お役立ちコラム お墓の色々

お役立ちコラム お墓の色々

- 供養をきわめる -

暴れん坊将軍よりも暴れん坊?~徳川宗春のお墓はどこにある?

墓地・墓石コラム

2025年1月、8代将軍徳川吉宗(よしむね)をモデルにした時代劇「暴れん坊将軍」が17年ぶりに復活し放送されました。ドラマ内 ではGACKT演じる徳川宗春(むねはる)が、松平健演じる徳川吉宗最大のライバルとして描かれ話題となりました。

しかし、 ドラマや歴史教科書を通じて有名な8代将軍吉宗とは違い徳川宗春のことをご存じの方は少ないのではないでしょうか。

徳川宗春はなぜ、吉宗最大のライバルと呼ばれたのか、今回は徳川宗春にスポットを当てて書いてみたいと思います。

35歳で尾張藩の7代藩主に

1696(元禄9)10月、徳川御三家の筆頭である尾張(愛知県)藩、第3代藩主・徳川綱誠(つななり)の二十男、萬五郎として名古屋で生まれます。1699(元禄12)年、萬五郎が4歳の時に父であり藩主でもある綱誠が病死、1713年(正徳3)、萬五郎18歳時に、当時4代藩主であった十兄・徳川吉通(よしみち)と、その後わずか3歳で5代藩主となった甥の五郎太が立て続けに病死します。同年に十一兄・徳川通顕(みちあき)が継友(つぐとも)と改名し6代藩主となります。

1708(宝永5)年に十兄・徳川吉通(よしみち)から名をもらい、道春(みちはる)と名乗ります。その後、元服時に徳川求馬道春(通称は徳川求馬)と改名、世継ぎのいなかった尾張藩の分領である陸奥梁川藩(現在の福島県伊達市)にて松平家再興のため梁川藩主となった以降は、松平求馬道春(通称は松平求馬)を名乗ります。

それから17年後の1730年に継友が35歳で病死したため、道春が尾張藩7代藩主となります。翌年に吉宗より「宗」の字を授かり「通春」から「宗春(むねはる)」へと改名します。

傾奇者の宗春は、名古屋城への入府の際黒い馬にまたがり、べっ甲製の唐人笠と足袋まで黒尽くめ(金縁で内側は赤)の衣装に身を包み、3~4メートルもあるような長いキセルを咥え、さらに部下にも華美な衣装を着せ入府したとされています。

徳川吉宗との対立

1716年(享保元年)、江戸では吉宗が倹約生活や新田開発などを記した「享保の改革」を掲げ実施していました。当時の幕府の財政はひっ迫していたため、極端な倹約令を全国民にしき財政の回復を図ります。

しかし宗春はこの政策を真っ向から否定。豪華・華美な藩政を貫くのです。祭りも奨励し,芝居小屋や遊里を許し,自らも白牛にまたがり5尺(1.5メートル)もある大煙管(きせる)をくゆらせて城下を練り歩きます。

倹約政策によって娯楽を慎むよう命じられた江戸では、吉原などの淋しくなった遊郭や芝居小屋、花街などが店を次々と閉めていきました。宗春はこれらの廃業者たちに、名古屋に来るよう命じます。宗春は「吉宗政治には全て反対しその逆を行く」という考えから、これらの歓楽業者たちに土地を与え、家を再興させました。また、長年尾張徳川家が市民に禁止してきた祭りやいろいろな行事を復興させました。

宗春は「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる」「規制を増やしても違反者を増やすのみ」などの主張を掲げた『温知政要(おんちせいよう)』を執筆し藩士に送ります。こういった規制緩和で名古屋の街は瞬く間に繫栄し、その繁栄を評して「名古屋の繁華に京(興)がさめた」などと言われるなど、今日の名古屋発展の礎を築きました。

このように幕府の倹約経済政策に立ち向かったのは、江戸時代の藩主では宗春だけでした。

ちなみに、名古屋市内に開運「ポスト宗春(むねはる)」という、黄金に輝くポストがあります。「徳川宗春公を愛し、元気な名古屋を創る」をモットーにして活動している有志が、「宗春を世に知らしめること」を掲げ制作したモニュメントで、宗春が掲げた理想を今の社会に広めていくべく活動を進めています。

当時の尾張藩は犯罪等も減り栄華を極めたと言われていますが、宗春の政策は尾張藩を赤字に追い込み、結局市民へ「借金」という形でしわ寄せが行ってしまいます。

そんな宗春に業を煮やした吉宗は、1739(元文4)年1月に徳川御三家の筆頭である尾張徳川家の重臣5人を江戸城に召喚し「尾張藩主徳川宗春、行跡よろしからず。よって隠居謹慎すべし」という厳しい命を発します。御三家筆頭ということは徳川三百藩のトップです。その尾張藩の長が謹慎、というのは未曽有の大事件でした。

そして宗春は吉宗の命によって名古屋の下屋敷に幽閉されました。25年もの間監禁生活を送ったのち,宗春は明和元年(1764年)69歳で亡くなります。

徳川宗春のお墓はどこにある?

徳川宗春の死後、一度は尾張徳川家の菩提寺である建中寺(けんちゅうじ)に埋葬されましたが、現在は名古屋市千種区の平和公園にお墓があります。お墓が第二次世界大戦中の大空襲で焼夷弾の直撃を受け一部が損壊しまったため、平和公園へと墓石を移し、2010年7月に墓碑修復し現在に至ります。

一般的な墓石の倍はあろう大きさの墓石には「贈亞相二品章善院殿厚誉手式源逞大居士 尊儀」の文字が刻まれています。

ちなみに経帷子や守り刀のなどの副葬品は建中寺に納められています。

【平和公園】愛知県名古屋市千種区平和公園3丁目

まとめ

吉宗が「宗春の墓は罪人の墓である」と発言したため、死んでも宗春は幕府から赦免されることはありませんでした。建中寺の宗春の墓石には金網が掛けられたといいます。没後75年 後の1839(天保10)年、徳川斉荘(なりたか)が尾張藩12代藩主に就任する際、宗春に「従二位権大納言」を贈ったことで歴代藩主に名を連ねるまで名誉を回復。およそ60年もの間宗春の墓石を覆っていた金網は、ようやく外されることとなります。

幕府の政策に反し積極的な自由放任政策をとり「芸どころ」名古屋と呼ばれるほどに繁栄をもたらした徳川宗春。一方でそれだけのばらまき政策を行った代償は大きく、尾張藩の財政は赤字化、慌てて領内の緊縮財政を行うほどに尾張藩を傾かせてしまったのも事実です。この政策が正しかったのかはわかりませんが、少なくとも「自分が贅沢をしたかった暗君」や「吉宗の警告を無視してばらまき政策を行った馬鹿殿」ではなく、お金を回すことで経済を発展させ、財政を回復しようとしていたことは間違い無いのではないでしょうか。

ちなみに吉宗との個人的な関係は悪くなかったそうで、幽閉後も吉宗は宗春に対して何度も気色伺いを行っていたそうです。宗春も吉宗から下賜された朝鮮人参を栽培するなどのエピソードが残っており、少なくとも政策面の様な対立はなかったと言われています。

墓石の向かって右側に説明看板が設置してあり、その看板の後半には「名古屋大空で発表弾の直弊を受け一部が破損してしまいましたが、2010年7月8日、多くの市民のご協力により修役が完了しました当時から月日を重ねた現在に至るまで、市民から大変愛される殿様だったことがうかがわれます」と書かれています。みんなから愛される殿様だったからこそ、市民協力の下墓碑修復が成ったということがよくわかるエピソードです。

今でも受け継がれる想いや絆があふれる場所お墓。一緒に訪れた人との語らいの時間にもなるのがお墓参りです。教科書や作品でしか知らない有名人・著名人ですが、お墓を巡ることで、実際にその人が生きていた時代を感じることができるでしょう。

マナーに十分に注意した上で、いろいろなお墓を巡ってみてはいかがでしょうか。