お役立ちコラム お墓の色々
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- 供養をきわめる -
世界の偉人のお墓 浮世絵師編〜葛飾北斎〜
ドラマや映画、書籍などで見た偉人たちは、どのような生涯を送り、どこの地で永遠の眠りについているのでしょうか。近年、有名人・偉人のお墓巡りを趣味にしている方々は「墓マイラー」と呼ばれ、実は秘かなブームにもなっています。彼らの伝説的エピソードに触れながら、終の棲家に想いを巡らせてみてはいかがでしょう。
今回は「浮世絵師編~葛飾北斎~」と題して、葛飾北斎(以下、北斎)(1760-1849年)の生涯と最期、お墓についてお伝えします。
北斎は、日本を代表する浮世絵師の1人です。
『富嶽三十六景』や『北斎漫画』などはあまりにも有名で、海外でも高く評価されています。
近年でも2020年に刷新されたパスポートの査証ページに三十六景が採用されており、波しぶきが飛び散る躍動感あふれる風景画や雄大な富士山の姿などダイナミックな表現で、国内外問わず見る者の心を捉えて離しません。北斎の生涯は、芸術家魂が燃え尽きるその日まで、ドラマティックな物語だったといえるでしょう。
葛飾北斎とは
幼い頃から絵筆を握るのが好きだった北斎(本名は川村時太郎)は、1760年9月23日に武蔵国葛飾郡本所割下水(現在の東京都墨田区)で生まれました。
北斎は、生涯で90回以上引っ越し、30回以上も画号(雅号)(今で言う“芸名”)を変えたといわれています。なぜ、これだけ頻繁に環境を変えながら、3万点以上のも晴らしい作品を生み出せたのでしょうか。
葛飾北斎の生涯
北斎の生涯を、それぞれの時代を彩った画号とともに辿ってみましょう。
春朗時代
19歳で浮世絵師 勝川春章に入門。翌年からは「勝川春朗」の画号をもらい、画家一筋の人生を歩み始めます。
春朗時代の北斎は、自らの筆で直接絵絹や紙に描いた肉筆美人画の最初の作品『婦女風俗図』や「春朗」の署名が書かれた唯一の肉筆画『鍾馗図』などを制作しました。
絵の才能を開花させ始めた北斎でしたが、兄弟子の春好からは認められず、描いた絵を目の前で破り捨てられるという屈辱的な経験を味わっています。この出来事が転機となった北斎は、自身の芸術に対する飽くなき探求心に火がつき、技術、表現力ともに向上させようとさまざまな画法を学びました。
その後、34歳で師匠の勝川春章が亡くなったのを機に「勝川派」を去ります。
宗理時代
36歳で琳派(りんは)に加わり「三代目 俵屋宗理」を襲名した北斎は、おもに美人画を描いていました。またこの頃は、お金が無くなるとすぐに画号を売って生活苦をしのいでいた説もあり、30回以上の改名は、経済的な困難に対する策だったとも言えそうです。
俵屋宗理のあとは北斎宗理、そして39歳で「北斎辰政」と改めます。この時期、最初の妻と死別、そして後妻「こと」との再婚のあとは、どの画派にも属さない独立した絵師として再出発します。
宗理時代は「葛飾北斎」を世に広め、伝説の画狂老人となる道を駆け上がり始めた時代だったのでしょう。
葛飾北斎時代
46歳を過ぎた頃から「葛飾北斎」という名前を使い始め、独自の作風を確立し、数々の傑作を生み出します。
とくに小説の一種である読本(よみほん)の挿絵に没頭していき『新編 水滸画伝』(しんぺん すいこがでん)『鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月』(ちんぜいはちろうためともがいでん ちんせつゆみはりづき)と次々に作品を発表していきます。
ダイナミックかつ繊細な描写や明暗を活かした構図で描かれた北斎の作品は、人気を博し、絵入り読本の第一人者となりました。
戴斗時代
51歳で「戴斗」(たいと)に改名し、弟子が増えていったことから絵手本(特定の絵を描くための参考になるイラストや図案)に注力していきます。
なかでも、3900点にも及ぶ作品が詰まった画集『北斎漫画』は、人物、風景、気象などの森羅万象を描き、北斎の豊かな想像力とユーモアあふれる表現技法により、代表作となりました。
為一時代
61歳になると「為一」(いいつ)に改名。69歳で後妻「こと」が死去し、悲しみを払拭するかのように作品に没頭します。そして、72歳で生涯の代表作『富嶽三十六景』シリーズの刊行を始めました。その後『富嶽三十六景』は十図を加えた全四十六景となります。
行楽・旅行ブームが起こったことも追い風になり、北斎の『富嶽三十六景』は、歌川広重の『東海道五十三次』とともに大流行し、浮世絵として「風景画」が確立されました。
「73歳にして、ようやく鳥、獣、虫、魚の骨格や草木の何たるかが分かってきた。このまま精進を続け、80歳を過ぎればかなりの進歩を望めるだろう。」
年を重ねることを”老い”ではなく”進化の過程”と捉えていたであろうこの言葉を実証するように、70歳以降の北斎は”傑作”といわれる作品を次々と生み出していきます。
画狂老人卍時代
75歳からは、最後の画号「画狂老人卍」(がきょうろうじんまんじ)を名乗り、画業の集大成ともいうべき絵手本『富嶽百景』初編を刊行しました。
80歳から90歳までを肉筆画の制作に捧げ、90歳で晩年の地となる浅草聖天町の遍照院(浅草寺の子院)近くに引っ越すと、衰えることのない創造力で絵筆を握り続け、最後の傑作『富士越龍図』を世に送り出したのです。
晩年の句のひとつに「天があと10年、いや、あと5年の命をくれたなら、本物の絵師になれる」と亡くなる瞬間まで、もっと長生きして、絵を描きたいと願った画狂老人卍こと北斎は、1849年4月18日、90歳でその生涯を閉じました。
葛飾北斎のお墓はどこにある?
絵筆一つで駆け抜けた北斎の魂は、東京都台東区にある誓教寺に眠っています。
一時は、震災や戦災で激しく損傷していましたが、北斎を愛する人々の手によって昭和62年に覆堂が建てられ、今日まで大切に守られています。
墓石には、最後の画号「画狂老人卍墓」が刻まれ「絵を描くことこそが自分の人生だった」と信じて生涯を駆け抜けた、彼の生き様が刻まれているようです。
また、墓石の裏側には戒名「南牕院奇譽北齋居士」(なんそういんきよほくさいこじ)が書かれ、側面にはつぎの辞世の句が刻まれています。
「ひと魂で ゆく気散じや 夏の原」
「死んだ後は、人魂となって夏の草原をのびのびと飛んでゆこう」
辞世の句からも、転居と改名を繰り返しさまざまな技法で作品を作り続けた北斎の自由な生き方が感じられるのではないでしょうか。
なぜ日蓮宗信者であった北斎が浄土宗寺院である誓教寺に埋葬されたのか、確たる理由は分かっていませんが、菩提寺が浄土宗であったこと。また北辰北斗に関連した画号を多く使用するほど、道教や神道にも深く根ざした神様であり、多様な信仰と結びつく北辰妙見菩薩を深く信仰していたことが1つの理由として考えられます。
誓教寺には、北斎生誕230年を記念して建てられた銅像もあります。おもしろいことに銅像は、本堂に対して斜めになっており、富士山の方角を向いているそうです。
ちなみに辞世の句とは、死を覚悟した人間がこの世に書き残す、生涯最後の句です。
当コラムでは、ほかの偉人の句も紹介していますので、ぜひご覧ください。
◆辞世の句を読み解く ―徳川家康 前編―
◆辞世の句を読み解く ―『光る君へ』紫式部を取り巻く貴族編―
まとめ
今回は、葛飾北斎のお墓の場所と生涯にまつわるエピソードを紹介しました。
お墓参りの際、今後の抱負や約束事を墓前に誓う方は多いと思われます。お墓の厳かな雰囲気はこうした気持ちを引き締めるのにピッタリですし、まるで故人が見守ってくれているかのような感覚も覚悟を決めるのにはふさわしいものです。私たちは、神社やお寺にお参りするかのように、お墓参りをしている面もあるのです。
家のお墓の前で誓いを建てるのも良いですが、尊敬する偉人・生きざまに憧れる偉人のお墓に誓いを建てるのも、より一層気が引き締まって良いでしょう。
さて、北斎の墓石に刻む言葉には「画狂老人卍墓」が選ばれましたが、墓石に刻む内容に決まりがあるのか悩む方もいるかもしれません。
名前が多い印象ではあるものの、せっかくお墓を建てるなら遺された人が故人を想い、子孫へつなぐ言葉を刻むのも良いでしょう。
こちらでは、墓石に刻む言葉を墓石の種類別に紹介していますので、ぜひご覧ください。
◆墓石に刻む内容の決まりって?文字や言葉の定番について解説
また、お墓きわめびとの会では、墓石の種類ごとにお墓に刻む文字や絵柄、彫刻する場所などについてわかりやすく解説したガイドブックを作成しています。
フォーム送信のみの簡単操作でお送りさせていただきますので、お墓に関する知識を豊富に持った採石・加工・建墓のプロたちによる情報をご覧いただけますと幸いです。
◆お問い合わせフォーム「お墓の彫刻ガイドブック」
葛飾北斎のお墓(誓教寺)への交通アクセス
<鉄道>
東京メトロ銀座線 稲荷町駅から徒歩約5分