お役立ちコラム お墓の色々

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【忠臣蔵】赤穂四十七士の棟梁、大石内蔵助のお墓はどこにある?

墓地・墓石コラム

近頃は、有名人や偉人のお墓巡りを趣味にしている人々を「墓マイラー」と呼び、秘かなブームにもなっています。はたしてドラマや映画、書籍などで見た偉人たちは、どのような生涯を送り、どこの地で永遠の眠りについているのでしょうか。偉人たちの伝説的エピソードに触れながら、終の棲家にも想いを巡らせてみてはいかがでしょう。

1702年12月14日午前4時、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)率いる赤穂浪士47人が、江戸・本所松坂町にある吉良上野介(きらこうずけのすけ)邸に討ち入りし、主君である浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)・本名:浅野長矩(あさのながのり)の仇討ちを成し遂げました。この日は「忠臣蔵の日」として指定され、今でも「義士祭」と呼ばれる供養祭が開かれています。
今回は忠臣蔵の物語を中心に、討ち入りの大将である大石内蔵助の生き様とそのお墓についてご紹介していこうと思います。

21歳で赤穂藩の筆頭家老へ

1659年、浅野家の筆頭家老を代々務める家系に生まれた大石内蔵助(本名:大石良雄(おおいしよしお・よしたか)。若くから江戸時代前期の軍略家である山鹿素行(やまがそこう)に軍学を、儒学家の伊藤仁斎(いとうじんさい)に漢学を学んだとされています。
1673年、良雄が14歳の時に父である大石良昭(おおいしよしあき)が亡くなり、その祖父である大石良欽(おおいしよしたか)の養子となります。しかしその5年後には、大石良欽も亡くなってしまい、良雄は19歳にして祖父の跡目として遺領1500石を受け継ぎ、21歳の時に赤穂藩の筆頭家老となりました。
ちなみに内蔵助はもともと祖父の通称で、跡を継いだ大石良雄も内蔵助と呼ばれるようになりました。
筆頭家老としての大石内蔵助は「昼行灯」と揶揄され、昼間に灯る炎のように、存在感の薄い、凡庸な家老だという評価が定着していました。ところがその評判を覆すきっかけとなる大事件が起こります。

殿中刃傷事件(松の廊下事件)

1701年3月14日、江戸城では第113代東山天皇の勅旨に対して徳川綱吉が奉答するという大イベント「勅答の儀」が予定されていました。
その勅答の儀が始まる直前の午前11時30分ごろ、殿中刃傷事件が起きました。
天皇勅使の接待役を仰せつかっていた浅野内匠頭が、接待指南役の吉良上野介を松の廊下で切り付けたのです。
浅野内匠頭がなぜ突然凶行に及んだのか?実ははっきりとはわかっていません。浅野内匠頭は「私の遺恨、一己の宿意をもって、前後忘却つかまつり、討ち果たすべく候て、刃傷に及び候」とだけ述べたと伝える資料もありますが、2人の間に何があったのか、詳細は今もわかっていません。
事件が起きた日は、朝廷から派遣された勅使(天皇からの使者)と院使(上皇からの使者)が、5代将軍・徳川綱吉に年賀の答礼を行う儀式の最終日でした。
赤穂藩主・浅野内匠頭は勅使饗応役(接待役)を仰せつかっており、その礼儀作法の指南者が高家筆頭・吉良上野介でした。
一説によると「吉良上野介に賄賂を渡さなかった」ことでいやがらせを受けていた事が発端ではないか、とも言われています。もしかしたら指導の際に現代でいうパワハラのようなものがあったのかも知れません。
浅野内匠頭が犯行に使ったのは脇差だったため、吉良上野介は額と背中に傷を負っただけで済みました。この騒動を受け、幕府は即日浅野内匠頭の切腹と赤穂藩浅野家の取りつぶしを命じました。
当時は「喧嘩両成敗」が原則であり、双方に何らかの非があるとしたうえで厳正な取り調べが行われるのが当然でした。それなのに浅野内匠頭の言い分を聞き取りすることなく(切腹に際し書面すら残すことを許されなかった)将軍の独断で浅野内匠頭のみに一方的に非があるとして吉良上野介には何のお咎めもありませんでした。

討ち入り(赤穂事件)

君主の切腹、浅野家の取りつぶしという一方的な処分を不満に思う赤穂藩の中で仇討の声があがりましたが、大石内蔵助はすぐには動きませんでした。 そんな大石内蔵助に周囲は不満を持ちましたが、すぐに仇討に走らなかったのは、浅野家の再興に尽力していたからでした。しかし1702年、浅野内匠頭の一周忌が過ぎても浅野家再興の望みは叶いませんでした。その年の4月、大石内蔵助は討ち入りを実行した際に家族にまで罪が及ばぬようにするため、息子主税(ちから)以外の家族を離縁します。その間も大石内蔵助は、浅野内匠頭の弟である浅野大学長広(あさのだいがくながひろ)を擁立し浅野家を再興するため動きますが、1702年7月に浅野大学長広が財産や土地などを取り上げられた上、広島浅野宗家にお預け(罪のために他の大名に預けられる)になり、浅野家の再興が不可能になったことを悟ると、強硬派の家臣らと共に吉良邸への討ち入りを決めます。
当初家臣は70名ほどいましたが、大石内蔵助が改めて仇討ちの意思を家臣に確認すると脱藩する者も現れ、最終的に47人の志士が残ります。
潜入や偵察など、入念な準備期間を経て、12月14日午前4時(現代で言えば翌12/15ですが、当時の人の感覚では朝日が昇るまでは前日とされていました)、計画は実行されます。
討入りの際、赤穂藩士達は口々に「火事だ!」と叫んで吉良邸に乱入したため、吉良家の家臣は混乱し、対応に手間取ったそうです。
また吉良邸には100名ほどの家臣が長屋に詰めていましたが、討ち入った直後にその長屋の戸が開かないよう細工をしたため、実際に応戦できた者は4割に満たなかったと言われています。
結果、吉良上野介は討ち取られ、赤穂浪士たちは吉良邸討ち入りを成功させます。
2時間の激闘を制した47人の赤穂浪士達は、そのまま浅野内匠頭が眠る泉岳寺へ行進し、吉良上野介の首をその墓前へ手向けました。
翌年2月、幕府は討ち入りに参加した赤穂藩士達に切腹を命じ、四十七士全員がそれに応じます。大石内蔵助は身柄を預けられていた細川家の屋敷にて切腹します。

大石内蔵助のお墓はどこにある?

主君の仇を討ち切腹をした大石内蔵助は、現在は東京都高輪の泉岳寺で四十七士や主君である浅野内匠頭とともに眠っています。山門をくぐり左手に向かうと吉良上野介の首を洗ったとされる「首洗い井戸」が、その先に四十七士のお墓が並んでいます。大石内蔵助のお墓は右の奥にあります。他の四十七士のお墓に比べ、一際大きなその墓石には「忠誠院刃空浄剱居士」の文字が刻まれています。
ちなみに最右奥には主君である浅野内匠頭のお墓が、また左の奥には、大石内蔵助の息子で四十七士最年少の「大石主税(ちから)」のお墓があります。
※お香代として300円が必要です。

また、北海道砂川市にある北泉岳寺は、初代住職が赤穂浪士の熱烈な崇拝者だったことから、東京の泉岳寺に陳情を重ね、寺の名前に変更するとともに、昭和31年大石内蔵助はじめ義士の墓の土を四十七個の木箱にわけて持ち帰り、義士の墓を建立したことで知られています。
他にも、京都や赤穂に大石内蔵助ら赤穂浪士を祀った大石神社があります。

【泉岳寺】京都港区高輪2丁目11−1

【北泉岳寺】北海道砂川市空知太 444-1

まとめ

大石内蔵助が討ち入りの際に所持していた脇差には「万山重からず君恩重し、一髪軽からず我命軽し」と刻まれていたと言われています。訳すと「主君への恩は幾山よりも重く、私の命は1本の髪の毛よりも軽い」という意味になります。忠義に厚い人物だったことがうかがえます。43歳という生涯のなかで主君に忠義を尽くし、命もいとわず仇討ちに燃えそれを果たした大石内蔵助。
今でも人気の高い「忠臣蔵」ですが、大石内蔵助をはじめとした四十七士のお墓を参ることで、四十七士たちの熱い想いやその忠義や、それを尊び今日まで大切に供養してきた人々の想い感じ取れることが出来るかもしれません。


また泉岳寺の敷地内には「赤穂義士記念館」などもあり、合わせて見ることでより松の廊下事件や赤穂事件について深く知ることができると思います。
※入場料が必要です。

今でも受け継がれる想いや絆があふれる場所、お墓。一緒に訪れた人やそこに眠る故人との語らいの時間にもなるのがお墓参りです。教科書や作品でしか知らない有名人・著名人ですが、そのお墓を巡ることで、実際にその人が生きていた時代に思いをはせ、その人を身近に感じることができるかもしれません。お墓参りのマナーを押さえた上で、偉人や著名人、ご先祖様のお墓と、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょうか。
【保存版】お墓参りのマナーや常識 5つのポイント

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