お役立ちコラム お墓の色々

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【将軍‐SHOGUN・按針のモデル】三浦按針(ウィリアム・アダムス)のお墓はどこにある?

墓地・墓石コラム

2024年からアメリカで放送されているドラマシリーズ「SHOGUN将軍」。エミー賞にも多数ノミネートされ話題になったことは記憶に新しいと思います。徳川家康がモデルと言われている「吉井虎永」を筆頭に、ほとんどの登場人物が架空の名前であるのですが、唯一「按針」という人物だけ実在したとされています。それが三浦按針(みうらあんじん)というイギリス人です。英名をウィリアム・アダムスといい、 家康の命を受け、日本で初めて洋式帆船(ガレオン船)を建造したとされる人物です。

今回は、三浦按針がどのようにして日本にたどり着いたのか、そして徳川政権に重用されるに至ったのかをご紹介して行きたいと思います。

※本記事内では呼び名を和名の三浦按針で統一します。

命をかけ極東・日本を目指し旅立つ

1564(永禄7)年9月、英国南東部にあるケント州のジリンガム(現メドウェイ市ジリンガム)という街で按針は生まれます。

12歳で父を亡くした按針は故郷を離れ、12歳でロンドン・テムズ川北岸のライムハウスと呼ばれる港湾地区へ移り住み、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズのもとで徒弟(とてい)として働きます。造船術よりも航海術や天文学に興味を持った按針は、船大工として働くかたわら航海術や天文学についても学びます。

1588(天正16)年、按針が34歳の時に海軍に入隊、翌年には輸送艦の艦長に抜擢され、スペインとの戦争にも参加するなどして活躍します。

翌年には結婚し2子をもうけますが、軍隊を辞め貿易会社の航海士として働いていた按針は、本格的な大航海時代の到来もあって家に帰ることはほとんどなかったそうです。そんな折、極東日本を目指す船があるという噂を聞きつけた按針は、弟のトマス達とともに5隻の船団「オランダ東洋遠征隊」に主任航海士として乗り込み、東洋へと出帆します。しかし航海は困難を極めるものでした。当時イギリスと敵対していたスペインやポルトガルに拿捕されたり、アメリカ大陸でネイティブアメリカンに襲撃され、残った船員達も赤痢や伝染病に侵され、もともと5隻で出港した艦隊も、按針たちが乗ったリーフデ号ただ1隻になり、110人いた船員も24人にまで減ってしまいました。

そんな状況でも、貿易船としての責務を果たすため針路を日本へと取り続けた按針は、ついに日本を発見。ボロボロの状態になりながらも出帆から1年10カ月をかけ、1600年(慶長5年)4月、関ケ原の戦いのわずか半年前に現在の大分県臼杵市に漂着します。

日本へ漂着、大分から江戸へ

日本へ漂着はしたものの、自力では上陸できなかった乗組員たちは、臼杵の城主・太田一吉が出した舟でようやく日本への上陸を果たします。しかし、按針達を海賊だと思っていた太田は長崎奉行であった寺沢広高に通報します。通報を受けた広高は、大坂城の豊臣秀吉の三男である秀頼に捕らえた船員をどうするべきか指示を仰ぎます。

その結果、豊臣政権下で力を有していた五大老首座・徳川家康の指示で、重体で身動きの取れない船長ヤコブに代わり、按針と他船員2名ほどを大阪に移送させます。それに併せリーフデ号も大阪へと回航させました。

この時、日本ではカトリックのイエズス会が権勢を振るっていました。そんな日本に漂着したオランダ東洋遠征隊。その当時、オランダやイギリスはカトリックを信仰する国ではなく、カトリックから分離したプロテスタントを信仰していたことから、按針たちによって家康にカトリックに対して誤った教理を吹き込まれる可能性を懸念しました。

そのような背景もあり、按針をはじめとしたリーフデ号乗組員のイギリス人やオランダ人との交流には否定的で、イエズス会士の中には按針達を処刑するよう、家康に申し出る者もいたそうです。さらに宣教師を派遣して按針たちに日本を去るよう交渉などを行い、果てにはプロテスタントからカトリックへと改宗するように迫りますが、失敗に終わります。

そんな中、家康が大阪にて按針たちと面会。航海の目的やプロテスタント国とカトリック国との紛争を臆することなく説明する按針たちを家康は大層気に入ったそうです。海賊であるという誤解を解く間、家康は按針をはじめとする乗組員たちをしばらくの間投獄します。

その後も執拗に処刑を要求するカトリック宣教師たち。按針たちに向けられたカトリック宣教師であるポルトガル人の敵意は、ことあるごとに家康の心に疑念を生むこととなり、家康はそれを黙殺します。家康は幾度かに渡って引見を繰り返した後に按針ら乗組員を全員釈放し、自らの領地である江戸に按針達を招きます。

江戸で家康の旗本として活躍

家康の命でリーフデ号とともに江戸を目指す按針達でしたが、向かう途中遠州灘(静岡と愛知にまたがる海域)にて嵐に遭遇し破船、浦賀湾に船を放棄し、按針らは陸路で江戸に向かうこととなります。1年10ヶ月をともにしたリーフデ号は、浦賀で朽ち果て解体されることになりました

按針一行が江戸に到着して数か月後の1600(慶長5)年9月15日、関ケ原の戦いが勃発します。浦賀港で破船したリーフデ号に積まれていた大砲や火薬を接収していた家康は、これらの重火器を存分に活用し、天下分け目の戦いに勝利します。また積まれていた西洋鎧も着用したと言われています。

天下を統一した徳川幕府による江戸時代が到来すると、家康は米や俸給を按針らに与え厚遇し、諸外国使節との外交や、その交渉の際に通訳を勤めさせたり、助言を求めるなど、外交アドバイザーとして重用します。また外交についてだけではなく数学や幾何学、航海術などの学問を家康以下の側近に授けるよう指示します。

その後、按針がかつて造船業に携わっていたことを知った家康は、西洋式の帆船を建造するよう依頼します。それを受け、按針は伊豆国(現在の静岡県)にて建造指揮を執り、1604(慶長9)年に排水量80tの帆船を完成させました。このとき家康も試乗し、大いに喜んだといわれています。翌年には外洋にも出帆できる120tの大型船を建造しています。この功績により、按針は家康より相模国三浦郡逸見村(現在の神奈川県横須賀市西逸見町)の土地250石を与えられたばかりではなく、帯刀も許可され旗本(将軍に謁見できる、直接支えた武将)の地位を得ました。

また、この時家康に和名である「三浦按針」という名を与えられ、以降これを名乗りました。「三浦」は地名に、「按針」は水先案内人に由来する言葉で、三浦の水先案内人という意味が込められた名前でした。

朱印船貿易を重視していた江戸幕府では、按針自身も朱印状をもらいながら、外国船への対応などに尽力しました。こうして三浦按針は「サムライ」となり、生涯を日本で過ごすことになります。

また、造船の他にもオランダやイギリスの平戸商館設立など、幕府の海外貿易振興に尽力しました。それ以外にも琉球や中国、タイなどへ渡航し按針自らも積極的に貿易を行いました。1616(元和2)年4月、タイでの交易を終え帰国した按針は家康の訃報を聞くこととなります。

三浦按針のお墓はどこにある?

跡を継いだ徳川秀忠をはじめ江戸幕府の幕臣たちは、海外貿易を幕府に一元化する目的で貿易を長崎と平戸の二港のみに制限し、いわゆる「鎖国」が本格的に始まります。按針は幾度も幕府を説得しますが相手にされません。それどころか秀忠との謁見すら叶わず、その立場は一気に不遇となりました。

幕府や次期将軍候補の徳川家光らに警戒されたまま、1620年(元和6年)に、55歳で長崎県平戸にてその生涯を閉じました。

実は三浦按針の墓は長年定かではありませんでした。しかし近年の発掘調査で人骨が発見され、鑑定の結果それが三浦按針のものであるとほぼ断定され、遺骨が発見された平戸市の崎方公園が濃厚であると報道されました。

1954(昭和29)年に三浦按針の墓が、また1964(昭和39)年には按針生誕の400年にあたる年だったため、イギリスの妻の墓地から夫人の霊魂の象徴として小石をとりよせて按針の墓に合葬。3mほどの墓石には中央に大きく「三浦按針之墓」の文字が、その右には小さく「うゐりあむあだむす」と刻まれています。また、向かって左側には「無縁塔」と刻まれた碑が、「三浦按針夫婦塚」と刻まれた墓石が建立されています。

また、宝篋印塔が供養塔として按針ゆかりの地である横須賀市に建立されています。按針の遺言により、江戸を眺望する事ができるこの地に建てられたとされています。凝灰岩でできている右塔が按針の塔で、安山岩でできている左塔が按針の妻の塔であると言われています。逸見町や日本橋按針町の方々により、晩年不遇を受けた按針の供養は現在も続けられています。

【三浦按針の墓】長崎県平戸市大久保町2353

【三浦按針供養塔】神奈川県横須賀市西逸見町3丁目57

まとめ

1年10ヶ月という年月をかけ、苦難の末に日本にたどり着いついた初めてのイギリス人である三浦按針。彼がもしあのタイミングで日本に漂着しなければ、関ヶ原で勝利したのは徳川家康ではなかったという説もあります。また洋式帆船の建造や航海術、ヨーロッパ諸国との貿易の形成など、按針が日本にもたらしたものは計り知れません。造船や航海、交易だけでなく、さつまいもを伝来したのも按針であると言われています。

家康から帰国の許可をもらった際も、按針は祖国には帰らず、日本の地に生涯とどまりました。今となってはその理由を知る術はありませんが、徳川家康という人物と出会ったことが按針の人生に大きく作用したことは間違い無いと思われます。長崎県という異国情緒あふれる土地で、按針のお墓を参ることによってヨーロッパ諸国と日本を繋いだ熱い想いを感じとる事ができるかも知れません。

今でも受け継がれる想いや絆があふれる場所お墓。一緒に訪れた人との語らいの時間にもなるのがお墓参りです。教科書や作品でしか知らない有名人・著名人ですが、お墓を巡ることで、実際にその人が生きていた時代を感じることができるでしょう。マナーに十分に注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょうか。

なお、按針を重用した徳川家康に関する記事もございます。併せてご覧ください。