お役立ちコラム お墓の色々

お役立ちコラム お墓の色々

- 供養をきわめる -

【逃げ上手の若君】鎌倉幕府を滅ぼした英雄、新田義貞のお墓はどこにある?

墓地・墓石コラム

アニメ第2期の放送を7月に控え、現在第1期が再放送中の「逃げ上手の若君」。

作中に登場する新田義貞(にった よしさだ)は、史実においても足利尊氏(あしかが たかうじ)らと後醍醐天皇に味方して挙兵し、約150年続いた鎌倉幕府を終焉へ導いた人物として歴史に名を残した南北朝時代の武将です。

義貞の生涯を語るうえで欠かせないのが、「日本一の至誠の武将」とも謳われる、忠義を重んじたその生き方ではないでしょうか。

乱世の中には、情勢に応じて主君を変える武将も少なくありませんでした。しかし義貞は、厚遇されたわけでもないのに、最後まで後醍醐天皇への忠誠を貫き続けます。その一方で、武士たちの支持を集めた尊氏と対立し、激しい戦いの末に非業の最期を迎えることとなりました。

それでも、鎌倉幕府を打倒した英雄として、また南朝方の中心武将として戦い続けた義貞の存在は、現代でも多くの人々を惹きつけています。

今回は、そんな義貞の生涯や功績、そしてお墓がどこにあるかをご紹介いたします。

名門・新田氏に生まれる

義貞は1301(正安3)年、上野国新田荘(現在の群馬県太田市周辺)に生まれました。父は新田朝氏(ともうじ)。新田氏は清和天皇の皇子を祖とする清和源氏の流れをくむ名門であり、その祖をたどれば鎌倉幕府を開いた源頼朝とも同じ河内源氏の系統に連なります。

新田氏の本拠地である「新田荘」は、上野国に広がる豊かな土地でした。しかし、鎌倉時代後期の新田氏は、名門でありながら幕府内で大きな発言力を持つ存在ではありませんでした。

一方、同じく清和源氏の有力一門で、河内源氏の流れをくむ足利氏は、有力御家人として幕府内で大きな勢力を築いていました。後に室町幕府を開く足利尊氏は、義貞とは遠い親類関係にあたりますが、当時すでに両家には大きな格差が生まれていたのです。

当時の鎌倉幕府では、執権・北条氏が強大な権力を握っていましたが、元寇以降、幕府は財政難に苦しみ、御家人たちへ十分な恩賞が出せず、次第に御家人たちの間で幕府への不満が高まっていきます。

こうした時代の中で成長した義貞は、家柄の割には幕府からは冷遇されながらも、太平記(南北朝時代の動乱を描いた日本の軍記物語)で描かれるような寡黙で実直な実力派坂東武者へと育っていきます。若い頃の詳しい記録は多くありませんが、各地の戦を経験しながら武士として力をつけ、やがて父の後を継いで新田氏当主となりました。

そして時代が動きます。徐々に陰りが見え始めた鎌倉幕府。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)による討幕運動が、義貞の運命を大きく変えていくことになるのです。

鎌倉幕府への反旗

1331(元弘元)年、後醍醐天皇は鎌倉幕府打倒を目指して討幕計画を実行します。しかし計画は事前に発覚し、後醍醐天皇は隠岐へ流されてしまいました。この時点ではまだまだ安定しているように見える幕府統治でしたが、その足元は確かに揺らぎ始めていたのです。

1333(元弘3)年になると、情勢は一気に動き始めます。隠岐を脱出した後醍醐天皇は討幕の綸旨(りんじ)を発し、各地で反幕府勢力が蜂起しました。楠木正成(くすのき まさしげ)らが各地で幕府軍と激戦を繰り広げる中、幕府は有力御家人である尊氏を討伐軍として派遣します。ところが尊氏は、突如として幕府へ反旗を翻しました。尊氏は京都の六波羅探題を攻め滅ぼします。

この動きに呼応する形で挙兵したのが、義貞でした。義貞は上野国の生品神社(いくしなしんじゃ)で兵を挙げたと伝えられています。

この挙兵に新田一族だけでなく、幕府へ不満を抱く武士たちが次々に加わりました。義貞軍は鎌倉を目指して進軍し、小手指原、久米川、分倍河原など各地で幕府軍と激戦を繰り広げます。特に鎌倉幕府滅亡の直接的な引き金となった分倍河原の戦いでは、激しい攻防となり、義貞軍は初戦では敗退するものの、援軍の到着によって奇襲戦で勝利をおさめ、幕府軍に壊滅的な打撃を与えました。

こうして義貞軍は、ついに鎌倉へ迫りますが、鎌倉は三方を山に囲まれた天然の要害であり、幕府軍は鎌倉に閉じこもり徹底抗戦を重ねます。しかし大軍を率いる義貞は、海と山の両方面に軍を分け、自身も荒れ狂う波浪をものともせず、海側から侵攻し、幕府軍を挟み撃ちにします。追い詰められた北条高時(ほうじょう たかとき)は、東勝寺で一族とともに自害しました。こうして、源頼朝以来およそ150年続いた鎌倉幕府は滅亡します。

この功績によって、義貞の名は一気に天下へ知れ渡ることとなりました。

建武の新政と足利尊氏との対立

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は「建武の新政」を開始しました。これは武士ではなく、天皇中心の政治を目指した改革でした。そう言った事情もあってか、武士たちへの恩賞不足や土地問題への対応の遅れが生じ、武家の不満は急速に高まっていきます。

このような状況の中、義貞自身も功績に見合った恩賞を得られませんでしたが、それでも後醍醐天皇への忠誠を貫きました。

一方、尊氏は武士たちの支持を集め、「武士の棟梁」として勢力を拡大していきます。

そして1335(建武2)年、高時の遺児・北条時行(ほうじょう ときゆき)が鎌倉で挙兵しました。これが「中先代の乱」です。尊氏は朝廷の意向を待たずに鎌倉へ出陣し、この乱を鎮圧します。しかしその後も京都へ戻らず、独自に武士たちへ恩賞を与え始めました。これに対し、後醍醐天皇は義貞へ尊氏討伐を命じます。義貞は正成らとともに尊氏軍と戦い、京都に攻め入った尊氏から一時は京都を奪還することに成功しました。しかし尊氏は九州で勢力を立て直し、大軍を率いて再び京都に向けて進軍します。そして1336(延元元)年、決戦となったのが「湊川の戦い」でした。

この戦いで南朝軍は大敗し、正成は討死。後醍醐天皇は吉野へ逃れ、時代は南朝と北朝が並び立つ「南北朝時代」へ突入していきます。義貞はその後も南朝方の中心武将として、後醍醐天皇の下で戦い続けました。

義貞の最後

1338(延元3)年、義貞は越前国藤島(現在の福井県福井市付近)で北朝軍との戦いを続けていました。しかし、戦況は次第に南朝方へ不利となっていきます。正成や北畠顕家ら南朝の有力武将もすでに戦死しており、義貞は苦しい戦いを強いられていたのです。そして同年7月2日、燈明寺畷(とうみょうじなわて)付近で最期を迎えました。

弓兵に囲まれ矢衾の的となり致命傷を負った義貞は、自らの死期を悟り、自ら首を落とし自害したとも、家臣へ介錯を命じたとも伝えられています。享年38という若さでした。

鎌倉幕府を滅ぼした英雄は、戦乱の中でその生涯を終えました。しかし、義貞の名は、功績に見合わない待遇に処されながらも、生涯その主に忠義を貫いた武将として語り継がれていきます。

義貞の生涯は、まさに鎌倉幕府滅亡から長期化する南北朝という争いの時代、「激動の歴史」そのものだったのかもしれません。

新田義貞のお墓はどこにある?

義貞の墓所は時宗称念寺の境内のなかにあり、石柵で囲われています。伝承によれば、討ち死にした際、敵方であった足利高経は義貞の最期を惜しみ、遺体を輿に乗せ、時衆(時宗の僧)を付き添わせたうえで、葬礼のため往生院へ送るよう取り計らったと伝えられています。この往生院が、現在の称念寺であると考えられています。

境内には「近衛中将新田義貞公贈位碑」や義貞公墓所が残されており、現在も県指定史跡として大切に守られています。

墓所の中心には、天保8年(1837年)の義貞500回忌に、福井藩十代藩主・松平宗矩によって建立された五輪塔があり、その下には元々立てられていた墓石がおさめられていると伝えられています。

寺には義貞ゆかりの遺品も寺宝として保存されており、鎌倉幕府を滅ぼした英雄の足跡を今に伝えています。
さらに称念寺は、戦国時代に明智光秀が約10年間、家族とともに寄宿していた寺としても知られています。南北朝から戦国へと続く歴史の流れを感じられる場所として、現在も多くの参拝者が訪れています。

【新田義貞公墓所】福井県坂井市丸岡町長崎19−17(称念寺内)

また茨城県龍ケ崎市にある金龍寺にも義貞の墓と伝わる墓所が残されています。義貞の出身地は現在の群馬県太田市周辺ですが、この地に墓所があるのは、戦国時代に義貞の子孫が牛久へ領地替えとなった際、新田氏歴代の菩提寺である金龍寺もともに移ってきたためだと伝えられています。

金龍寺本堂裏にお墓はあり、現在も義貞を慕う人々が訪れる場所となっています。

【金龍寺】茨城県龍ケ崎市若柴町866

さらに、神奈川県小田原市には義貞の首塚が残されています。

伝承によれば、討死した義貞の首は、京都で晒された後、鎌倉へ送られる途中、小田原の地に葬られたとされています。そして、その供養のために築かれたのが現在の首塚だと伝えられています。

現在は石碑や小祠を中心に整備されており、地元住民による供養祭も行われています。周辺には義貞塚と刻まれた石碑も建てられており、最後まで忠義を貫いた義貞を偲ぶ場所として、今も大切に守られています。

【新田義貞の首塚】神奈川県小田原市東町4丁目5

まとめ

新田義貞は、鎌倉幕府を滅ぼした英雄として歴史に名を残しました。しかし、その人生は決して華々しい勝利だけに彩られたものではありませんでした。

後醍醐天皇への忠義を貫き、時代の大きな転換点で戦い続けた義貞。しかし、武士たちの支持を集めた足利尊氏との争いに敗れ、その生涯を戦場で終えることとなります。

それでも義貞の名は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期を代表する武将として今なお語り継がれています。逃げ上手の若君でも、北条時行と対峙する存在として描かれることで、その人物像にあらためて注目が集まっています。

義貞の墓前に立てば、鎌倉幕府を滅ぼした英雄としての姿だけではなく、最後まで信念を曲げず忠義を貫き、主の為に戦い続けた一人の武将としての生きざまを感じられるかもしれません。

お墓は、亡き人を悼む場であると同時に、その人が生きた歳月や想い、家族とのつながりを静かに伝える場所です。墓前に立つことは、物語に心を寄せ、記憶を分かち合う時間でもあります。歴史上の人物の墓を訪ねれば、偉人もまた一人の人間であったと実感し、「お墓の意味」をあらためて見つめ直すきっかけとなるのではないでしょうか。その気づきは、自身の家族のお墓について考える機会にもつながります。

お墓の継承や建て替え、墓じまいなどに迷った際は、石材店へ相談することも一つの方法です。

お付き合いのある石材店が特にない場合は、以下の記事を参考に、ご自身に合った石材店をお探しになってみてはいかがでしょうか。

石材店はどう選ぶ? 注目すべき5つのポイント

マナーに十分注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょう。

【保存版】お墓参りのマナーや常識 5つのポイント

古くて新しい?お墓を巡礼する墓マイラーとは

共に鎌倉幕府を倒した後、ライバルとなって戦い続けた足利尊氏や、逃げ上手の若君の主人公・北条時行などに関する記事もあります。あわせてお読みください。