お役立ちコラム お墓の色々

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偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜徳川家康編

供養・埋葬・風習コラム

偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜徳川家康編

ご先祖のお墓参りに限らず、歴史上の人物や偉人・著名人のお墓を詣でる趣味を持つ人を、昔から掃苔家(そうたいか)と呼びます。「お墓の苔をきれいに掃き清める」という意味からきていますが、昨今では「墓マイラー」という呼び方をする場合も多いようです。

名所旧跡を回りながらお墓を巡り、歴史に思いを馳せる…そんなひとときの中で、こんな疑問を持たれた方はいらっしゃらないでしょうか。

「偉人のお墓が複数あるのはなぜだろう?」

複数のお墓がある偉人がいる

たとえば、江戸幕府を開いた徳川家康。2023年には家康を主人公としたNHK大河ドラマ「どうする家康」が放映されますが、家康の墓として伝えられるものも、実は複数存在します。

以下は代表的なものです。

・久能山東照宮(静岡県)
・日光東照宮(栃木県)
・南宗寺(大阪府)
・圓光寺(京都府)
・大樹寺(愛知県)

現代の感覚からすると、一個人のお墓が複数あることに、疑問を持たれる方もいらっしゃるのではないでしょうか?

“お墓”は1種類だけではない

“お墓”という大きなくくりの中には、もっとも一般的な「遺体を埋葬したお墓」の他に、髪や爪、分骨といった遺体の一部や遺品等を埋めたお墓や、中に写経を納めるなどして死者を供養・慰霊するための目的で造立された供養塔などがあります。

そして、造立された石塔には、五輪塔(ごりんとう)や宝篋印塔(ほうきょういんとう)、無繕塔(むほうとう)、笠塔婆(かさとうば)等の多くの種類があります。同じ石塔で括られるものですが、地域や時代により、その形状には著しい差があります。

五輪塔や宝篋印塔、お墓に関する語句の解説については、以下の記事をご覧ください。

五輪塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します


お墓のデザインはどんなものがある?


墓標とは?墓石や墓碑など、似ている言葉との違いを解説します

家康のお墓を分類してみる

家康のお墓を分類してみましょう。家康は元和2年(1616年)4月17日、駿府城(現在の静岡県)でその生涯を終えました。そして、家康の遺命によって、その日のうちに久能山に埋葬されました。翌年には、朝廷から神号「東照大権現」が宣下され、日光東照宮に移されたとも言われています。現在は神として祀られている家康ですが、では、現在“家康の墓”と伝わっているものには、どのような背景があるのでしょうか。

偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜徳川家康編

遺体を埋葬したお墓

久能山東照宮

駿府城で息を引き取った家康は、遺言に従って久能山に埋葬されました。
神廟(家康墓所)は、久能山東照宮本殿の後方にある廟門から40段の石段を上った所にあります。当初の廟所は木造檜皮造りでしたが、寛永17年(1640年)に3代将軍・徳川家光が現在の石造宝塔に造り替えています。
家康の遺命により西向きに建てられているこの神廟は、1955年6月22日に国の重要文化財に指定されました。

日光東照宮

日光東照宮の「眠り猫」の先にある「奥の院」には宝塔があります。奥社宝塔(おくしゃほうとう)です。家康はこの地に、元和3年(1617年)に改葬されたと言われています。
高さは5mほどあり、もともとは元和8年(1622年)に木造で創建されましたが、寛永18年(1641年)に石造に改められました。その後、大きな地震が発生し倒壊してしまいますが、天和3年(1683年)に鋳銅製に改められ、今日に至っています。なお、1908年8月1日に国の重要文化財に指定されました。

南宗寺

南宗寺(なんしゅうじ)は、弘治3年(1557年)創建の大阪府堺市にある名刹です。
南宗寺に伝わる「南宗寺史」では、家康が大阪夏の陣(1614-1615年)の茶臼山の戦いにて真田幸村の猛攻を受け敗れ、後藤又兵衛の槍によって命を落とした」とされ、その遺骸は南宗寺の開山堂下に隠され、後に改葬された」という伝説が残っています。
現在、開山堂跡には無名塔があり、その隣には「この無名塔を家康の墓と認める」という幕臣であった山岡鉄舟による石碑が残っています。
また、昭和42年(1967年)に建てられた墓もあり、墓の裏側には松下電器産業(現パナソニック)の創業者・松下幸之助氏の名前も、賛同者として記されています。

家康の遺体の一部や遺品などが納められるもの

圓光寺

徳川家康が開いた洛陽学校がその始まりである圓光寺(えんこうじ)。その開かれた校風の中で、多くの学僧や絵師、文人たちが育ちました。
圓光寺の境内の中、京都市内北部を眺めることができる高い場所に、家康の墓があります。ここには家康の歯が埋葬されていると伝えられています。

家康の御霊を供養するために建てられたもの

大樹寺

今川義元方であった家康は桶狭間の戦い(1560年)に敗れ、この大樹寺(だいじゅじ)に逃げ帰ります。そこで、住職から「太平の世を目指す」教えを受け、家康は自害を思いとどまったそうです。
大樹寺は松平氏の菩提寺でもあり、もともとは松平八代のお墓の隣に家康を祀る予定がありましたが、東照大権現と神格化されたため、その計画はなくなりました。その後、「仏式のお墓が少ないのは寂しい」という声があがり、1969年4月に松平八代墓の隣に家康の墓碑が建てられました。

まとめ

今回は全国に複数ある“家康の墓”にスポットを当てました。

一般的には「日光東照宮=家康の墓」といった認識かと想像しますが、それ以外にも古くからの伝承に関連して、家康を偲ぶお墓が建てられています。

大切な誰かのことを想いお墓を建てる…その心は現代に生きる私たちにも共感できるものだと思います。

ぜひ、全国各地の“家康の墓”を巡って、その雰囲気を肌で感じ、目で愉しみ、歴史やお墓を建てられた方々の想いに、心で触れてみてはいかがでしょうか。


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