お役立ちコラム お墓の色々
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- 供養をきわめる -
『鎌倉殿の13人』で注目!畠山重忠主従の魂が眠る6基の五輪塔
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、主人公・北条義時の生涯を軸に、源平合戦から鎌倉幕府の誕生、そして源頼朝の死後繰り広げられる御家人同士の権力闘争と承久の乱までの様子が描かれます。
今回は鎌倉幕府の有力御家人であった、畠山重忠(はたけやま しげただ/「鎌倉殿の13人」では中川大志さんが演じています)のお墓を取り上げます。
畠山重忠とは?
畠山氏は武蔵国男衾郡(おぶすまぐん)畠山郷(現在の埼玉県深谷市畠山)を領地とする一族で、畠山重忠は長寛2(1164)年に、同地にある畠山の館で生まれました。
畠山重忠は、源頼朝が伊豆で平家打倒のための兵を挙げた時点では、頼朝に敵対していましたが、後に臣従し、治承・寿永の乱にて活躍。以降、鎌倉幕府の有力御家人となった人物です。知勇兼備の武将として源氏方の先陣を常に務め、幕府誕生時の功臣として重きを成しました。
しかし、頼朝没後は、鎌倉幕府初代執権・北条時政の謀略で謀反の疑いをかけられ、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱にて重忠は一族とともに滅亡します。享年42歳。
その重忠のお墓が、埼玉県深谷市畠山にある「畠山重忠公史跡公園」の一画にあります。
畠山重忠墓(6基の五輪塔)
畠山重忠公史跡公園は、畠山重忠が生まれた館跡を公園として整備したスポットです。園内には重忠産湯の井戸と伝えられる井戸、一ノ谷の戦いにおける「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」にて、愛馬・三日月を背負って降りたという逸話をモチーフとした重忠の銅像などがあります。そして、公園の駐車場から少し歩いたところに見えてくるのが、重忠とその家臣の墓といわれている五輪塔(ごりんとう)です。
五輪塔とは
五輪塔は平安時代に誕生したといわれる墓石デザインです。
上段から「空輪」「風輪」「火輪」「水輪」「地輪」と呼ばれる墓石があり、それぞれ自然の五大元素を表しています。
五輪塔を建てると亡くなった人はみな、最高の位と最高の世界へゆけるとされ、今日もなお宗派を問わず「ありがたい最高のお墓」とされています。
五輪塔について詳しくはこちらの記事をお読みください。
◆五輪塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します
特徴
重忠とその主従のお墓は、現在、覆屋(おおいや)の中にあります。6つの五輪塔はコの字型に置かれており、その中央の一番大きいものが重忠のお墓であると伝えられています。鎌倉時代後期から南北朝時代のもので、凝灰岩製、高さは1.69mあります。埼玉県の指定史跡にもなっています。
その他の五輪塔は、重忠の五輪塔の向かって左側に2基、右側に3基置かれています。重忠の家人である本田次郎親常のお墓は、重忠の五輪塔の左隣のものであると伝えられ、その他の五輪塔も重忠に付き従ったもののお墓であると考えられています。各輪に梵字を刻んだものもあれば、水輪を欠損したものなど、形はさまざまです。
そして、6基あるうちの2基が、畠山重忠の菩提寺である満福寺から移されたものと推測されています。
お墓以外も見ておきたい〜阿弥陀一尊種子板碑
畠山重忠主従の五輪塔がある覆屋手前には、阿弥陀一尊種子板碑(あみだ いっそん しゅじいたび)が建てられています。
板碑(いたび)とは、五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)と同じように石塔のひとつで、中世に多く使われていた石製の供養塔のことです。板石塔婆(いたいしとうば)ともいいます。
板碑の形状は、板状に加工した石材の頭部を三角形にしています。また、頭部と反対側の先は基礎と呼ばれ、地面に建てやすいように(刺しやすいように)尖らせてあります。三角形をした頭部の下には二条線と呼ばれる2本の線が刻まれ、その下側に種子(しゅじ=梵字)や被供養者、供養年月日などが刻まれるのが一般的な形です。
この阿弥陀一尊種子板碑は、秩父青石(ちちぶあおいし)といわれる緑泥片岩(りょくでいへんがん)で作られています。高さは1.36m。主尊は、身部上方に刻まれた阿弥陀如来の種子(しゅじ=梵字)。下方には、光明真言と「嘉元二年(1304年)甲辰卯月九日」という紀年銘が刻まれており、重忠が元久2年(1205年)に 横浜市二俣川にて42歳で戦死した後、百年忌にあたり供養のため造立されたものと伝わっています。
なお、畠山重忠公史跡公園の阿弥陀一尊種子板碑は、昭和39年(1964年)8月31日に、深谷市の文化財に指定されました。
卒塔婆供養について詳しい記事がございます。あわせてお読みください。
◆お墓の後ろにある卒塔婆、卒塔婆供養の意味
実は他にもある重忠のお墓
重忠の墓と伝わるものは、実は他にもあります。
埼玉県比企郡小川町上古寺・士峰山山頂
まずは、埼玉県比企郡小川町上古寺(かみふるてら)地内にある標高289.8mの士峰山(しほうざん)の山頂です。ここに築かれた低い塚には祠(ほこら)があり、中には重忠の三男・重慶(ちょうけい)が、重忠の遺髪を埋葬したとされる五輪塔が建てられています。五輪塔は凝灰岩製で、高さは約76cmです。
祠の前には石碑が建てられ、「秩父六郎荘司畠山重忠之墓」と刻まれています。その裏面には建立の経緯と思われる記載が残り、「明治四十五年春 小久保氏建立」であることを今に伝えています。
富山県富山市楡原地区
重忠が生まれた現在の埼玉県から遠く離れた富山県富山市楡原(にれはら)地区(旧細入(ほそいり)村の中心地)にも重忠ゆかりの場所があります。伝承によると、畠山重忠の乱の際、重忠の子・六郎は難を逃れ、父の菩提を弔うために楡原の地に真言宗法雲寺(後に法華宗上行寺に改宗改名)を建立しました。そして、楡原地区の集落を見下ろす小高い丘の上には、畠山重忠の五輪塔が今も残っています。
重忠は生前、この地を訪れたという言い伝えもあり、夏には伝統行事「重忠まつり」が行われるなど、重忠を崇敬する文化が残っています。
まとめ
武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄は「坂東武士の鑑」と称された畠山重忠。後世においても庶民の人気は高かったとのことで、地元のみならず、各地で多くの人に愛されていたことが、現在にまで大切に残されている史跡の数々から感じることができるのではないでしょうか。
ぜひ一度当地を訪れ、五輪塔や板碑を目の当たりにし、その歴史にふれてみてください。
畠山重忠公史跡公園への交通アクセス
<鉄道>
秩父鉄道武川駅下車 徒歩33分
<自動車>
関越自動車道花園ICから約5分