。油を積んだ船を敵船へと接近させ、火を放つことで連結された曹操の艦隊は一気に炎上し、消火もままならず混乱に陥りました。

この大火により曹操軍は甚大な損害を受け、ついに撤退を余儀なくされます。 赤壁での孫権・劉備連合軍の勝利は曹操の南征を食い止め、勢力図を「魏・呉・蜀」の三つに分ける契機となり、諸葛亮が説いた天下三分の計を実現させ、三国時代の幕開けを決定づけた戦いとなりました。

赤壁の戦い以降、劉備は勢力を拡大して益州を支配下に置き、独自の国家体制を整えていきました。劉備は「漢室の宗親」として正統性を掲げていました。そのため、すぐには皇帝を名乗ることは避け、曹操の魏王に対抗するため「漢中王」を名乗ります。

章武元(221)年、劉備はついに皇帝へ即位し、呉へ出兵するも大敗、退却した劉備は白帝城で病にかかり、章武3年(223年)に諸葛亮へ後事を託して亡くなりました。享年は63歳であったと伝えられています。

劉備のお墓はどこにある?

劉備の陵墓である「恵陵(惠陵)」は、中国四川省成都市に位置する武侯祠の敷地内にあります。ここは蜀漢の皇帝であった劉備を祀る漢昭烈廟に隣接しており、蜀にゆかりの深い人物たちをしのぶ歴史的な空間となっています。

恵陵の外観は、古代中国の皇帝陵に見られるような石造建築を伴う大規模なものではなく、自然の地形を生かした大きな土塚の形式になっています。全体は丸みを帯びた円形の墳丘で、高さはおよそ十数メートル、直径は20〜30メートルほどであると伝えられています。日本の円墳に近い姿をしており、上部は草木に覆われ、時代の流れを感じさせる落ち着いた雰囲気をまとっています。

現在確認できる範囲では、墓室の入り口や石造の構造物といったものは外側からは見えず、内部は完全に土に覆われた状態です。恵陵は未発掘であるため、内部構造は明らかではありませんが、同時代の蜀地域の墓の特徴から、木棺あるいは石棺を中心とした1、2室の墓室が想定されています。

また皇帝の陵墓であることから、副葬品も比較的多い可能性があります。しかし、陵墓の保護を優先して発掘は行われておらず、詳細は推測にとどまっています。

墓前には「漢昭烈皇帝之陵」と刻まれた石碑が立てられ、参道は木々に囲まれ静寂に満ちています。周囲には劉備の皇后とされる甘夫人ゆかりの場所もあり、武侯祠と合わせて訪れることで、蜀漢の歴史が一体となった空間を感じることができます。現在も一般に公開されており、 桃園の契りを模した場所もあって、三国志ゆかりの地を訪れる多くの人々に親しまれています。

【恵陵】 中国四川省成都市

桃園の誓いはフィクションですが、舞台とされている場所がございます。

【三義宮】 中国河北省保定市涿州市楼桑廟村

まとめ

劉備は、関羽や張飛、諸葛亮といった名だたる人物たちに支えられながら、後漢末の乱世を生き抜き、蜀漢建国、果ては天下統一へと歩みを進めた英雄でした。漢王室の末裔を名乗り、義を重んじる姿勢と、民を思う政治理念によって多くの人材を惹きつけ、その存在は群雄割拠の中でも強い光を放っていました。しかし、度重なる戦乱や政情の混迷、そして宿敵との対立の中で劉備は幾度も苦境に立たされ、蜀の国力もまた大きな波に翻弄されていきます。やがて関羽の死と荊州喪失という痛恨の事態を迎えたことで、劉備の歩みは大きく変わり、その後の夷陵の戦いの敗北は蜀漢に重い影を落とすこととなりました。

もし劉備が夷陵で敗れず、さらには関羽・張飛という頼れる柱を失わずにいたなら、蜀の命運は大きく変わっていたかもしれません。魏・呉との均衡は保たれ、三国鼎立の構図は長く続いていた可能性もあります。歴史に「もし」はありませんが、劉備という人物の決断や志が、後の時代にどれだけ大きな影響を与えたのかを思うと、その存在が当時の秩序を形づくるうえで欠かせないものであったことがよくわかります。

劉備のお墓は遠く離れた中国にあるため気軽に訪れることはできませんが、実際に足を運んでお参りをすると、漢室復興を胸に掲げ、民のために戦い続けた劉備の面影に思いを馳せることができます。仲間との義を重んじ、自らの理想を最後まで曲げなかった劉備は、どのような気持ちで乱世を駆け抜けていったのか。何を守り、何を成し遂げようとしていたのか。その静かな陵墓の前に立つと、彼の熱い志が今もなお息づいているように感じられるかもしれません。

お墓は受け継がれる想いや絆があふれ、過去の偉人が遺したその功績までをも感じ取れる場所。そして、一緒に訪れた人との語らいの時間をもたらしてくれるのがお墓参りです。作品や教科書でしか知ることのない有名人・著名人ですが、実際にお墓を巡ることで、その人が生きていた時代を感じることができるのではないでしょうか。

マナーに十分に注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょう。