お役立ちコラム お墓の色々
お役立ちコラム お墓の色々
- 供養をきわめる -
【キングダム】中華統一の立役者、秦の知将・王翦のお墓はどこにある?

2025年10月よりアニメ第6期が放送される「キングダム」。スケールの大きさや物語の重厚さからファンも多い作品です。キングダムとは、今からおよそ2300年前の中国を舞台に、のちの始皇帝、秦国の「嬴政(えいせい)」が中華を統一するまでを描いた歴史スペクタクル作品です。
その秦の武将のうちの一人に王翦(おうせん)と言う人物がいました。生まれや経歴は謎の多い人物ですが、嬴政の中華統一に王翦が大いに貢献したと言うことは歴史書「史記」にも記載されています。
キングダムでは「仮面をかぶった得体のしれない、自分の国を作ると言う野望をもった野心家」として描かれている王翦ですが、実際はどうだったのか、果たしてどのように中華統一に貢献したのか。
今回はその活躍と、王翦のお墓がどこにあるのかも交えご紹介していきます。
※今回の記事は「史記」または「白起・王翦列伝」に基づいたもので、キングダムと異なる見解が含まれる点もございます。ご了承ください。
趙滅亡の立役者・王翦
王翦の生まれた場所や詳しい出自などは現在のところわかっておりませんが、白起(はくき)、趙の李牧(りぼく)や魏の廉頗(れんぱ)と並び称される「戦国四大将軍」の一人に数えられるほどの名将であったとされています。特に同じ秦将で先達の白起と同等の戦果をあげたとされています。しかしその戦いぶりは白起とは対照的で、大胆な奇策や強襲を駆使し大軍を撃ち破っていた白起に対し、王翦は常に慎重さを重んじる戦いや戦略を好んでいました。徹底した分析と熟慮を重ね、勝利の可能性を十分に高めてから戦を起こすという、堅実かつ確実な戦法をとっていたと言われています。
そんな王翦が初めて史記に登場するのは紀元前236年。趙(ちょう)の第2都市「鄴(ぎょう)」を、同じく秦の武将である桓齮(かんき)と楊端和(ようたんわ)とともに王翦が攻め落とした記述があります。王翦は鄴を責める前にまず9つの城を攻略し、その後鄴を攻め落としたとされています。9つの城を落とした理由は不明ですが、キングダムでは鄴を落とすための布石として描かれています。
さらに7年後の紀元前229年、王翦は大軍を率いて再び趙に攻め入ります。そこで趙の名将・李牧と対決することとなります。「平陽の戦い」では桓齮将軍が趙の将軍・扈輒を破り勝利しますが、続く「肥下の戦い」と「番呉の戦い」では、李牧に敗れてしまいます。この敗北では、合わせて兵20万人を失ったとされています。2度の大敗を喫し「李牧に勝てない」と悟った王翦は、趙の郭開と言う大臣に「李牧は反乱を企んでいる」と言う嘘を吹き込む裏工作を仕掛けます。李牧は、それを信じた趙王によって処刑されてしまいます。
李牧を排除することに成功した王翦は、李牧が本当に死んだことを3カ月にわたり確認したうえで、ようやく攻撃を仕掛けたと伝えられています。その翌年、趙は王都「邯鄲(かんたん)」を王翦と羌瘣(きょうかい)の連合軍に奪われ、滅亡しました。その後趙王家の生き残りである「嘉(か)」を王とした「代(だい)」と言う国を建国しますが、紀元前222年、当時勢いに乗っていた若き将軍・李信(キングダムの主人公・信のモデル)と、王翦の息子である王賁(おうほん)が攻め入り、これを滅ぼします。これにより趙と言う国は完全に滅亡することになります。
楚を滅亡させる
南方の超大国であった「楚(そ)」に攻め入る際、李信が「楚を攻め落とすには20万の兵で足りる」と豪語します。しかし王翦は「秦全軍にあたる60万が必要」と慎重な意見を述べます。秦王・嬴政(えいせい)は王翦の慎重な意見を「老いた証である」と軽蔑しました。王翦は不遇を恐れて一時引退します。
嬴政の命により、20万を率いて楚に攻め込んだ李信とその副将蒙恬(もうてん)は楚軍を相手に連戦連勝を重ねます。この勢いのまま勝ち進むかに思われましたが、楚の大将軍・項燕(こうえん)に急襲され、あえなく惨敗を喫してしまいます。
大敗の知らせを受けた嬴政は、自ら王翦の邸宅に赴き、過ちを詫びて王翦に復帰するよう請いました。王翦は60万の兵力と戦後の莫大な褒賞を条件に復帰を承諾し、さらに出陣後もたびたび褒賞の確認を求める書簡を送りました。その執拗さに側近が諫めると、王翦は「疑い深い秦王には、私が褒美のことばかり考えていると思わせた方が安心させられる」と答えました。つまり保身のための策だと語ったのです。
楚との国境に到着した王翦・蒙武(もうぶ)の連合軍は、侵攻軍でありながら堅固な陣地を築き、兵には出撃を禁じて守備に徹させました。さらに良い食事を与え、兵士と親しく語らい、洗髪まで許可するなど厚遇を施しました。退屈した兵士たちは石投げや幅跳びで遊ぶほど余裕を持つようになり、やがて楚軍は兵糧不足から撤退します。これはすべて王翦の計算通りで、堅牢な守備で兵士の恐怖を和らげ、厚遇で体力と士気を回復させたのです。楚軍の退却が真実と確認すると、王翦は満を持して追撃し、楚軍を討ち、楚王を捕らえます。
それから2年後の紀元前222年、再度攻め入った王翦・蒙武は、ついに楚を滅亡させ南部平定を果たします。
さらに翌年、李信・蒙恬・王賁の三将軍が最後に残った国「斉(せい)」を滅ぼし、ここに秦の悲願、中華統一が実現します。
王翦のお墓はどこにある?
王翦のお墓ですが、中国の陝西省富平県道県鎮の東門から5kmほど離れた、薊県村永和宝の北にあります。お墓がある場所には「王翦墓」と書かれた、四角の形をした石碑が立っています。
王翦の墓は南北に長く、東西にやや細い楕円形をしており、高さはおよそ9メートル、周囲は136メートルに及びます。墓の西方約100メートルには、かつて南から北にかけて6基の小塚が並んでいたとされます。これらの塚には六朝時代の王子たちの衣服や書籍などが納められていたと伝えられています。また、このお墓には古代の盗掘防止策として「流沙層(細かな砂や石を積んだ層)」が用いられていたそうで、掘れば砂や石が崩れて穴が埋まるため、盗掘者は墓室に達することができなかったと言われています。 1956年8月6日、陝西省第一期重点文化財保護地の一つとして指定されています。
【中国陝西省渭南市富平县到贤镇王翦墓】中国陝西省渭南市富平县
まとめ
秦の敵国6大強国の内、その半数に及ぶ趙・燕(えん)・楚の3国を滅亡させ、中華統一へ大きく貢献した王翦。楚を滅亡させた後は戦場に出たと言う記録がないため、その後どうなったのかは現在のところ不明です。おそらく莫大な褒賞を手に引退したものと思われます。キングダムで描かれているような野心家ではないにせよ、慎重派で分析を重ねて策を練り、「勝つべくして勝つ」という言うところでは一致しているのではないでしょうか。
王翦のお墓を参ると、一体何を思い、嬴政の悲願である中華統一を支え、戦場を駆けぬけたのか。その熱い想いを感じ取ることができるかもしれません。
また、王翦のお墓から車で15分ほど行ったところに、息子・王賁のお墓もあります。「キングダム」ファンであれば、一度は訪れて欲しい場所の一つです。ぜひ足を運ばれてみてはいかがでしょう。
お墓は受け継がれる想いや絆があふれ、過去の偉人が遺したその功績までをも感じ取れる場所。そして、一緒に訪れた人との語らいの時間をもたらしてくれるのがお墓参りです。教科書や作品でしか知らない有名人・著名人ですが、お墓を巡ることで、実際にその人が生きていた時代を感じることができるのではないでしょうか。
マナーに十分に注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょう。
初めて中華を統一した始皇帝・嬴政に関連する記事もございます。