お役立ちコラム お墓の色々

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【キングダム】趙の守将 ・李牧のお墓はどこにある?

墓地・墓石コラム

新たにアニメ第6期が放送される「キングダム」。この作品は、約2300年前の古代中国を舞台に、後に始皇帝となる秦国の若き王・嬴政(えいせい)が中華統一を成し遂げるまでの壮大な歴史ドラマを描いた作品です。

中華統一を成し遂げた秦国ですが、唯一勝つことができなかった人物がいました。それが趙の「李牧(りぼく)」です。

キングダムでも度々、主人公・李信(りしん)達の前に現れ、大きな壁として描かれる李牧。アニメ第6期では、まさに趙の李牧と秦の知将・王翦(おうせん)との直接対決が描かれる「鄴攻略戦編」が放送されます。

その生まれや経歴には謎が多い人物ですが、秦の侵攻を幾度も阻止したと言う記録は歴史書「史記」にも記されています。

キングダムでは「趙を救う、最強の智将」として描かれている李牧ですが、実際はどのように趙を救い、秦を撃退したのか。

今回はその活躍と、李牧のお墓がどこにあるのかも交えご紹介していきます。

※今回の記事は「史記」または「廉頗藺相如列伝」に基づいたもので、キングダムと異なる見解が含まれる点もございます。ご了承ください。

趙の守将・李牧

李牧の生まれた場所や出自など、詳しい経歴などは現在のところわかっておりませんが、秦の白起(はくき)や王翦(おうせん)、魏の廉頗(れんぱ)と並び、「戦国四大将軍」と称されるほどの名将であったとされています。度々秦の侵攻を退けた経歴から、史記の著者である司馬遷(しばせん)は、李牧を「守将」と位置づけています。

李牧が歴史書に登場するのは紀元前245年の「趙・匈奴の戦い」です。

李牧はもともと、趙北部と国境を接し、侵攻してくる異民族匈奴(きょうど:モンゴル高原の騎馬遊牧民族)から国境を守る任務を担っていた将軍でした。李牧は租税を独自に集めて兵の費用に充て、戦士の育成にも力を注ぎながら国境防衛に努めました。

李牧がとった戦法は一風変わっていて、「匈奴が攻めてきても決して追撃せず、城に立てこもって防衛に徹せよ。捕虜を取っても斬首せよ」と命じたのです。敵が現れるたびに狼煙(のろし)をあげて警戒を促し、決して野戦を挑もうとしませんでした。

この消極的な戦法に、匈奴はもちろん、趙の兵士からさえ「臆病者」と見下されるようになりました。趙王も李牧を叱責し、ついには彼を召還して別の将軍を任じます。ところが新しい将軍は匈奴と戦うたびに敗れ、軍にも民にも多大な被害を出してしまいました。

そこで趙王は再び李牧に任務を託そうとしますが、李牧は病を理由に辞退します。しかし趙王が強く望んだため、李牧は「私の戦い方を認めてくださるなら従いましょう」と条件を出し、再び国境の地へ赴任しました。

李牧は以前と同じように戦わずに守りを固め続けました。匈奴は「やはり臆病者だ」と侮り、大軍で攻め込んできます。

その時、李牧の真の策略が発動します。李牧は城から敗走したかのように見せかけ、実は敵を誘い込んでいたのです。油断した匈奴軍が雪崩のように侵入してきた瞬間、李牧軍は奇襲を仕掛け、十万を超える匈奴兵を討ち破りました。多大な損害を出した匈奴は、その後趙の国境を侵すことがなくなります。

大功を成した李牧は、相国(しょうこく:廷臣の最高職)に任命され、秦への使節として遣わされました。

戦場だけでなく外交の場でも高い能力を発揮し、秦との同盟を締結した李牧は、秦に人質としてとらわれていた趙の太子、春平君(しゅんぺいくん)を奪還することに成功します。その後も北東の国境を接する国、燕(えん)の2城を落とすなどし、李牧の評価は盤石なものとなります。

武安君・李牧

名だたる名将を抱えていた趙ですが、それを上回る強さを誇っていた秦の侵攻に疲弊して行きます。特に紀元前 262年から2年にわたる長平の戦いでは、秦の白起将軍に大敗を喫した後、捕虜となった兵40万を生き埋めにされ失ったともいわれます。さらに病に付していた当時の名将・藺相如(りんしょうじょ)が世を去り、国力は次第に衰えていっていました。

紀元前245年、藺相如と共に秦の侵攻を防いでいた名将・廉頗までが趙を離れ魏に移ることになり、秦の攻勢はいっそう激しさを増しました。紀元前236年には要地の鄴を失い(鄴の戦い)、さらに2年後には将軍・扈輒が率いた軍が平陽で大敗、10万もの兵を失う惨事となります(平陽の戦い)。

立て続けに敗北を喫していた趙は、北部を守っていた李牧を召喚。紀元前233年、李牧は大将軍に任じられ、秦への反撃に立ち上がることとなったのです。

李牧は、趙北方の要地・宜安において秦軍を迎え撃ちました。この戦いで李牧は地形を巧みに利用し、敵の動きを見極めた上で果敢に出撃。秦の名将・桓齮(かんき)率いる大軍を破り、桓齮を討ち取ることに成功しました(一説には、桓齮は敗走したとも言われています)。この勝利は衰えつつあった趙にとって大きな希望となり、国中に李牧の名声が響き渡ります。趙王もその功績を高く評価し、李牧に「武安君(ぶあんくん:武安城の城主)」の号を与え、さらに厚く用いるようになりました。

しかし秦はそれでも侵攻の手を緩めることはありませんでした。それから3年後、秦軍は再び趙の領内に侵入し、今度は番吾(はご)の地にまで迫ります。李牧はただちに兵を率いてこれを迎え撃ち、冷静な指揮と周到な戦術によって秦軍を退けました。このとき李牧は敵を撃退するだけでなく、周辺諸国からの圧力にも対処しています。韓や魏といった隣国が趙を攻め込もうとした際にも、李牧は果断に動いて侵攻を防ぎ、国境を守り抜いたのです。

このように李牧は一度きりの勝利にとどまらず、繰り返し外敵を撃退することで、諸外国から侵略される趙を守り続けました。その活躍は趙の存亡を左右するほど大きく、まさに「最後の名将」「救国の英雄」と呼ばれるにふさわしい働きであったといえます。

李牧の死と趙の滅亡

李牧は宜安や番吾での連勝によって、趙の国を存亡の危機から幾度も救いました。彼の冷静沈着な戦術と確実な勝利は、趙にとって唯一の希望であり、諸国からも一目置かれる存在となります。

しかし、趙の内情は決して安定してはいませんでした。市中では相次ぐ干ばつと地震による食糧危機。宮廷内では権力争いが絶えず、李牧を重んじる一派と疎ましく思う者たちとの間で対立が深まっていきました。李牧はその功績によって民からも兵からも厚く信頼されていたため、その影響力を恐れた宦官たちは、次第に李牧を排斥しようと画策するようになります。

その頃、秦は着々と中華統一への歩みを進めていました。李牧の存在が秦にとって大きな障壁であることをよく知っていた始皇帝・嬴政とその臣下たちは、武力だけではなく謀略をも駆使して趙を揺さぶります。趙王のお気に入りの臣下であった郭開(かくかい)を買収し、李牧に対する疑念を抱かせることに成功するのです。

紀元前229年、秦は再び大軍をもって趙に侵攻します。このとき李牧は従来通り冷静に対処し、秦軍を容易には寄せつけませんでした。戦況が趙にとってまだ決定的に不利ではなかったにもかかわらず、趙王は郭開らの讒言(ざんげん:人を陥れることを目的とした虚偽の言葉)を信じてしまい、李牧が謀反を企んでいると疑うに至ります。

そしてついに、趙王は李牧を罷免し、さらに捕らえて処刑してしまったのです。趙の民や兵士たちは深く悲しみ、国を守る柱を自ら失ったことを嘆きました。

李牧を失った趙は、もはや秦の大軍に抗する力を持ちませんでした。紀元前228年、秦の王翦(おうせん)・楊端和(ようたんわ)・羌瘣(きょうかい)らが率いる軍勢が趙の王都・邯鄲を包囲すると、抵抗も虚しく趙は陥落します。かつて列強の中で強盛を誇った大国・趙は、この瞬間に歴史の表舞台から姿を消しました。

李牧のお墓はどこにある?

李牧のお墓は、中国国内に複数存在しており、確定的な場所は不明です。山西省臨汾市襄汾県には「趙将李牧之故里」の牌楼が建立されており、墓とされる場所にも「李牧墓」の碑が残されています。また、河南省尉氏県にも李牧の墓があると言われています。

山西省臨汾市襄汾県にある墓域はおよそ6475㎡に及び、墳丘の高さは6〜7mほどもあるので非常に立派なものといえるでしょう。

かつては李牧の子・李栄(りえい)が庵を建てて墓を守っていたと記録されており、後世の人々も彼を偲んで祠堂を建て、毎年3月には墓前で参拝や祭祀が行われていました。一度墓碑や祠は破壊されてしまいましたが、1956年に再建されました。その際、入口には「趙の将・李牧の故里」と刻まれた牌楼(アーチ)が建てられました。今日でも、李牧は地元の人々に敬われ続けており、その墓は名将を語り継ぐ歴史的な場所となっています。

【李牧墓】 中国山西省臨汾市襄汾県

また、現在もその名を残すかつての趙王都・邯鄲にある「七賢祠」には、廉頗や藺相如、李牧など、趙を支えた名将の像が祀られています。合わせて訪れ、悠久の歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょう。

【七賢祠】 中国河北省邯鄲市丞台区丞台

まとめ

本来趙は、廉頗や藺相如、李牧といった歴戦の名将を輩出し、戦国七雄の中でも強国として存在感を放っていました。 しかし度重なる自然災害や宮廷の迷走で急速にその国力を衰えさせた趙は、やがてかつての威勢を失い、戦国の舞台から姿を消すこととなったのです。

李牧の死は、趙にとってのみならず、戦国時代そのものの終焉を早める大きな転換点であったのではないでしょうか。もし彼が生きて指揮を執り続けていたなら、秦の統一はもっと遅れたか、あるいは実現しなかったかもしれません。歴史の「もし」を語ることはできませんが、李牧という名将が処刑されたことは、まさに秦にとって最大の勝利であり、趙にとって最大の悲劇であったと言えます。

李牧のお墓を参ると、趙のために生き、趙のために戦い、最後は趙に殺されてしまった李牧が、どのような思いを持って戦場に赴いていたのか、一体何を守りたかったのか。その熱い想いを感じ取ることができるかもしれません。

お墓は受け継がれる想いや絆があふれ、過去の偉人が遺したその功績までをも感じ取れる場所。そして、一緒に訪れた人との語らいの時間をもたらしてくれるのがお墓参りです。作品や教科書でしか知ることのない有名人・著名人ですが、実際にお墓を巡ることで、その人が生きていた時代を感じることができるのではないでしょうか。

マナーに十分に注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょう。

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