お役立ちコラム お墓の色々

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三国志の英雄?奸雄?曹操孟徳のお墓はどこにある?

墓地・墓石コラム

中国の歴史書で、おそらく日本で1番有名であろう「三国志」。三国志を元にした漫画や映画、ゲームなど、 たくさんあるので、詳しくは知らなくても一度は耳にしたことがある方は多いのではないでしょうか。

三国志とは、今からおよそ1800年前、 後漢末期の時代に、現在の中国の華北地域から華南地域を舞台に覇権を競った魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国を中心に綴られた歴史書です。魏の曹操孟徳(そうそう もうとく)、呉の孫権仲謀(そんけん ちゅうぼう)、蜀の劉備玄徳(りゅうび げんとく)を中心に描かれ三国時代の英雄の活躍、戦略、友情、裏切り、悲劇を織り交ぜ描かれた有名な書物です。

その歴史書に脚色を加え読みやすく、わかりやすくアレンジしたのが現在でもよく読まれている「三国志演義」という、いわゆる歴史小説と言えるものです。三国志演義 では「乱世の奸雄(かんゆう/悪知恵にたけた英雄)」と呼ばれ、悪役として描かれることの多い曹操ですが、実は正史三国志では主役として扱われています。

三国志の著者、陳寿は曹操を「並外れてすぐれた人物」と評価していますが、果たして曹操は三国志の英雄なのか、それとも乱世の奸雄なのか。今回はそのお墓がどこにあるのかも交えご紹介していきます。

※今回の記事は正史三国志に基づいたもので、三国志演義と異なる見解が含まれる点もございます。ご了承ください。

曹操とは?

曹操は西暦155年、位の高い政治家であった曹嵩(そうすう)の息子として、沛国譙県(現在の安徽省亳州)に生まれます。幼少期の曹操はやんちゃな子供だったらしく、朝から鷹と犬を連れて狩りに明け暮れる毎日を過ごしていたと記されています。また、曹操は張譲(ちょうじょう)という宦官の家へ不法侵入したという事件を起こしたという話も残っています。

そんな曹操ですが、20歳になると、時の皇帝に仕える役人「郎(ろう/宮殿の門に宿衛する武官)」として仕官し、「洛陽北部尉(今でいう警察組織の代表のような役職)」という地位に就くほど出世します。曹操は法を厳しく守らせるという姿勢で役人の間で知られるようになり、周囲から一目置かれる存在になります。

184年に中国の後漢時代末期に起きた大規模な農民反乱、いわゆる「黄巾の乱」を鎮めるため討伐軍が結成されますが、その中に、曹操も後漢の武将として参加していました。最終的に反乱は鎮圧されますが、この出来事によって後漢王朝の権威は大きく揺らぐこととなります。つまり、黄巾の乱は三国時代へと続く長い戦乱の幕開けとなったのです。

 反乱を鎮圧した後、曹操は黄巾軍の残党を降伏させ、その中から優れた兵士を選抜して「青州兵」として配下にしました。この精鋭部隊の獲得は、曹操軍の力を大きく高める転機となったとされています。青州兵を率いた曹操は、同郷でかつての友人でもある袁紹(えんしょう)一派と対立していた袁術(えんじゅつ)一派を撃破しますが、その最中、袁術一派の陶謙(とうけん)によって父を殺害されたという知らせを聞いた曹操は徐州へ侵攻。陶謙軍を 撃ち破る過程で数万人を殺害したと伝えられています(正史によれば、進軍中に数十万人を虐殺したとも伝えられています)。復讐を果たした曹操ですが、虐殺の噂が広まり民衆の間で評判を大きく落とすこととなります。

さらに194年、親友であった張邈(ちょうばく)が、中華最強と言われた飛将軍・呂布(りょふ)と組んで、曹操の領地の大半を奪います。反撃に出た曹操でしたが呂布に敗北し、窮地に追い込まれます。

 しかし、配下の奮闘で本拠地を守り抜き、さらに飢饉の影響で呂布軍の兵糧が尽きたことで、曹操はなんとか帰還に成功します。

 その後、曹操は再び呂布軍を攻めてこれを打ち破り、失っていた領地をすべて奪い返し、最大の危機を脱します。

官渡の戦い

西暦200年、時の有力者が統一を目指してしのぎを削る中おこった官渡の戦いでは、河北地域(黄河の北部)を平定し、豊かな国力を持っていた名門の武将・袁紹と、後漢の皇帝・献帝(けんてい)を保護して勢力を広げていた曹操が大きくぶつかりました。当時、袁紹の支配する河北は戦乱の影響が少なく、人口は100万人、兵力は30万人とも言われる豊かな地域でした。一方、曹操が治める河南(かなん/黄河の南岸)は黄巾の乱などで荒れており、戦争や飢えに苦しむ人々が多く、兵力もわずか1万人ほど。曹操軍は圧倒的に不利な状況だったため、敗北は必至でしたが、袁紹が指揮を誤った機を曹操は逃さず、官渡の戦いを制し、勝利。「中原の覇者」となりました。

赤壁の戦い

「官渡の戦い」で北の強敵・袁紹を破った曹操は、華北(北部中国)をほぼ制圧し、次は長江の南にある荊州(けいしゅう)や江東(こうとう)への進出を狙います。

208年、荊州の劉表(りゅうひょう)が亡くなり、その後を継いだ息子・劉琮(りゅうそう)は曹操に降伏。これにより、曹操は荊州を無血で手に入れ、南方制圧の足がかりを得ます。曹操はそのまま「南下して孫権も従わせる」と宣言、大軍を率いて長江を下ります。この時劉備は、孫権の陣営へと身を寄せていました。利害の一致した両陣営は、劉備の軍師・諸葛亮(しょかつりょう)と、孫権の家臣・周瑜(しゅうゆ)が連携し、「連合軍」を結成して曹操軍に立ち向かいます。これが世にいう「赤壁の戦い」です。およそ20万の兵を率い攻めた曹操ですが、諸葛亮と周瑜の計略の前に歯が立ちませんでした。特に火攻めによる奇襲は決定的で、曹操軍の船団は炎に包まれ、大混乱に陥りました。

さらに、兵士たちは慣れない水上戦や疫病、寒さにも苦しみ、戦うどころではない状態に陥ってしまいます。曹操はやむなく撤退、南方制圧の野望は潰えることになります。

この戦いの勝利によって、劉備は荊州の南部を手に入れ、孫権も江東の地盤を守り抜きました。こうして、曹操・劉備・孫権の三者が並び立つ形が生まれ、後の三国時代への道が開かれていきます。

魏公、そして魏王へ

赤壁の戦いで敗北した曹操ですが、水軍を再編し孫権との戦いを続けながら持久戦の体制を整えていきました。212年、曹操は魏公となり、王に近い権限を得ました。215年には華北(中国北部)の統一を果たしますが、孫権軍との戦いは相変わらず決着がつかないまま、膠着状態が続いていきました。216年、曹操は「魏王」を名乗り、事実上の漢王朝乗っ取りへと歩みを進めます。しかし野望に燃えていた曹操は220年の正月、66歳で病死します。

死期を悟った曹操は「天下はまだ安定していない。だから昔のやり方にこだわるべきではない。葬儀が終わったらすぐに喪を明け、軍は持ち場を離れず、官吏は職務に専念せよ。葬儀では平服を着用し、金銀や宝物を副葬してはならない」という遺言を残したと言われています。

曹操のお墓はどこにある?

曹操のお墓ですが、中国の河南省安陽市安陽県安豊郷西高穴村という場所にあります。 発見当初は、西高穴2号墓と呼ばれましたが、現在は「曹操高陵(そうそうこうりょう)」と呼ばれています。

お墓はスロープ状の墓道を持つ多室構造の大型墳墓で、甲字形をしています。東向きに築かれ、墓道・墓門・前後室・4つの側室で構成されています。墓道は長さ約39.5m、幅9.8m、深さ約15mであり、墓全体の面積は約736㎡。前室と後室は方形で、いずれもドーム状の天井を持ち、南北に長方形の側室が配置されています。ちなみに遺骨が3体分発掘されていて、60代ぐらいの男性の遺骨は曹操のものであると断定されています。残り2体はいずれも女性で、皇后と側室の女性だろうと言われています。

【曹操高陵遺跡博物館】中国河南省安陽市安陽県安豊郷西高穴村

まとめ

曹操の死後は、息子の曹丕が魏の皇帝となり、曹操は「武帝」 という諡号と「太祖」という廟号を贈られ、祀られました。

 最終的に、曹一族は中華を統一することはできませんでしたが、のちに魏の軍師「司馬懿(しばい)」の孫である司馬炎(しばえん)が、三国時代の中華統一を果たします。三国志演技では乱世の奸雄と呼ばれ恐れられた曹操ですが、実際は「奸雄」ではなく、乱世に秩序をもたらそうとした現実主義の英雄だったのかもしれません。

曹操のお墓を参ると、魏を建国した曹操が何を目指して、中国を統一しようとしていたのか、その熱い想いが感じ取れるかもしれません。また三国志ファンであれば、一度は訪れて欲しい場所の一つです。ぜひ足を運ばれてみてはいかがでしょう。

お墓は受け継がれる想いや絆があふれ、過去の偉人が遺したその功績までをも感じ取れる場所。そして、一緒に訪れた人との語らいの時間をもたらしてくれるのがお墓参りです。教科書や作品でしか知らない有名人・著名人ですが、お墓を巡ることで、実際にその人が生きていた時代を感じることができるのではないでしょうか。

マナーに十分に注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょう。