お役立ちコラム お墓の色々
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- 供養をきわめる -
偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜武田信玄編
ご先祖のお墓参りに限らず、歴史上の人物や偉人・著名人のお墓を詣でる趣味を持つ人を、昔から掃苔家(そうたいか)と呼びます。「お墓の苔をきれいに掃き清める」という意味からきていますが、昨今では「墓マイラー」という呼び方をする場合も多いようです。
名所旧跡を回りながらお墓を巡り、歴史に思いを馳せる…そんなひとときの中で、こんな疑問を持たれた方はいらっしゃらないでしょうか。
「偉人のお墓が複数あるのはなぜだろう?」
複数のお墓がある偉人がいる
たとえば、甲斐(現在の山梨県)の戦国大名・武田信玄。2022年は、戦国最強の騎馬隊を率いて、その名を轟かせた信玄の450回忌にあたります。また、2023年に放映されるNHK大河ドラマ「どうする家康」では、俳優の阿部寛さんが信玄を演じることでも話題となっています。
信玄の墓として伝えられるものも、実は複数存在します。
以下は代表的なものです。
・福田寺(愛知県)
・長岳寺(長野県)
・恵林寺(山梨県)
・信玄公御墓所/火葬塚(山梨県)
・龍雲寺(長野県)
・高野山(和歌山県)
・妙心寺(京都府)
・大泉寺(山梨県)
現代の感覚からすると、一個人のお墓が複数あることに、疑問を持たれる方もいらっしゃるのではないでしょうか?
“お墓”は1種類だけではない
“お墓”という大きなくくりの中には、もっとも一般的な「遺体を埋葬したお墓」の他に、髪や爪、分骨といった遺体の一部や遺品等を埋めたお墓や、中に写経を納めるなどして死者を供養・慰霊するための目的で造立された供養塔などがあります。
そして、造立された石塔には、五輪塔(ごりんとう)や宝篋印塔(ほうきょういんとう)、無繕塔(むほうとう)、笠塔婆(かさとうば)等の多くの種類があります。同じ石塔で括られるものですが、地域や時代により、その形状には著しい差があります。
五輪塔や宝篋印塔、お墓に関する語句の解説については、以下の記事をご覧ください。
◆五輪塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します
◆宝篋印塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します
◆お墓のデザインはどんなものがある?
◆墓標とは?墓石や墓碑など、似ている言葉との違いを解説します
信玄のお墓を分類してみる
信玄のお墓を分類してみましょう。信玄は元亀4年/天正元年(1573年)4月12日に、軍を甲斐に引き返す三河街道上で、53年の生涯を終えたとされています。ただ、その死は信玄の遺言により隠されることとなり、後継である武田勝頼が葬儀を行ったのは、3年後の天正4年(1576年)のことでした。そのようなこともあってか、“信玄の墓”と伝わるものは複数存在していますが、そこにはどのような背景があるのでしょうか。
遺体を埋葬したとされるお墓
福田寺(愛知県北設楽郡設楽町)
応永9年(1402年)創建の臨済宗妙心寺派の寺院である福田寺。伝承では、天正元年(1573年)に、信玄は三河(現在の愛知県)の野田城を攻略している途中で病に侵され、甲州へ戻る途中、静養のため福田寺に立ち寄ったものの、4月12日深夜に病没したとされています。そして、寺の記録には「天正元年6月26日(中略)当初、尊体を埋む」とあります。本堂脇の池のほとりに信玄の墓とされる五輪塔がありますが、戦国屈指の大名のものとは思えないほど小さく簡素なものです。
長岳寺(長野県下伊那郡阿智村)
伝教大師(最澄)により創建された天台宗の古い寺院・長岳寺。野田城の戦いで病にたおれた信玄は、甲斐への帰国途上で亡くなったとされていますが、その場所は駒場(現阿智村)であり、遺骸を安置したのは長岳寺である…という説もあります。なお、遺品として、信玄の兜の前立て2種類が、寺宝として所蔵されており、十三重の供養塔が昭和49年(1974年)に建てられています。
恵林寺(山梨県甲州市)
信玄が生前、菩提寺と定めた乾徳山・恵林寺(けんとくざん・えりんじ)。信玄の嫡男・勝頼は遺言に従い、3年間信玄の死を秘した後にここで本葬儀をおこないました。現在の墓所は信玄霊廟「明王殿」裏手に位置しており、信玄だけでなく、武田家家臣の墓・約70基も墓所後陣に並んでいます。信玄の命日である4月12日には、毎年、信玄を偲ぶお祭り「信玄公忌」がおこなわれています。
信玄公御墓所/火葬塚(山梨県甲府市岩窪町)
武田神社(武田信玄の居館跡・躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた))の近くにも信玄の墓所があります。それが信玄公御墓所です。「3年間は自分の死を隠すように」との信玄の遺言により、武田家家臣・土屋氏の邸跡であったこの地で仮埋葬され、また、この地で火葬されたことから、「信玄の火葬塚」とも呼ばれています。一方で、魔縁塚とも呼ばれ、里の人は恐れて近づかなかったといわれています。その後、安永8年(1779年) に甲府代官・中井清太夫の手によって石棺が掘り出されます。清太夫は、石棺に刻まれていた法名が信玄のものであることを知り、それを江戸幕府に届け出たことで、信玄の墓として幕府のお墨付きを得ることになりました。その後、武田家の旧臣子孫らがその場所に建てた墓碑が、今も残っています。
信玄の遺体の一部や遺品などが納められるもの
龍雲寺(長野県佐久市岩村田)
旧中山道の宿場町として栄えた岩村田。この地にある龍雲寺は本陣の役割を担うなど、信玄と縁の深い寺院です。永禄3年(1560年)には戦火で荒れた寺院を、信玄が再建しました。武田家の家紋「武田菱」が見られるのはそのためです。信玄は、信濃路に出兵する際は必ず詣でて、戦勝祈願をしたそうです。境内には、信玄霊廟があり遺骨とその副葬品と伝えられるものが納められています。
高野山(和歌山県伊都郡高野町)
戦国大名などによる荘園侵略が横行し経済的に危機を迎えた高野山の各寺院は、各地の有力な武士(戦国大名や武将など)と師檀関係や宿坊契約を結び、寺領の保全を図ろうとしました。その結果、高野山の奥之院には多数の戦国武将の墓が設けられた…という説があります。この地には信玄と勝頼の供養塔が並んで建てられています。
妙心寺(京都府京都市)
武田氏の戦略・戦術を記した軍学書「甲陽軍鑑」によると、武田信玄の本葬の宗旨は、臨済宗関山派で本山は妙心寺とされています。恵林寺で営まれた信玄の本葬後、高野山や妙心寺へも分骨されて、墓が建てられています。
信玄の御霊を供養するために建てられたもの
大泉寺(山梨県甲府市)
曹洞宗の寺院である大泉寺(だいせんじ)には、信玄の父・信虎の墓があります。大泉寺は大永元年(1521年)に武田信虎が開基、僧・天桂禅長(てんけいぜんちょう)を開山として開創されました。信虎だけでなく、武田三代(信虎・信玄・勝頼)の霊廟をはじめ、武田氏にまつわるものが沢山見られる場所です。
まとめ
今回は全国に複数ある“信玄の墓”にスポットを当てました。
病により志半ばでこの世を去ったとされる信玄。3年間、その死が隠されていたこともあり、死の真相には不明な点はありますが、信玄自身がとても信心深く、縁のある寺院がいくつもあったこと、そして、信玄が多くの人に愛されていたことが、今日複数のお墓が存在している事実として表れているのではないでしょうか。
ぜひ、全国各地の“信玄の墓”を巡って、その雰囲気を肌で感じ、目で愉しみ、そのお墓を大切に守ってきた人々の想いに、心で触れてみてはいかがでしょうか。
信玄と共に戦国時代を生きた武将のお墓を紹介した記事がございます。
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◆ファンなら一度はお参りしたい偉人のお墓 戦国編
◆偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜真田幸村(信繁)編
◆偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜織田信長編
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