お役立ちコラム お墓の色々

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偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜織田信長編

供養・埋葬・風習コラム

偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜織田信長編

ご先祖のお墓参りに限らず、歴史上の人物や偉人・著名人のお墓を詣でる趣味を持つ人を、昔から掃苔家(そうたいか)と呼びます。「お墓の苔をきれいに掃き清める」という意味からきていますが、昨今では「墓マイラー」という呼び方をする場合も多いようです。

名所旧跡を回りながらお墓を巡り、歴史に思いを馳せる…そんなひとときの中で、こんな疑問を持たれた方はいらっしゃらないでしょうか。

「偉人のお墓が複数あるのはなぜだろう?」

複数のお墓がある偉人がいる

たとえば、戦国大名として著名な・織田信長。信長の墓と伝えられるものは、実は全国に20ヵ所以上あります。以下は代表的なものです。

・本能寺(信長公廟:京都府)
・阿弥陀寺(京都府)
・大徳寺総見院(京都府)
・大雲院(京都府)
・妙心寺玉鳳院(京都府)
・高野山奥之院(和歌山県)
・安土城跡(滋賀県)
・西光寺(滋賀県)
・南宋寺本源院(大阪府)
・瑞龍寺(富山県)
・崇福寺(岐阜県)
・西山本門寺(静岡県)

現代の感覚からすると、一個人のお墓が複数あることに、疑問を持たれる方もいらっしゃるのではないでしょうか?

“お墓”は1種類だけではない

“お墓”という大きなくくりの中には、もっとも一般的な「遺体を埋葬したお墓」の他に、髪や爪、分骨といった遺体の一部や遺品等を埋めたお墓や、中に写経を納めるなどして死者を供養・慰霊するための目的で造立された供養塔などがあります。

そして、造立された石塔には、五輪塔(ごりんとう)や宝篋印塔(ほうきょういんとう)、無繕塔(むほうとう)、笠塔婆(かさとうば)等の多くの種類があります。同じ石塔で括られるものですが、地域や時代により、その形状には著しい差があります。

五輪塔や宝篋印塔、お墓に関する語句の解説については、以下の記事をご覧ください。

五輪塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

お墓のデザインはどんなものがある?

墓標とは?墓石や墓碑など、似ている言葉との違いを解説します

信長のお墓を分類してみる

信長のお墓を分類してみましょう。信長は1582年に本能寺の変で明智光秀に討たれた際に、遺体が発見されず、明智光秀が「首」を手に入れられなかったことから、「埋葬墓」は存在しないと考えます。では、現在“信長の墓”と伝わっているものには、どのような背景があるのでしょうか。

信長の遺体の一部や遺品などが納められるもの

本能寺(信長公廟)

信長の三男・信孝が集めた遺骨を納めてお墓を建立したものと伝えられています。

阿弥陀寺

阿弥陀寺開山の清玉(せいぎょく)上人が、本能寺の変の際、僧徒を引き連れ駆け付けたものの、信長は既に亡くなっていたため、その場で火葬し遺骨を法衣に包んで持ち帰ったとされています。

安土城跡

信長一周忌の後に、秀吉が信長の太刀や烏帽子を納めたとされています。

西光寺(さいこうじ)

貞安(ていあん)上人が開き、織田信長ゆかりの「安土宗論」で知られる浄土宗の寺院。信長の遺歯を納めたと伝わっています。

瑞龍寺(ずいりゅうじ)

前田利長が本能寺の変後、自領に織田信長・信忠親子の分骨を迎え、供養したと伝わっています。

崇福寺(そうふくじ)

崇福寺は信長が岐阜に入って以来の織田家の菩提寺です。位牌の形をした石碑があります。信長父子の遺品を側室が寺内に埋め位牌を安置したとされています。

西山本門寺

囲碁の名人・本因坊家の始祖で、後に徳川家康に江戸に招かれもした算砂(さんさ)が、24歳の時、本能寺の変で討たれた信長の首を、光秀方の目を逃れて持ち出させ、富士山の麓に葬らせたという伝承が残っています。

信長の御霊を供養するために建てられたもの

大徳寺総見院(だいとくじ そうけんいん)

豊臣秀吉が織田信長の一周忌に菩提を弔う為に創建したとされています。

大雲院(だいうんいん)

織田信長、信忠親子の菩提を弔う為に正親町(おうぎまち)天皇の勅命により建てられたとされています。

妙心寺玉鳳院(みょうしんじ ぎょくほういん)

妙心寺の最古の塔頭(たっちゅう=大きな寺院の敷地内にある小さな寺院)とされる玉鳳院には、信長の重臣・滝川一益(たきがわ かずます)が建てたとされる織田信長と信忠の供養塔があります。

高野山奥之院(こうやさん おくのいん)

供養塔が見つかったのは1970年。死者の極楽往生を願い、弘法大師の御廟があるこの地に建てられたと言われています。

南宋寺本源院(なんそうじ ほんげんいん)

南宗寺の塔頭である本源院には、織田信長と信忠の供養塔が残されています。
本源院は江戸時代初期に薩摩(さつま)藩主の寺として建てられたものであることから、そこになぜ信長の供養塔があるのかはわかっていませんが、本源院が大徳寺を本山としていたからともいわれています。

まとめ

今回は全国に複数ある“信長の墓”にスポットを当てました。
いずれも伝承であるため、真偽の程はわかりません。しかし、間違いなく言えるのは、どのお墓も「信長公の御霊を供養するために建てられた」ということです。

「長年お仕えしてきて大恩があるから」
「手厚い庇護を与えてくださったから」
「その偉業を称えて」

様々な理由で信長の極楽往生を願う人々が多く存在し、その数だけお墓が建てられた…ということではないでしょうか。

大切な誰かのことを思ってお墓を建てる…その心は現代に生きる私たちにも共感できるものだと思います。

ぜひ、全国各地の“信長の墓”を巡って、その雰囲気を肌で感じ、目で愉しみ、歴史やお墓を建てられた方々の想いを、心で触れてみてはいかがでしょうか。

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