お役立ちコラム お墓の色々

お役立ちコラム お墓の色々

- 供養をきわめる -

【幕末のイノベーター】坂本龍馬のお墓はどこにある?

墓地・墓石コラム

1月21日は薩長同盟が結ばれた日。その中心人物の一人として知られるのが、坂本龍馬(さかもと りょうま)です。龍馬は幕末という激動の時代に、新しい日本の姿を思い描きながら行動した人物です。土佐藩の下級武士として生まれた龍馬は、身分や立場にとらわれず、日本の未来を見据えて奔走しました。

龍馬といえば、薩摩藩と長州藩を結びつけた薩長同盟のほかにも、武力に頼らず政権を天皇に返す「大政奉還」を構想したことなどで知られています。表舞台で権力を握ったわけではありませんが、対立する人々の仲を取り持ち、新しい時代への道筋を整えた存在でした。

争いをできるだけ避け、話し合いによって国を変えようとした龍馬。その柔軟な発想と先見性は、多くの志士たちに影響を与え、明治維新へと続く大きな流れを生み出しました。 今回は、時代の転換点に立ち日本の未来に大きな足跡を残した坂本龍馬の生涯やその功績、そしてそのお墓がどこにあるかについてご紹介していきます。

下級武士の家庭に生まれた龍馬

龍馬は、天保6年(1835年)11月15日、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現在の高知県高知市上町一丁目)に五人兄弟の末っ子として生まれました。長兄とは21歳、長女とも19歳という大きな年の差があり、3歳年上の姉・乙女(とめ)は龍馬が最も慕った存在として知られています。

坂本家の本家は「才谷屋」と呼ばれる商家で、龍馬の家はそこから分かれ、郷士の株を得た家でした。武士とはいえ、決して上級の身分ではなく、商人の気質と武家の立場が入り混じった環境が、後の龍馬の自由な発想につながったのかもしれません。

龍馬の幼少期については「落ちこぼれだった」という話を耳にすることもありますが、それを裏付ける確かな記録は残っていません。12歳で通い始めた楠山塾を早々にやめてしまったことから、そう語られるようになったとも考えられます。一説には、上士の子との喧嘩が原因だったともいわれていますが、真相は定かではありません。この年、母・幸が亡くなり、以後は継母の伊与が龍馬の教育を担いました。

龍馬と姉・乙女は、伊与の最初の嫁ぎ先であった川島家をたびたび訪ね、そこで「ヨーロッパ」というあだ名を持つ川島猪三郎(かわしま いさぶろう)から、外国や世界の話を聞いて育ったと言われています。

14歳になると、龍馬は日根野道場に入門し、小栗流(おぐりりゅう)の剣術を学びます。稽古を重ねて逞しく育った龍馬は、19歳で江戸へ剣術修行に出ます。

黒船が変えた龍馬の志

嘉永6年(1853)3月、剣術修行のために土佐を発った龍馬は、江戸三大道場の一つに数えられる北辰一刀流・千葉定吉が開いた桶町千葉道場の門をたたきました。剣の腕を磨くために江戸へ向かった龍馬ですが、のちの人生を大きく揺さぶる時代の転換点に立ち会うことになります。

同年6月3日、ペリー率いる黒船4隻が浦賀に来航。江戸の町が騒然とするなか、龍馬も品川沿岸の警備に動員されました。父である八平に宛てた手紙には「もし戦争になれば異国の首を討ち取って土佐へ帰る」と記されていたとされ、龍馬が強く外国人を排除し国を守るという攘夷の考えを抱いていたことがうかがえます。

しかし、その考えは大きく変わっていきます。黒船来航の約1年後、剣術修行を終えて土佐に戻った龍馬は、画家で小説家の河田小龍(かわだ しょうりょう)を訪ねます。小龍はアメリカから帰国したジョン万次郎の体験談をもとに『漂巽記略』を著した人物で、当時の鎖国された日本においては数少ない「世界の姿」を知る存在でした。

小龍から「これからの日本には、大きな船と、それを動かせる人材が必要だ」と言う話を聞きました。

やがて文久元年(1861)、27歳になった龍馬は、親戚であり親友でもある武市瑞山(たけち ずいざん)が率いる土佐勤王党に加わります。翌年には、武市の密書を携えて長州・萩を訪れ、久坂玄瑞(くさか げんずい)と面会しました。久坂から語られたのは、「大名や公卿に頼る時代は終わり、これからは志を持つ在野の人々が立ち上がるべきだ」という言葉でした。

萩から土佐へ戻った龍馬は、藩を無許可で離れるという脱藩を決断します。脱藩は武士としての身分や保障を捨て、お尋ね者として追われる立場になるという、極めて危険な選択でした。しかし龍馬は、時代の大きなうねりの中で、自らの信じる道を進むことを選んだのです。

脱藩、そして勝海舟との出会い

文久2年(1862)3月、28歳の龍馬は脱藩を決行しました。行き先は長州藩でした。一説には薩摩を目指したともいわれていますが、詳しい足取りははっきりしていません。ただ一つ確かなのは、龍馬がもはや一藩の枠にとどまらず、日本全体の行く末を考えて動き始めていたということです。

同年の秋、龍馬は江戸に出て幕府の軍艦奉行並であった勝海舟(かつ かいしゅう)のもとを訪ねます。この出会いが龍馬の進む道を大きく変えるのです。

海舟は、幕府から大坂湾周辺の海防を任され、その拠点として神戸に海軍操練所を設けます。龍馬もこれに同行し、操練所に併設された海舟の私塾で学びながら、実務の面でも海舟を支える存在となっていきました。まさに、海舟の片腕として躍動し始めた時期です。

元治元年(1864)8月中旬には、海舟の使者として西郷隆盛(さいごう たかもり)と面会します。その人物評について、龍馬は「少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く男だ」と海舟に伝えたといいます。馬鹿なら大馬鹿、利口なら大利口。そんな言葉からは、隆盛の器の大きさを感じ取った龍馬の鋭い観察眼がうかがえます。それを聞いた海舟も、「龍馬はなかなか鑑識眼を持っている」と高く評価しました。

逆境から時代を動かした男・龍馬

海舟の弟子として歩み始めた龍馬の前途は、順風満帆に見えました。しかし、元治元年(1864)に起きた池田屋事件と禁門の変によって情勢は一変します。開国を進める幕府を批判し、天皇の権威や日本古来の伝統を尊び、外国勢力を排除しようとする尊王攘夷の志士たちが弾圧され、海軍操練所の関係者も処分の対象となったことで、海舟は江戸へ戻され、操練所と私塾は閉鎖。龍馬を含む脱藩浪人たちは、一気に行き場を失いました。

そんな逆境のなかで龍馬が選んだ道は、新しい組織を自ら生み出すことでした。翌年、薩摩藩の支援を受けて長崎に設立した亀山社中は、商社であり、海運業者であり、さらには人材育成の場でもあるという、当時としては極めて斬新な存在でした。ここを拠点に、龍馬は時代を動かす大仕事に乗り出します。

慶応2年(1866)1月21日のこの日、長年対立してきた薩摩藩と長州藩を結びつける薩長同盟を成立させたのです。武力倒幕への道を開くこの同盟を裏でまとめた龍馬は、幕府から危険人物として警戒される存在となりました。その直後に起きた寺田屋事件では、この事件をきっかけに妻となるお龍の機転と仲間の助けによって一命を取り留めます。深手を負った龍馬は療養を兼ねて、お龍と二人で鹿児島県の霧島へ向かいます。これが日本初の新婚旅行とも言われています。

その後も龍馬の活躍はとどまりません。土佐藩にも活躍を認められた龍馬は藩に復帰。亀山社中は海援隊と名を変え、土佐藩の正式な組織となり、龍馬は隊長に就任します。戦争支援や貿易、北海道や竹島よりさらに韓国寄りの鬱陵島(ウルルンド)の開拓構想に目を向けるなど、政治家というよりプロデューサーとしての才覚を発揮していきました。

やがて武力討幕へ傾く薩摩・長州に対し、土佐藩は別の道を模索します。そこで龍馬が示したのが、大政奉還を柱とする八つの策「船中八策」でした。この構想は15代将軍・徳川慶喜に受け入れられ、260年以上続いた幕府は自ら政権を朝廷へ返上しました。戦わずして時代を変える、それは龍馬が生涯追い求めた理想の形でした。

しかし、その理想を見届ける前に龍馬は凶刃に倒れてしまいます。慶応3年(1867)11月15日、奇しくも33歳の誕生日に京都・近江屋で暗殺されました。

実行犯や黒幕については諸説あり、今なおその暗殺事件の真実は謎に包まれています。

坂本龍馬のお墓はどこにある?

龍馬の墓は、京都市東山区・霊山の中腹に広がる「旧霊山官修墳墓」の石段を上った先、京都市街を見下ろす静かな場所にあります。

墓石は高さのある自然石を用いた和型の石碑で、装飾はほとんどありません。正面には「坂本龍馬之墓」と刻まれており、文字も簡素で力強く、華美を好まなかった龍馬の人柄を思わせます。台座を含めると人の背丈ほどの高さがあり、霊山の斜面にしっかりと据えられています。墓石の配置にも特徴があり、中央に坂本龍馬が、その右側に盟友・中岡慎太郎、そして左奥には龍馬に仕えた藤吉の墓が並んでいます。

【京都霊山護国神社】京都府京都市東山区清閑寺霊山町1

そして、龍馬が生まれ育った高知市上町から北西にある丹中山の一角に坂本家一族の墓所があります。かつては二ヶ所に分かれていた坂本家の墓は、後に移転・改葬され、現在は史跡として大切に保存されています。ここには龍馬の父母や姉の乙女をはじめとする坂本家の人々が眠っています。

【坂本家墓所】高知県高知市山手町70

まとめ

下級武士の家に生まれ、決して恵まれた立場ではなかった龍馬ですが、身分や常識に縛られることなく、常に「日本のこれから」を見つめ続けていました。剣を学び、世界を知り、藩を飛び出し、人と人をつなぐ。その歩みは一直線ではなく、挫折や危機の連続でしたが、そのたびに龍馬は新しい道を切り開いていきます。

薩長同盟の成立や亀山社中から海援隊への発展、大政奉還へとつながる構想は、いずれも龍馬自身がその結果によって権力の中心に立ったわけではありません。それでも、対立する者同士の間に立ち、争いを避けながら未来への選択肢を示した点に、龍馬の真価がありました。刀ではなく、言葉とアイデアで時代を動かそうとした龍馬は、幕末という激動の時代においてきわめて異例の存在だったといえるでしょう。

33年という短い生涯のなかで、龍馬が残したものは「完成された答え」ではなく、「次の時代へ進むための道筋」でした。その志は、多くの人の手によって受け継がれ、明治という新しい時代を形づくっていくこととなります。

龍馬の墓前に立てば、権力を追い求めることなく、立場や身分を超えて人と人を結び、武力による争いを避けながら新しい時代の道筋を示そうとした龍馬の生きざまから、 「新しい時代を作るために必要なものとは何か」という、時代を動かす「イノベーター(革新者)」になるためのヒントが得られるかもしれません。

お墓は、亡き人をただ悼むためだけの場所ではありません。そこには、家族との絆や人との出会い、その人が歩んできた時間や胸に抱いていた想いが、静かに息づいています。お墓参りとは、そうした背景に心を寄せながら、そばにいる人と語り合い、思いを分かち合う大切なひとときでもあるのでしょう。

教科書や書物の中で名前を知るだけの偉人たちも、実際に墓前に立ってみると、「確かにこの時代を生き、悩み、行動した一人の人間だった」という実感が、ふと胸に迫ってくるかもしれません。

マナーに十分注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょう。

【保存版】お墓参りのマナーや常識 5つのポイント

古くて新しい?お墓を巡礼する墓マイラーとは

同じ幕末を生きた維新志士や、戦国のイノベーター・織田信長、勝海舟のライバルと称された小栗忠順に関する記事もあります。