お役立ちコラム お墓の色々

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2025年大河ドラマで染谷将太さんが演じる喜多川歌麿のお墓はどこにある?

墓地・墓石コラム

2025年大河ドラマで染谷将太さんが演じる喜多川歌麿のお墓はどこにある?

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~」では、18世紀半ばの江戸時代を舞台に、数多くの浮世絵師や作家の才能を見出して世に送り出した出版人「蔦屋重三郎」(つたや じゅうざぶろう/演:横浜流星さん)の波瀾万丈な人生が描かれます。

今回は、蔦屋重三郎に才能を見出された浮世絵師の1人、喜多川歌麿(きたがわ うたまろ/演:染谷将太さん)の生涯とお墓をお伝えします。

喜多川歌麿とは

喜多川歌麿(以下、歌麿)は、浮世絵黄金期と呼ばれる寛政期(1789-1801年)を代表する浮世絵師の1人です。美人画を得意とし、寛政の改革の最中、江戸幕府による出版統制に負けず数多くの作品を発表した反骨精神あふれる人物でした。

喜多川歌麿の生涯

歌麿は、1753年に江戸で生まれたとされていますが、実は、歌麿の出生に関する史料は存在しておらず、生まれ年は亡くなった時の年齢から逆算されたものです。
また、どれも確証はないものの出生地は、江戸、川越、京都など複数の説があり、妖怪物を描くことで知られた狩野派の絵師、鳥山石燕(とりやま せきえん)のもとで子供のころから修業を積んでいたという記録から江戸説が有力とされています。

歌麿の本姓は「北川」、幼名は市太郎(のちに勇助)でしたが、1775年ごろに出版人蔦屋重三郎(以下、蔦重)と出会い、蔦重の養方の姓である「喜多川」を取り、「喜多川 歌麿」に改名しました。
1781年、蔦重プロデュースのもと歌麿は、風刺をおりまぜた大人むきの絵入り小説「身貌大通神略縁起」(みなりだいつうじんりゃくえんぎ)を出版、以後十余年、蔦重の専属絵師として浮世絵の才能を開花させていき「百千鳥」(ももちどり)や「画本虫撰」(えほんむしゑらみ)などの狂歌絵本も次々とヒットさせました。

そして、松平定信(まつだいら さだのぶ)の「寛政の改革」により風紀取締りが厳しくなり、娯楽の1つだった浮世絵も出版統制が図られるなか、1792年に刊行された「美人大首絵」(おおくびえ)のシリーズで浮世絵師としての地位を確固たるものにします。

大首絵とは、歌麿が独自に考案した作風で、背景を描かずに上半身のアップを描いて顔に目が行く美人画のことです。
当時、時代を代表する理想的な女性像が描かれる美人画は、風景の中に全身を描く作風が主流でしたが、女性の表情や仕草、髪の毛の一本一本まで繊細に描き、内面からにじみ出る性格や喜怒哀楽を表現した歌麿の浮世絵は斬新さから評判になりました。

しかし、寛政の改革による出版統制が日に日に厳しくなっていき、大首絵などをはじめとする浮世絵は表現の自由を奪われます。歌麿は、自身の作品を届けようとかいくぐってきましたが、とうとうそれも難しくなったため、1797年に豊臣秀吉の生涯を描いた「絵本太閤記」(えほんたいこうき)を機に武者絵に取り組み始めました。
1804年は、朝鮮出兵時の加藤清正(かとう きよまさ)が宴を楽しむ様子や柴田勝家(しばた かついえ)の出陣、さらには豊臣秀吉が開催した花見を題材にした「太閤五妻洛東遊観之図」(たいこうごさいらくとうゆうかんのず)などを次々と発表します。

ところが、「太閤五妻洛東遊観之図」がそのような意図など全くもってなかったにも関わらず、家斉を揶揄する意図があるとされ、両手首に手錠をはめられ自宅で謹慎する刑罰「手鎖50日」が下されてしまいます。

晩年の歌麿は、手鎖の刑により心身共に衰弱の一途を辿りますが、創作の炎を絶やすことなく、古典的人物や年中行事などの作品を描き続けましたが、手鎖の刑から約2年後の1806年に死去、53年の人生に幕を閉じたのです。

喜多川歌麿と浮世絵

浮世絵は、日本を代表する伝統的な芸術であり、江戸の町に住む人や暮らしを描いた歴史書物ですが、当時は比較的安価であったため、庶民の身近な芸術でした。

庶民の娯楽である浮世絵を書き続ける。
江戸幕府の厳しい政策にも屈しない職人魂は、庶民の要望に応え、生活の楽しみを取られまいとする反骨精神から来ていたのかもしれません。

喜多川歌麿にまつわるトリビア

喜多川歌麿の美人画の代表作

数多くの作品を残した歌麿の代表作は「美人大首絵」の構図で発表された最初の作品であり、最盛期に描いた「婦人相学十躰」(ふじんそうがくじゅったい)です。

また茶屋、餅屋の娘、芸者であった3人の実在の女性を描き、大ヒットした作品「当時三美人」(とうじさんびじん)は、わずかに表情が異なる3人の美女を繊細に描いた歌麿の真骨頂とも言える作品です。

2025年大河ドラマで染谷将太さんが演じる喜多川歌麿のお墓はどこにある?

喜多川歌麿と葛飾北斎の関係性

葛飾北斎(1760-1849年)は、「冨嶽三十六景」などの風景画で有名な浮世絵師です。

2人の関係性などを示すエピソードは残っていないものの、葛飾北斎と歌麿は、ほぼ同時期にデビューし、歌麿は北斎より先に美人画で人気を集めました。
北斎は、歌麿が幼少期に修行を積んでいた狩野派に入って画流を学んでいた時期もあることから、今で言う顔見知りの先輩後輩関係にあたるのでしょう。

喜多川歌麿と蔦谷重三郎の関係性

蔦屋重三郎(1750-1797年)は、歌麿の才能を買い、寛政の時代を中心に二人三脚で次々とヒット作を世に送り出した人物です。

歌麿の美人画に遊女が多く登場するのも、女性の緻密な仕草や表情をとらえた作風も、江戸の芸者街だった吉原に見識の深い蔦屋重三郎のもとに身を寄せていたからではないかと言われています。

歌麿の作品は、最新の着物や着こなしが見られることから女性からの好評価を多く得ていました。
歌麿と蔦谷重三郎が出版した数々の浮世絵は、写真がない江戸時代に世の女性たちのファッション雑誌となっていたのかもしれません。
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喜多川歌麿のお墓はどこにある?

2025年大河ドラマで染谷将太さんが演じる喜多川歌麿のお墓はどこにある?

歌麿のお墓は、東京都世田谷区の専光寺(せんこうじ)にあります。
東京都文化財指定になっているこのお寺は、入口に「都旧跡喜多川歌麿墓」と彫られた石碑があり、歌麿寺とも呼ばれています。

専光寺は、歌麿が亡くなった当時浅草にあり、母もしくは妻と推測されている「利清信女」(りせいしんにょ)と同じお墓に埋葬されていましたが、関東大震災で焼失したため、昭和3年(1928年)4月に現在の世田谷区に移転し、改葬されています。
ちなみに、本姓の「北川」と彫られた上段の台石のみが歌麿の墓石です。

お墓はいくつかの墓石で構成されています。詳しくはこちらをご覧ください。
お墓の一番上にある竿石・棹石・仏石ってなに?お墓の構造を種類とあわせてご紹介します

まとめ

歌麿は、時代と自身の作品に一心不乱に向き合い、その生涯の半分以上を絵に捧げた人物です。また厳しい政策に屈することなく、日本の伝統芸術の礎を築き上げた1人とも言えます。そういった愛されるべきルーツがあるからこそ、上台だけとなった歌麿のお墓には今でもお花が添えられるのかもしれません。

さて、今でも受け継がれる想いや絆があふれ、一緒に訪れた人とのコミュニケーションの時間にもなるのがお墓参りです。
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近年は維持や負担などからお墓を片付ける方も増えていますが、お墓参りには心温まる瞬間も数多くあります。ご先祖さまに感謝し、自分のルーツを知れるきっかけにもなるお墓参りの素敵なエピソードをこの機会にぜひ知っていただき、改めてお墓の良さを思い出していただけたら幸いです。
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喜多川歌麿の墓(専光寺)への交通アクセス

<鉄道>
京王線「千歳烏山駅」より徒歩約15分

<バス>
京王線「千歳烏山駅」より関東バス「寺院通4番」下車徒歩約1分

<車>
首都4号新宿線「永福インター」より約14分