お役立ちコラム お墓の色々
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【水戸黄門】水戸光圀のお墓はどこにある?

昭和から平成にかけて放送され、老若男女問わず多くの人に愛された時代劇、「水戸黄門」。その主役である水戸光圀こと第二代水戸藩主徳川光圀。時代劇では日本中を放浪し世直しをしているお殿様というイメージが強いですが、実際は放浪することもなく、水戸藩の学問振興に取り組んだ名君と言われています。
時代劇「水戸黄門」のモデルとなった水戸藩主・徳川光圀とはどんな人物だったのか。その晩年は?そして黄門様のお墓は一体どこにあるのかをご紹介して行きたいと思います。
※正式な名は徳川光圀ですが、記事内では時代劇にならい水戸光圀で統一します
放蕩三昧の青年時代
628年(寛永5)年7月、水戸藩初代藩主・徳川頼房(とくがわ よりふさ)の三男として生まれました。しかし光圀を懐妊した際、母である高瀬局(たかせのつぼね)は正式な側室ではなかったため、家康の側室であったお勝の方の機嫌を損ねてしまったといわれています。理由はさだかではありませんが、通説によるとそのような事情があったため頼房は光圀の堕胎を命じます。
しかし高瀬局は堕胎の命を拒否します。そのため、家臣であった三木之次(みき ゆきつぐ)の屋敷(茨城県水戸市)にて匿われることになり、生後しばらくは之次の子として育てられました。
生後間もなくからその才気の片鱗を周りに示していたとされる光圀は1632(寛永9)年、水戸城に入城し、正式に頼房の子として認められるのでした。そして翌1633(寛永10)年11月、兄の頼重を差し置いて、若干6歳で幕府から水戸徳川家の世継ぎに指名されます。
順風満帆に走り出したかに思えた光圀の生活でしたが、江戸に渡り世子教育(せいしきょういく:跡継ぎとして必要な高水準の教育)を受けるなかで、突如荒れた生活を送り始めます。その振舞いについて、光圀が13歳の時から教育係を勤めた水戸藩士の小野言員(おの ときかず)が書物に残しています。その内容によると、派手な格好をしていて、話す内容にも品格がなく、水戸家の世継ぎでありながら、天と地ほど身分の違う草履取りたちと気軽に話を交わし、その内容も女性の話ばかりであったそうです。
また、遊里に通いつめ、朝帰りになってしまった際には鰹売りに姿を変えて屋敷内に戻ったり、悪友にそそのかされて人を斬ったことまであったという、まさに「不良少年」としか言いようがない生活ぶりだったと言われています。
大日本史の編さん、水戸学の確立
そんななか、18歳のときに出会った中国の歴史書「史記」(しき)に感銘を受けた光圀は、荒んだ生活を改め勉学に励みながら学問の面白さに目覚めていったのです。その努力の裏には同じ御三家の尾張徳川家、紀州徳川家への強いライバル心も秘められていたとも言われています。
実は水戸徳川家は、御三家と呼ばれながらも実際は紀州からの分家扱いで石高、家格が一段下げられていたのです。
そして、1657年(明暦3年)から歴史書「大日本史」の編さん作業に取り組み始めました。大日本史とは、神武天皇から後小松天皇までの、天皇の歴史などを記述した書物で、本紀(天皇の年代記)が73巻、列伝が(臣下の伝記)170巻、表(年表や系譜)と志(当時の世の歴史)、目録5巻を合わせた154巻の全397巻(226冊)という膨大な書物で、水戸徳川家12代にわたって編さんされたと言われる歴史書です。 この編さん事業に携わった学者たちによって「水戸学」が確立されます。
水戸学とは江戸時代、水戸藩において形成された学風・学問のことで、1665年(寛文5)年当時の中国「明(みん)」から儒学者「朱舜水」(しゅしゅんすい)を招き、教えを受けた中国の儒学や国学、史学など様々な学派を網羅した学問が元になっていると言われています。
1690年(元禄3)年、光圀は養子として迎えていた、実兄の松平頼重(まつだいら よりしげ)の次男である徳川綱條(とくがわ つなえだ)へ家督を譲り、およそ30年の藩主生活に幕を下ろし隠居します。
食通でもあった光圀
儒学者「朱舜水」に後楽うどん(現代でいうラーメン。当初、その食べ物に名前はなく、後楽うどんと言う名前も光圀が命名したもの)の作り方を教えてもらった光圀は、得意料理として頻繁に調理していたと言われています。
他にも南蛮のワインや中国の牛乳酒などに興味を示し、異国の酒を積極的に嗜んでいました。海外由来の餃子やチーズ、肉も魚も好み、光圀は隠居後も様々な食事を楽しんでいました。
水戸光圀のお墓はどこにある?
隠居後も余生を楽しんでいた光圀ですが、70歳を過ぎた頃から次第に食欲不振になり始め、1701年(元禄14年)に食道がんを患い、73歳でこの世を去りました。
光圀は、2007年に国指定史跡に指定された「水戸徳川家墓所」に埋葬されています。
水戸徳川家墓所には初代頼房をはじめ、水戸德川家の歴代当主とその夫人や一族などが眠り、そのお墓の数は約200基にものぼります。
水戸徳川家墓所は茨城県の北部、阿武隈山地から続く国見山の南側丘陵斜面部にあり、山の中腹くらいまで登ったところに光圀のお墓があります。
正室の墓と並び、墓碑には「故櫂中納言従三位水戸源義公之墓」の文字が刻まれ、螭首亀趺 (ちしゅきふ:竜の一種をかたどった装飾に、亀の胴体をつけたもの)の台座の上に置かれています。
その後ろに、馬のたてがみのように土を盛り上げたお墓、馬りょう封(ばりょうふう)があります。 また敷地内には光圀が衣冠束帯を土中に埋め、建てた寿蔵碑(じゅぞうひ)もあります。「寿蔵」とは「寿陵」と同様、生前に立てるお墓のことで、碑には光圀の号(ペンネームのようなもの)を取り「梅里先生墓」の文字が刻まれています。
【水戸徳川家墓所】茨城県常陸太田市瑞龍町字塚ノ入2092
※見学等には予約が必要です。詳しくはお問い合わせください。
まとめ
光圀は73歳でなくなりましたが、当時としては長寿と言われる年齢です。もしかすると、多様な食生活を楽しんでいたことが、光圀の長寿の秘訣だったのかもしれません。 時代劇「水戸黄門」は隠居後の放浪旅を描いたものですが、これは創作で、光圀が日本中を放浪したという記録はありません。
物語が生まれたのは幕末と言われていますが、その着想は「大日本史」の編さんに必要な資料収集のために家臣を諸国に派遣したことや 隠居後に水戸藩領内を巡視した話などからイメージされた姿であるとされています。もしかしたら、新しい学問や食事を柔軟に取り入れる姿勢が、このようなイメージを産んだのかもしれません。
新しいものを求め続けた光圀。その光圀が編さんした大日本史や光圀が育てた水戸学。 水戸学の「尊王論」が幕末の志士たちに影響を与え、やがて討幕に繋がってしまったのは皮肉な話ですが、そのお墓を参ることで光圀が目指したものやその想い、新しいものを取り入れようとするスタンスなどを感じ取ることができるかもしれません。
今でも受け継がれる想いや絆があふれ、過去の偉人が遺したその功績までをも感じ取れる場所、お墓。一緒に訪れた人との語らいの時間にもなるのがお墓参りです。教科書や作品でしか知らない有名人・著名人ですが、お墓を巡ることで、実際にその人が生きていた時代を感じることができるでしょう。
マナーに十分に注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょうか。