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実は身近な仏教用語 /「玄関」も「大丈夫」も

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実は身近な仏教用語 /「玄関」も「大丈夫」も

建物の入口を指す「玄関」という言葉は、「玄」と「関」、2つの漢字に分かれます。「関」は街道や町の境界の意味を持つ言葉ですので、入口を意味する言葉に使われるのは、なんとなく理解できます。では、「玄」はどうでしょう?どんな意味を持つ言葉で、なぜここにあるのか、ご存知でしょうか?
漢字から推察してもピンとこないのは仕方のないことです。実は「玄関」の「玄」は、仏教用語で「悟り」を意味する「玄妙」という言葉に由来しています。「玄関」は、もともとは「悟りの道の入口」を表す言葉が転じたものなのです。
このように日本語には、仏教用語から成り立つ言葉が少なくありません。本記事では、日常生活でよく使う言葉の中から、もともとは仏教用語だったものを紹介します。

*言葉の由来には、諸説があります。ここではその一例を紹介します。

よく見ると馴染みのない言葉

『挨拶』

毎日のように行う挨拶。その漢字をあらためて見ると、「挨」と「拶」、どちらもあまり馴染みのないものが使われていることに気づきます。漢字の意味を調べると、「挨」は「押す/開く/押しのける」という意味があり、「拶」には「迫る/寄る/近づく/圧迫する」という意味があることがわかります。私たちが普段交わしている挨拶のイメージとは、少し異なるような気がしてきませんか?「押す」「迫る」といった意味は力強すぎるような印象を受けます。
「挨拶」という言葉はもともと、仏門の修行の場で師匠が弟子に声を掛け、その返答で修行の度合いをはかるという習慣のことを指していました。ですから、挨拶の時には、師匠も弟子もお互いが真剣です。このような由来のため、挨拶には「押す」「迫る」といった力強い言葉が使われています。

似ているけど意味が少し異なる言葉

『我慢』

我慢は、仏教の煩悩の一つ『慢』に由来した言葉です。『慢』は、他人と自分を比べて乱れる心のことで、7つの種類に分けられています。*4つに分けた「四慢」、9つに分けた「九慢」という分け方もありますが、ここでは七慢の紹介のみに留めます。

1. 慢
自分より劣っている人を相手にするとうぬぼれ、同等の人には心を高ぶらせる。

2. 過慢(かまん)
自分と同等の人に自分が優れていると過剰評価し、自分以上の人は自分と同等と過小評価する。

3. 慢過慢(まんかまん)
優れた人よりも、自分はさらに優れているとうぬぼれる。

4. 我慢(がまん)
自信が強く、自分本位になる。

5. 増上慢(ぞうじょうまん)
悟ってもいないのに悟ったと勘違いし、得ていないものを得たと誤解し、驕り高ぶる。

6. 卑慢(ひまん)

優れた人と比べて自分が劣っていることを卑屈に思う。

7. 邪慢(じゃまん)
間違ったことをしても正しいことをしたと言い張る。

「我慢」に陥ると、強すぎる我に振り回され、自分自身も苦しむことになると考えられています。転じて現在のように、「忍耐」と似た、耐え忍ぶ意味を持つ言葉になりました。

『機嫌』

「機嫌がいい」「機嫌を伺う」など、人の心や気持ちを表す言葉として使われている「機嫌」。もともとは「譏嫌」と書き、仏教の言葉でした。
「譏」は、「責める/そしり/そしる/悪口を言う」といった意味を持ちます。「嫌」という字は文字通り「嫌い」を意味する言葉ですから、合わせると「そしられきらわれる」という意味になります。
ずいぶん厳しい意味ですが、それもそのはず。「譏嫌」はもともと戒律の名前なのです。正しくは「息世譏嫌戒(そくせきげんかい)」という言葉で、僧侶が世間から嫌われることの無いよう、日々の行動を戒めたものでした。
やがて、現在のような心や気持ちを表す言葉に変わりますが、「機嫌を伺う」といった表現にはもともとの意味を垣間見ることができます。

もともとの意味を知ると気軽に口にするのがはばかられる言葉

『大丈夫』

「大丈夫」という言葉は「丈夫」という言葉に、程度が大きいという意味の「大」が付いた言葉です。「丈夫」には、「一人前の男であるさま/しっかりしていて壊れにくいさま/健康であるさま」という意味があり、漢語では才能人格の備わった立派な人を「丈夫」と呼んでいました。「大」が付くと、人を超えて優れたもの意味します。転じて、菩薩の呼び方のひとつとなりました。「そんな人が近くにいたら安心」ということから、現代では「怪我していない?」「大丈夫」といった、「問題のないさま」として使うようになります。もともとの意味を知ると、自分で大丈夫というのは、なかなか恐れ多いことです。

『微妙』

どちらとも言いかねるさまを表す「微妙」,という言葉。一昔前に、若者言葉として「ビミョー!」が流行ったこともありました。実はこの言葉の由来も仏教です。仏教用語では、「何とも言い表せないほど美しく、優れていること」を意味した言葉で、「びみょう」ではなく「みみょう」と読みます。インドの古語であるサンスクリット語を漢字に訳したもので、仏典ではお釈迦さまの教えを「みみょう」なものと表現しています。つまり、お釈迦さまの言葉は、言い表せないほど奥深く素晴らしいということです。時が経つにつれ、「注意深く聞いて考えなければ理解できない」という意味に転じ、さらに現代のような「一見するとよくわからないもの」を意味する言葉に変わってしまいました。
もともとの意味を知ると、なんだかよくわからない話に「ビミョー!」と気軽に返事をするのは、とても恐れ多いことです。適当な返事に使うのは、やはり適切ではありません。

言葉になって、生活に溶け込む仏教

本記事で紹介した言葉は、日常生活の中でも特に使う頻度の高い言葉だと思われます。こうした言葉を見直してみると、日々の生活をあらためることできるでしょう。
たとえば、出会ったときの常套句のように考えがちな「挨拶」。目上の人から声を掛けられたら、元気よく返事をするが良いとされています。また友達同士でも、相手からの返事に元気が無ければ、具合でも悪いのかと心配になりますよね。相手の状態を推し量る挨拶の本義は現在でも活きているのです。今日から早速、誰かと挨拶を交わしたときには、気持ちのいい声で返事をしたり、相手の様子を観察してみてはいかがでしょうか。
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