お役立ちコラム お墓の色々

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偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜真田幸村(信繁)編

供養・埋葬・風習コラム

偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜真田幸村(信繁)編

ご先祖のお墓参りに限らず、歴史上の人物や偉人・著名人のお墓を詣でる趣味を持つ人を、昔から掃苔家(そうたいか)と呼びます。「お墓の苔をきれいに掃き清める」という意味からきていますが、昨今では「墓マイラー」という呼び方をする場合も多いようです。

名所旧跡を回りながらお墓を巡り、歴史に思いを馳せる…そんなひとときの中で、こんな疑問を持たれた方はいらっしゃらないでしょうか。

「偉人のお墓が複数あるのはなぜだろう?」

複数のお墓がある偉人がいる

たとえば、2016年の大河ドラマ「真田丸」の主人公であった真田幸村(信繁)。幸村は、1615年の大坂夏の陣で、徳川家康を追いつめながらも、敗れることとなりますが、「日の本一の兵」と称された武将です。

その幸村の墓と伝えられるものは、全国に10ヵ所以上あります。
代表的なものは以下のとおりです。

・妙心寺塔頭養徳院(京都府京都市)※非公開
・龍安寺塔頭大珠院(京都府京都市)※非公開
・田村家墓所(宮城県白石市)
・長国寺(長野県長野市)
・孝顕寺(福井県福井市)
・妙慶寺(秋田県由利本荘市)
・田原家私有林墓石(鹿児島県南九州市)
・お篭もり堂(長崎県南島原市)
・一心院(秋田県大館市)
・心眼寺(大阪府大阪市)

現代の感覚からすると、一個人のお墓が複数あることに、疑問を持たれる方もいらっしゃるのではないでしょうか?

“お墓”は1種類だけではない

“お墓”という大きなくくりの中には、もっとも一般的な「遺体を埋葬したお墓」の他に、髪や爪、分骨といった遺体の一部や遺品等を埋めたお墓や、中に写経を納めるなどして死者を供養・慰霊するための目的で造立された供養塔などがあります。

そして、造立された石塔には、五輪塔(ごりんとう)や宝篋印塔(ほうきょういんとう)、無繕塔(むほうとう)、笠塔婆(かさとうば)等の多くの種類があります。同じ石塔で括られるものですが、地域や時代により、その形状には著しい差があります。

五輪塔や宝篋印塔、お墓に関する語句の解説については、以下の記事をご覧ください。

五輪塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

お墓のデザインはどんなものがある?

墓標とは?墓石や墓碑など、似ている言葉との違いを解説します

幸村のお墓を分類してみる

幸村のお墓を分類してみましょう。大阪夏の陣で幸村は討ち死にしたとされていますが、諸説あります。「埋葬墓」と伝わるものも存在しますが、真偽は定かではありません。そのことも踏まえて、現在“幸村の墓”と伝わっているものには、どのような背景があるのでしょうか。

幸村の遺体の一部や遺品などが納められているとされる場所

妙心寺塔頭養徳院(みょうしんじ たっちゅう ようとくいん)

妙心寺の塔頭(たっちゅう=大きな寺院の敷地内にある小さな寺院)である養徳院。
ここには、幸村が大坂夏の陣で福井藩の西尾仁左衛門に討ちとられた後、首級が養徳院に葬られたという伝承があり、供養塔が残っています。

孝顕寺(こうけんじ)

大阪夏の陣で幸村を討ち取ったとされる西尾仁左衛門は、二代福井藩主・松平忠直の家臣です。
孝顕寺は初代福井藩主・結城秀康と西尾家の菩提寺で、仁左衛門は幸村の首を福井に持ち帰り、供養のために首塚を造ったという伝承が残っています。
ただ、現在、痕跡は残っておらず、「首塚が境内のどこにあったのかは不明」とされています。
※首塚に安置されていた地蔵像は、福井市立郷土歴史博物館に保存されています。

田原家私有林墓石

「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたり加護島へ」
これは、大坂の夏の陣で豊臣家が滅んだあと、上方などで歌われたわらべ唄の一節です。

この唄にあるように、幸村は大阪夏の陣で討ち死にしたのではなく、豊臣秀頼と共に島津氏を頼って薩摩に落ちのびた…という伝説もあります。

豊臣家再興のために薩摩に隠れ住み、そのまま生涯を終えた幸村は、この地に埋葬されたとのことです。
現在も地元自治会手作りの案内板があるなど、幸村は今も地元の人に愛され親しまれています。

一心院

こちらも幸村は討ち死にせず逃亡した…という伝説に基づいたお墓です。
薩摩へ逃れ、数年間を過ごした幸村は、島津家が徳川幕府へ恭順したのを期に、息子の大助と共に奥州(東北)の地を目指したそうです。
その後、大館を安住の地とした幸村は、1641年に75歳で没し、大助も大館の地で没したと言われています。

幸村の御霊を供養するために建てられたもの

龍安寺塔頭大珠院(りょうあんじ たっちゅう だいしゅいん)

龍安寺の塔頭である大珠院。その大珠院前の鏡容池(きょうようち)の中にある小島「弁天島」に、幸村とその妻・竹林院(大谷吉継の娘)のお墓があります。
幸村の七女「かね」の夫である石川備前守貞清(光吉)により建立されました。
なお、大珠院は石川氏の菩提所です。

田村家墓所

幸村の九女・阿菖蒲(おしょうぶ)は、旧三春領主田村氏の後裔・片倉定広に嫁ぎ、寛文4年(1664年※異説あり)に亡くなり、この田村家墓所に葬られました。
阿菖蒲の墓碑は夫・定広の墓碑の隣にありますが、その隣に幸村の墓碑と伝えられる無銘の墓碑が建っています。建立時期は不明ですが、阿菖蒲が生前、幸村の遺髪を埋葬して建立したものと伝えられています。徳川の敵であった幸村。江戸時代真っ只中である当時の情勢では、無銘の墓碑を立てるのが精一杯だったのかもしれません。

長国寺(ちょうこくじ)

真田家の菩提寺である曹洞宗の寺院「長国寺」。ここには「真田幸村・大助父子」の供養碑が建てられています。江戸時代の間は、徳川家と敵対した幸村父子ゆかりの碑を建てることは叶わず、大正3年(1914年)に十一代当主・真田幸正が建立しました。

妙慶寺(みょうけいじ)

幸村の五女・顕性院(けんしょういん=お田(おでん)方)が建立したと伝えられる妙慶寺。位牌が残されています。

お篭もり堂

こちらも幸村は討ち死にせず逃亡した…という伝説に基づいたお墓です。
伝承によると、幸村と大助の父子は薩摩に逃れ、その後、大助は島原半島に移住したとされています。

心眼寺

心眼寺(しんがんじ)は安土桃山時代の後期、創建されましたが、大阪冬の陣のあと取り壊されます。その後、1622年に真田家の先祖海野氏の助力で、大阪冬の陣の陣地跡(真田丸)に、真田幸村と息子大助の供養の為に再建されました。

まとめ

今回は全国に複数ある“幸村の墓”にスポットを当てました。
北は東北、南は九州と広い範囲で残る幸村の伝承。その真偽の程はわかりませんが、最後まで豊臣家に忠誠を尽くした忠臣・幸村が、いかに愛され、そしてその極楽往生を多くの人々が願っていたのかを物語っています。

大切な誰かのことを思ってお墓を建てる…その心は現代に生きる私たちにも共感できるものだと思います。

ぜひ、全国各地の“幸村の墓”を巡って、その雰囲気を肌で感じ、目で愉しみ、歴史やお墓を建てられた方々の想いを、心で触れてみてはいかがでしょうか。


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ファンなら一度はお参りしたい偉人のお墓 戦国編