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辞世の句を読み解く ―徳川家康 前編―

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辞世の句を読み解く ―徳川家康 前編―

「先に行く あとに残るも 同じこと 連れてゆけぬを わかれぞと思う」
「嬉やと 再び醒めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」

2023年の大河ドラマの主役・江戸幕府を開いた天下人「徳川家康」は、この2つの辞世の句を残しています。
辞世の句とは、死を覚悟した人間がこの世に書き残す、生涯最後の句(または急逝により、事実上生涯最後となった句)を指します。その句には、読み手の死生観や人生観が色濃く表れ、特に偉人たちの残したものは人々の心を打ち、後世まで語り継がれています。波乱万丈な人生を歩んだ彼らの辞世の句は、私たちに「どう生きるか?」を問いかけてくるようです。
本記事では、徳川家康の生涯を前後編に分けて簡単に紹介しながら、その辞世の句に込められた想いを読み解きます。

徳川家康の生涯 ―不遇な幼年期―

家康には辞世の句とは別に、非常に有名な句があります。「人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず」というものです。現代の言葉にすると「人生は、重たい荷物を背負って遠くまで歩くことと同じ。急いではいけない」という意味です。家康の人生はこの句に象徴されるように、耐えて耐えて耐え忍んでようやく大成した、まさに「大器晩成」な生涯だったといえます。
1542年、現在の愛知県東部にあたる三河国・岡崎城で、家康は生まれました。父は、松平氏8代当主・松平広忠。その嫡男にあたるので、いわゆる“お世継ぎ”、次期当主です。そんな権力者のもとに生まれた家康ですが、幼少期から不遇な時代が続きます。
当時の三河国は、「東に今川義元・西に織田信秀」と強国に挟まれており、いつでも戦が始まるような状況にありました。1547年、ついに織田氏が家康の住む岡崎城に向けて侵攻したため、父・松平広忠は今川氏に援軍を要請。今川義元は、その見返りとして家康を人質に出すように要求し、家康は若干6歳にして、人質として今川氏に送られます。しかしその道中、付き添っていた家臣に裏切られ、なんと逆に織田軍に売り飛ばされてしまうのです。
その後、約2年間を織田氏のもとで過ごした家康は、人質交換によってあらためて今川氏に移され、また人質生活が始まります。父の松平広忠はすでに亡くなっていました。なのに…次期当主の家康は今川氏の人質。岡崎城は、事実上今川氏に支配されたのです。

徳川家康の生涯 ―ターニングポイントは「桶狭間」―

18歳になった家康に風雲急が訪れます。「桶狭間の戦い」にて、今川軍25,000人対織田軍3,000人という圧倒的な兵力差を覆し、織田信長が勝利したのです。この戦いには家康も参加していましたが、敗北を知ると今川氏からの独立を決意します。
こうしておよそ12年に渡る人質生活が終わり、家康は三河国の主として、戦国時代に名乗りをあげます。しかし、家康の不運はまだまだ続くのでした。

家康の生涯―生命の危機を感じた「三方ヶ原の戦い」―

家康の人生で最も大負けした経験がこの「三方ヶ原の戦い」です。1572年、織田信長を討つため京都に向けて出発した武田軍は、家康の本城・浜松城の目前まで迫ります。このとき家康は織田氏と手を組んでいたので、武田軍は敵方にあたりました。
徳川軍の軍勢は、織田信長からの援軍を合せても約11,000人。一方の、武田軍は約30,000人と約3倍の兵力差がありました。家康は攻めることもできず、浜松城に立てこもる作戦をとります。
しかし武田軍は、沿岸部の浜松城を無視して三河国方面へと進撃したのです。家康にとってこれは屈辱。後ろから攻めてくる危険があった浜松城を捨ておいたのですから、「眼中にないよ」と言われているようなものです。忍耐強いはずの家康もこの挑発には我慢できず、つい討って出てしまいました。
実はこれは武田軍の罠。徳川軍は散々に敗北し、有能な家臣の数々が戦死してしまいます。家康も命からがら逃げ帰り、この失敗を大いに反省しました。自戒の念を忘れることのないように、帰陣直後の自分の姿を絵に描かせた「しかみ像」という逸話と絵(「徳川家康三方ヶ原戦役画像」)が残っています。

辞世の句に込められた想いとは?

人生最大の大敗を喫した家康…しかし、まだまだ波乱万丈な人生は続くのです。家康の生涯の続きは、後編にてご紹介することにして、本項では辞世の句のひとつを解説いたします。

「先に行く あとに残るも 同じこと 連れてゆけぬを わかれぞと思う」

「行く」とは亡くなることを意味しています。なので前半の「先に行く あとに残るも 同じこと」は、「先に亡くなるのも後から亡くなるのも同じことだ。いずれみんなあの世に行く」という意味です。では、後半の「連れてゆけぬを わかれぞと思う」はどんな意味が考えられるでしょうか?
この後半部分を読み解くには、当時の武家の風習が参考になります。“追い腹”という言葉をご存知でしょうか?亡くなった主君の後を追って、その家族や家臣が切腹をすることです。主君への忠誠心を示す行為として、戦国時代~江戸時代初期まで美徳のように行われていました(1663年、徳川家綱の時代から法律で禁止に)。
実はこの句は「自分の後を追って殉死することを禁じるための家臣たちへのメッセージ」と考えられており、現代の言葉に直すとこのようになります。
「先に亡くなるのも後に亡くなるのも同じことだ。いずれみんなあの世に行く。だから、私の後を追って死んだりしないように。ここで一度別れよう」
「三方ヶ原の戦い」の際、自らの誤った判断で多くの家臣を犠牲にしてしまった家康。絵に残すほど深い後悔は、江戸時代という太平の世を築いたあとも、きっと忘れることはなかったのでしょう。苦渋の人生を歩んできた家康を支えてくれた家臣への想いがこの句には込められているのです。

後編もお楽しみに…!

そんな辞世の句を残して亡くなった徳川家康には、実はいくつものお墓があります。なぜ?
偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜徳川家康編