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辞世の句を読み解く ― 高杉晋作編 ―

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辞世の句を読み解く ― 高杉晋作編 ―

「おもしろき こともなきよを おもしろく」

幕末の志士・高杉晋作はこのような辞世の句を残しました。この句からは、江戸幕府という巨大な組織を相手に戦った、晋作の気概が感じられます。
辞世の句とは、死を覚悟した人間がこの世に書き残す、生涯最後の句(または急逝により、事実上生涯最後となった句)を指します。その句には、読み手の死生観や人生観が色濃く表れ、特に偉人たちの残したものは人々の心を打ち、後世まで語り継がれています。波乱万丈な人生を歩んだ彼らの辞世の句は、私たちに「どう生きるか?」を問いかけてくるようです。
本記事では、高杉晋作の生涯を簡単に紹介しながら、その辞世の句を読み解きます。

高杉晋作の生涯 ―病弱な少年時代から英国公使館を焼き打つまで―

1839年9月27日、晋作は長州藩の上級武士の子として生まれました。広大な武家屋敷で、当時としては恵まれた環境で幼少時代を過ごします。ただし、その頃は病弱で気弱な子どもだったそうです。

19歳になると吉田松陰の松下村塾に入塾。松陰から多大な影響を受け、日本の行く末を憂うようになります。ちなみに、久坂玄瑞と共に「松下村塾の双璧」と呼ばれた、優秀な生徒だったと伝えられています。

上級武士の子である晋作は、藩や周囲からも期待された存在でした。1862年、藩命により上海へ渡航します。そこで欧米に支配された清朝中国の様子に愕然とします。日本もまた、欧米列強に開国を迫られていた時だったからです。諸外国に弱腰の幕府では日本が危ない…危機感に駆られた晋作は、帰国後に同志と共に英国公使館を焼き打ちします。これ以降、まるで止まっていた時が動き出すかのように、晋作の周りでは毎年のように事件が起こるのです。

高杉晋作の生涯 ―奇兵隊創設も危機に陥る長州藩―

1863年5月、長州藩は下関で外国船を砲撃。そして、同年6月には、晋作の手で奇兵隊が創設されます。奇兵隊とは、藩士で編成された正規軍隊と異なり、藩士以外の武士や農民や町民などのさまざまな身分のものが有志で集まった非正規の混成部隊です。

奇兵隊が正規の軍隊より優っていた点は、その士気の高さでした。江戸時代は、関ケ原以降、2世紀半に渡り大規模な戦争・内乱の無い平和な時代。そのため、「武士」といえども実戦経験は少なく、逆に身分が高く優遇されていたため、戦への士気は高くなかったようです。一方、奇兵隊は有志の集まりでしたので、その士気は高く、これが戦での強さにつながりました。

しかし、1864年には、下関がイギリス・フランス・アメリカ・オランダの列強4カ国から報復攻撃を受け、その圧倒的な攻撃の前に長州藩の砲台は壊滅してしまいます。この危機に、晋作は和平交渉のために敵艦に乗り込みます。実はこのとき、本来晋作は脱藩の罪で謹慎中の身でした。そんな状態なのに大役に抜擢されるのですから、周囲からの評価の高さが伺えます。また、今まさに戦争をしていた敵の懐に出向くわけなので、晋作の度胸も相当なものです。

高杉晋作の生涯 ―2度の長州征伐を乗り越え、倒幕へ―

欧米列強から攻撃された長州藩ですが、1864年に起こした「禁門の変(長州藩と会津・薩摩の間で起きた、京都での軍事衝突)」により、今度は幕府から征伐軍を差し向けられます(第一次長州征伐)。度重なる危機に当時の長州藩内部は、幕府寄りの派閥が主導権を握っていました。しかし、晋作はたった80名程の同志と共に、幕府よりの一派を失脚させます。
なお、第一次長州征伐事態は、勝海舟や西郷隆盛の交渉により戦争にはならず、長州が一方的に降参して終わりました。

その2年後の1866年、倒幕派が主流になっていた長州藩に2度目の征伐軍が差し向けられます。長州藩はこれに応戦。晋作は海軍総督として指揮をとります。幕府軍15万対長州軍1万という圧倒的不利な状況でしたが、奮戦した長州藩はなんと幕府軍を追い払うことに成功します。
長州藩の予想外の勝利により、もはや幕府に大した力がないことを知った諸藩。これをきっかけに倒幕ムードは一気に高まっていきます。そして1867年、大政奉還が実現するのです。

辞世の句に込められた不撓不屈の精神

その後の晋作はというと、持病の肺結核が悪化。下関市の桜山で療養に専念したものの、1867年5月16日の深夜に息を引き取りました。同志たちが倒幕へと力強く歩みを進める傍らで一体どんな思いがあったのでしょうか。悔しい思いでしょうか。それとも、これまでの人生に満足していたのでしょうか。真相は晋作本人にしかわかりません。しかし、「おもしろき こともなきをよを おもしろく」という辞世の句からは、どこか満足げな印象を受けます。

・絶体絶命の中、和平交渉に成功
・奇兵隊を用いて、圧倒的不利な第2次長州征伐に勝利
・長州藩を倒幕の一大勢力まで先導

藩・幕府・諸外国といった圧倒的な権力を相手にしながら、諦めることもなく、とうとう藩を主導して諸外国を味方につけ、幕府を倒してしまった高杉晋作。まさに、おもしろきこともなき世の中を変えてしまったのです。人は彼のそんな行動力・リーダーシップ・破天荒さに惹かれて、この句は今も語り継がれているのかもしれません。
苦境や困難に直面したときに、いつも心を奮い立たせてくれる、至高の一句といえるでしょう。

*彼のお墓は、山口県下関市に「東行墓(とうぎょうぼ)」という名前で存在しています。東行とは、高杉の俳号、いわゆるペンネームです。一対の傘つきの灯篭が備えられており、風流な印象を受けるお墓です。

お墓の場所の詳細はこちら「ファンなら一度はお参りしたい偉人のお墓 幕末編」