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「浦添ようどれ」琉球王国最大の国難を生きた尚寧王の墓

供養・埋葬・風習コラム

「浦添ようどれ」琉球王国最大の国難を生きた尚寧王の墓

今回は琉球王国にとって最大の国難であった薩摩侵攻時の国王・尚寧王(しょうねいおう)が王妃と共に眠る「浦添ようどれ」をご紹介します。世界文化遺産に登録されている浦添グスク(浦添城)の北側の崖下にある浦添ようどれ。琉球王国が統一される以前の13世紀に中山王・英祖王(えいそおう)によって築かれた王家のお墓ですが、1620年に尚寧王が改修しています。尚寧王は第二尚王統7代目。第二尚氏王統の王は玉陵に葬られる決まりがありましたが、尚寧王はなぜ玉陵ではなく浦添ようどれに葬られたのでしょうか。

尚寧王とは

尚寧王(1564~1620)は1609年の薩摩藩による琉球侵攻時の国王です。
世界文化遺産の玉陵(たまうどぅん)を造成し、琉球王国の基礎を築き上げた名君・尚真王の玄孫(やしゃご)で、嫡子としての地位を廃された尚真王の長男のひ孫にあたります。先代の尚永王(しょうえいおう)に世継ぎがなかったため、王の甥であり王の娘を妻としていた尚寧が王となりました。

浦添グスクは琉球の都が浦添から首里に移った後は荒れ果てていましたが、嫡子としての地位を廃された尚真王の長男(尚寧王の曽祖父)が首里を追われた後、居住していました。
その浦添グスクで生まれ育った尚寧王は「浦添グスクから首里にのぼった王様」と浦添の民から期待を集め、浦添グスクと首里を結ぶ石畳の道を整備しています。浦添グスクにはその時の竣工記念の碑「浦添城の前の碑」(復元)があります。

尚寧王は薩摩に敗れた後、連行されて江戸に行き徳川幕府の将軍・秀忠と駿府にいた家康へ拝謁。道中、信頼していた実弟を急病で失い「よかてさめ兄弟 親がなし御側 我身や余所島の あらのひと粒」という歌を残しています。薩摩にも留め置かれ2年もの間、琉球を離れることになりました。
帰国後、浦添ようどれを改修して自らの一族を浦添ようどれに改葬。自身も浦添ようどれに葬られました。

琉球王国の名君・尚真王と第二尚氏王統のお墓「玉陵」についての記事もあります。興味のある方はあわせてご覧ください。
世界遺産「玉陵」名君・尚真王が築いた歴代琉球国王の墓

浦添ようどれとは

浦添ようどれは琉球王国が成立する前の13世紀に中山王・英祖王によってつくられた墓だといわれています。1620年には尚寧王が改修し尚寧王の一族も葬られています。
「ようどれ」とは琉球の言葉で「夕凪」という意味で、静かでおだやかなイメージから「墓」の意味に用いられているようです。浦添ようどれには「極楽陵」という別名もあります。
1945年の沖縄戦時で大きな被害を受けましたが、復帰前の1955年に琉球政府が墓室を修復。
その後、お墓を囲む石垣も復元され、2005年に復元が完了しています。

「浦添ようどれ」琉球王国最大の国難を生きた尚寧王の墓

浦添ようどれの構造

崖を利用した掘り込み墓で琉球石灰岩の岩壁に横穴をほって墓室としています。墓室は2つあり、向かって右側の西室(せいしつ)は英祖王陵、向かって左側の東室(とうしつ)には尚寧王と一族が葬られています。

お墓は石垣にぐるりと囲まれていて、一番庭(いちばんなー)と二番庭(にばんなー)があり、二つの門を通って墓室のある一番庭にたどり着つきます。石垣の前にもトンネルのような暗しん御門(くらしんうじょー)があり、暗しん御門をくぐって二番庭に行きます。暗しん御門の上部は沖縄戦で破壊されてしまい残念ながら当時の姿はありませんが、暗いトンネルから明るい広間へと続く空間構造は世界文化遺産にも登録されている聖地・斎場御嶽(せーふぁうたき)と似ているといわれています。

浦添ようどれの石厨子

浦添ようどれの2つの墓室からは洗骨した骨を納める石厨子が10基見つかっており、うち4基は沖縄県指定文化財です。石厨子は瓦ぶきの建物を模した形をしており、仏像や蓮華、牡丹、獅子の姿が浮き彫りにされています。石厨子は中国福建省産出の青石(あおいし)、輝緑岩(きりょくがん)が使われていると推定されています。墓室は非公開ですが、浦添ようどれに隣接している「浦添グスク・ようどれ館」で墓室と石厨子の精巧なレプリカが見られます。

多難な時代を生きた王は仲の良かった王妃と眠る

琉球王国最大の国難を生きた尚寧王。王でありながら、なぜ玉陵に入らなかったのでしょうか。薩摩侵攻を許したことを恥じて玉陵に葬られるのを拒否したという説もありますが、生まれ育った浦添グスクにある浦添ようどれに葬られたかったというのが有力な説のようです。

尚寧王は1620年に没しましたが、死後100年以上たった1759年に尚寧王の王妃・阿応理屋恵(あおりやえ)の遺骨が別の墓から移葬されています。尚寧王と王妃の夫婦仲は良かったらしく、琉球の歌集「おもろさうし」には王妃が連行されて国を離れている尚寧王の帰国を待ちわびて詠んだ歌が納められています。
100年もの時を経て、同じ墓に入れた尚寧王と阿応理屋恵。多難な時代を共に生きた二人は浦添ようどれで静かに眠っています。

まとめ

琉球王国成立前の英祖王と多難な時代を生きた尚寧王がねむる「浦添ようどれ」。戦争で被害を受けたものの、戦後で沖縄県民の生活が厳しい中、日本復帰前の沖縄の政府・琉球政府が墓室を修復。1997年から8年もの歳月をかけて墓のまわりの石垣も復元されました。
また、隣接する「浦添グスク・ようどれ館」で精巧な石厨子のレプリカも見ることができるほか、浦添グスクとようどれを守ってきた地域のNPOの方々から説明を聞くこともできます。
高台にある浦添ようどれからは浦添のまちと海が見え、別名「極楽陵」にふさわしく美しく、おだやかな景色が眼下に広がります。機会があれば、地元の人たちに大切に守られてきた浦添ようどれと尚寧王も見たであろう景色を見に足を運ばれてみてはいかがでしょうか。

浦添ようどれへの交通アクセス

住所:〒901-2103 沖縄県浦添市仲間2丁目53
石室・石厨子の精巧なレプリカが見学できる「浦添グスク・ようどれ館」(午前9時~午後5時)の入場料は大人100円、子供50円。浦添ようどれの見学は午後6時まで。

ゆいレール

浦添前田駅から徒歩10分

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