お役立ちコラム お墓の色々

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偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜今川義元編

供養・埋葬・風習コラム

偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜今川義元編

ご先祖のお墓参りに限らず、歴史上の人物や偉人・著名人のお墓を詣でる趣味を持つ人を、昔から掃苔家(そうたいか)と呼びます。「お墓の苔をきれいに掃き清める」という意味からきていますが、昨今では「墓マイラー」という呼び方をする場合も多いようです。

名所旧跡を回りながらお墓を巡り、歴史に思いを馳せる…そんなひとときの中で、こんな疑問を持たれた方はいらっしゃらないでしょうか。

「偉人のお墓が複数あるのはなぜだろう?」

複数のお墓がある偉人がいる

たとえば、駿河国および遠江国(どちらも現在の静岡県)の守護大名・戦国大名で、「海道一の弓取り」と呼ばれた今川義元。2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、片岡愛之助さんが義元を演じ、最期まで刀を振るって戦う勇ましい武将を見せ、また2023年に放映される「どうする家康」では、 狂言師の野村萬斎さんが義元を演じ、家康(演:松本潤)の育ての親と言うべき存在として登場します。

義元の墓として伝えられるものも、実は複数存在します。

以下は代表的なものです。

・東向寺(愛知県西尾市)
・大聖寺/今川義元公墓所(愛知県豊川市)
・富春院(静岡県静岡市)
・臨済寺(静岡県静岡市)
・今川塚(愛知県東海市)
・高徳院/今川義元の仏式墓所(愛知県豊明市)
・今川義元戦死之墓碑(愛知県名古屋市)
・正覚寺/今川塚供養碑(愛知県清須市)


現代の感覚からすると、一個人のお墓が複数あることに、疑問を持たれる方もいらっしゃるのではないでしょうか?

“お墓”は1種類だけではない

“お墓”という大きなくくりの中には、もっとも一般的な「遺体を埋葬したお墓」の他に、髪や爪、分骨といった遺体の一部や遺品等を埋めたお墓や、中に写経を納めるなどして死者を供養・慰霊するための目的で造立された供養塔などがあります。

そして、造立された石塔には、五輪塔(ごりんとう)や宝篋印塔(ほうきょういんとう)、無繕塔(むほうとう)、笠塔婆(かさとうば)等の多くの種類があります。同じ石塔で括られるものですが、地域や時代により、その形状には著しい差があります。

五輪塔や宝篋印塔、お墓に関する語句の解説については、以下の記事をご覧ください。

五輪塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

宝篋印塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

お墓のデザインはどんなものがある?

墓標とは?墓石や墓碑など、似ている言葉との違いを解説します

義元のお墓を分類してみる

義元のお墓を分類してみましょう。義元は永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにて織田信長に敗れ命を落とします。そして、義元の首は織田軍が持ち去り、胴体は置き去りにされたと伝わり、現在複数存在する“義元の墓”へとその伝承が続いていきます。

遺体を埋葬したとされるお墓

東向寺(愛知県西尾市駒場町)

桶狭間の戦い後、討ち取られた義元の首級(しるし/しゅきゅう)は、織田軍によって須ヶ口(愛知県清須市須ケ口)に晒されました。その首級を取り戻したのが今川家の重臣であった岡部元信です。
本来であれば、本拠地である駿府に首級を持ち帰るべきところ、当時、戦功がなかった元信は、そのまま本拠地である駿府には戻らず、道中の刈谷城に攻め込みます。そのせいもあり、義元の首級は腐敗が進み、駿府に持ち帰ることを諦め、この東向寺に埋葬したといわれています。
義元の首塚は小さく、一般の檀家の墓地とは異なる丘の上に安置されています。

偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜今川義元編

大聖寺/今川義元公墓所(愛知県豊川市牛久保町岸組)

浄土宗の寺院である大聖寺(だいしょうじ)。その境内の西北の隅、石柵に囲まれて建っているのが義元の胴塚です。桶狭間の戦い後、家臣達が首のない遺体を背負って駿河へ帰る途中、ひとまずこの地に葬り、今川家以外の者に悟られないよう手水鉢を置いて墓じるしとしたと伝わっています。義元の嫡男・氏真は父の三周忌をこの大聖寺で営み、位牌所として寺領の支配と諸役免除を認めた安堵状を与えました。
その後、墓所は整備され、今も石塔が残っていますが、その石塔の一番下の部分は手水鉢の形をしています。

富春院 (静岡県静岡市葵区大岩本町)

富春院(ふしゅんいん)の北側には、かつて陽光山天澤寺(てんたくじ)という寺院がありました。これは、義元の菩提を弔うため、桶狭間の戦いのあった同年に、義元の嫡男・今川氏真の命によって臨済寺三世・東谷宗杲(とうこくしゅうこう)和尚が開いた寺院です。
義元の亡骸を埋葬し、その墓の上に天澤寺の本堂を建て、義元の木像を本尊として祀ったといわれています。
しかし、後に天澤寺は衰退し、文化8年(1811年)には義元の木像が、明治24年(1891年)にはお墓が臨済寺に移され、天澤寺は廃絶します。
現在、富春院には「天澤寺殿四品禮部侍即秀峰哲公大居士位」と記された高さ58cmの義元の位牌が祀られ、墓地の一角には、近年建てられた「今川義元公慰霊塔」があります。

臨済寺(静岡県静岡市葵区大岩町)

今川家の菩提寺である臨済寺は、徳川家康が人質時代を過ごした場所としても知られる臨済宗妙心寺派の禅寺です。義元の墓は、明治24年(1891年)に臨済寺に改葬され、現在も石塔と位牌が残されています。2018年に今川家の神廟が新しくなり、そこで義元の石塔は、兄・氏輝の石塔と並んで置かれています。

今川塚(愛知県東海市高横須賀町戌亥屋敷)

愛知県東海市にある横須賀小学校の東方の塚には、供養塔と「今川義基墳」と刻まれた石碑が建っています。桶狭間の戦いに敗れた義元の家来がここまで逃げてきて、義元の遺体を永昌院(塚の南方に存在していた寺院)に葬ったと伝わるものです。なお、石碑の文字が「義元」ではなく「義基」となっているのは、敵の目から塚の存在を隠すためとされています。

義元の御霊を供養するために建てられたもの

偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜今川義元編

高徳院/今川義元の仏式墓所(愛知県豊明市栄町南舘)

高徳院は高野山真言宗の寺院です。桶狭間の戦いの際、義元の本陣が置かれたとされる場所に明治27年、高野山から移り建てられました。
桶狭間古戦場の正確な場所は、愛知県豊明市説と名古屋市緑区説とがあり、定かでありませんが、高徳院に残る記録によると、現在見ることのできる義元の供養塔は、義元の三百回忌である万延元年(1860年)の建立とされています。建立者は「某」と刻まれており不明。方形の石柱に笠と蓮花弁を模した台座がつく墓塔形式で、戒名が刻まれています。
近くには、明治9年(1876年)に当地の住人・山口正義氏が建立した墓碑もあります。

今川義元戦死之墓碑(愛知県名古屋市緑区桶狭間北3丁目)

名古屋市緑区の「桶狭間古戦場公園」には,文化13年(1816年)に建立された「桶狭間古戦場」の石碑や、他に義元が水を飲んだとされる「今川義元公水汲みの泉」、「駿公墓碑」と刻まれた石碑があります。また、公園の南へ200mほど進んだところにある長福寺には、「今川義元公首検証之跡」と刻まれた石碑もあります。

正覚寺/今川塚供養碑(愛知県清須市須ケ口)

桶狭間の戦いで義元を破った信長は、義元の首級と義元愛用の刀・宗三左文(そうざさもんじ)と脇差を掲げ、熱田から清洲まで美濃路を凱旋しました。そして信長は現在の正覚寺がある場所で義元の首をさらした後、その菩提を弔うため、塚(今川塚)を築いたと伝わっています。現在残っている石碑は、寛文元年(1661年)に正覚寺の三誉上人が建てた供養碑で、当初は清洲城外の須ケ口にありましたが、平成19年(2007年)に現在地へ移されました。

まとめ

今回は複数ある“今川義元の墓”にスポットを当てました。

桶狭間の戦いで信長に敗れた義元でしたが、その後、義元の墓や供養塔が建てられたエピソードを紐解くと、敵方であった信長さえも塚を築いて死者の冥福を祈り供養するなど、皆それぞれに「故人に対する供養の心」を持ち、形にしていることがわかります。

ぜひ、各地の“義元の墓”を巡っていただき、その雰囲気を肌で感じ、目で愉しみ、歴史やお墓を建てられた方々の想いに、心で触れてみてはいかがでしょうか。


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