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『どうする家康』戦国時代最強の武将、本多忠勝のお墓は?

墓地・墓石コラム

『どうする家康』戦国時代最強の武将、本多忠勝のお墓は?

2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、松本潤さん演じる徳川家康が、駿河国・遠江国(現在の静岡県)の守護大名・今川義元(演:野村萬斎さん)のもとで人質としての幼少時代を過ごし、弱小国と言われた三河国(現在の愛知県東半部)の主となったのち、天下統一を成し遂げていくまでの波乱の生涯が描かれます。

幼い頃から家康に仕え、徳川家臣最強・戦国時代最強とも謳われた武将で、ドラマの中でも忠義に厚く男気あふれる家臣として存在感を発揮しているのが、山田裕貴さん演じる本多忠勝(通称:平八郎)です。先端に泊まったトンボが真っ二つになってしまったという愛槍「蜻蛉切(とんぼきり)」や、鹿の角をあしらった名兜「鹿角脇立兜(かづのわきだてかぶと)」も有名です。生涯を通じて57回の合戦に挑みながらもかすり傷一つ負わなかったとの逸話があり、「徳川四天王」の1人にも数えられています。

本多忠勝の生涯と最期

出生と初陣

徳川本家にあたる安祥松平家(あんしょうまつだいらけ)に最も古くから仕える家臣として名を連ねる本多家。忠勝(ただかつ)はその本多家の長男として生まれますが、翌年に父・本多忠高(ただたか)が戦死したため、叔父である本多忠真(ただざね/演:波岡一喜さん)のもとで育ちます。
幼い頃から、6つ年上である松平元康(徳川家康)に仕え、永禄3年(1560年)13歳の時に、「桶狭間の戦い」の前哨戦である「大高城兵糧入れ」で初陣を果たしました。
時を同じくして元服し、名を「忠勝」と改めましたが、この名前には、「ただ勝のみ」との意味が込められていると伝えられています。

徳川四天王、徳川一の猛将として

本多忠勝は、63年の生涯の中で57回の合戦に挑んだとされ、猛将らしい数々の武勇が語り継がれています。

初陣後に起こった三河一向一揆では、多くの本多一族が一揆側に味方する中、一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して家康側に残り武功を挙げます。家康が三河国を統一した後、19歳にして家康直属の「家康旗本衆」として50騎あまりの兵を与えられてその将となり、側近として活躍しました。

浅井・朝倉軍と戦った元亀元年(1570年)の「姉川の戦い」では、敗退寸前、朝倉軍1万に対し、戦の華とも言える単騎駆けを敢行し、軍を逆転勝利に導きます。
武田信玄(演:阿部寛さん)と対峙した戦では、元亀3年(1572年)の「一言坂の戦い(ひとことざかのたたかい)」にて、殿(しんがり)役を努め、家康率いる本体の撤退を完了させます。その後の「三方ヶ原の戦い」「長篠の戦い」などでも活躍し、家康を守りぬきました。
この時の忠勝の強さに、敵側の小杉左近(こすぎさこん)は、「家康に過ぎたるもの(もったいないもの)が2つあり、唐の頭(中国のヤクの毛で飾った兜)に本多平八(忠勝)」と評価したと言われています。

天正10年(1582年)、本能寺の変が起きたときには、家康も窮地に立たされます。忠勝は、織田信長(演:岡田准一さん)の後を追おうと取り乱す家康を諌めて帰国を進言。わずか30人程度の主従を連れての決死の「伊賀越え」を決心させました。無事に岡崎城へ戻ることができた家康は、「万死を免れるも、ひとえに忠勝の力なり」と称賛したとされています。

天正12年(1584年)、豊臣秀吉(演:ムロツヨシさん)とぶつかることとなった「小牧・長久手の戦い」では、当初は留守を任された忠勝でしたが、大軍を前に徳川軍が苦戦していることを聞き、500名の兵を率いて出陣。大軍を前に立ちはだかり、単騎で乗り入れて悠々と馬の口を川ですすいで見せたため、これを見た豊臣軍が進撃をためらったとの逸話が残っています。このような勇猛な姿に、豊臣秀吉は忠勝を家臣に加えたいと考え、「家康を滅ぼした際には生け捕るように」と討ち取ることを禁じ、「東国一の勇士」と称賛したとも伝えられています。

家康が豊臣秀吉の傘下に入り、関東に移った際には、上総国夷隅郡大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)に家臣団中第2位の10万石を与えられ、大多喜城の城主となりました。

晩年

忠勝は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも大きな功績を残し、伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石の藩主となります。
桑名藩の藩主となった忠勝は、「慶長の町割り」と呼ばれる城下町の整備や東海道宿場の整備を行い、藩政の確立に大きく貢献したことから、「桑名藩創設の名君」としても名を残すことになりました。

1603年(慶長8年)の江戸幕府発足後は、次第に病気がちになり、慶長14年(1609年)に本多家の家督を息子・本多忠政に譲ったのちに隠居。翌年の慶長15年(1610年)10月18日、63歳で死去し、桑名が最期の地となりました。

忠勝が死ぬ数日前、小刀で自分の持ち物に名前を彫っていた時、指に傷を負ってしまい、「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな。」と死期を悟ったとも伝えられています。

本田忠勝のお墓

浄土寺・本多忠勝本廟(三重県桑名市)

墓所は、忠勝の最期の地となった三重県桑名市の浄土寺にあります。
浄土寺は、忠勝が行った「慶長の町割り」によって現在地に移り、藩主である本多家の菩提寺となりました。本殿に向かって左手奥の墓地の一角に、忠勝のお墓が残されています。

墓碑は、一般的な和型石碑に屋根型の笠を乗せた「大名墓」と言われる形式で、基礎部分には本多家の家紋「立ち葵」が刻まれています。

良玄寺(千葉県大多喜町)

忠勝の骨は、桑名に移る前の領地であった大多喜の良玄寺(千葉県大多喜町)にも分骨されました。家康が豊臣家の家臣として関東地方に移り大多喜城の城主となった際、菩提寺として建立したのが良玄寺です。
墓所は、境内の南西側にあり、五輪塔形式の墓碑が三基並んで建てられています。中央が忠勝、向かって右が忠勝の正室・於久の方(おひさのかた)、向かって左が忠勝の次男・本多忠朝の墓(大阪天王寺の一心寺より分骨)と伝えられています。

五輪塔はいずれも、伊豆小松石で作られており、大多喜町指定の文化財となっています。

五輪塔については以下の記事をご覧ください。
五輪塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

高野山奥の院(和歌山県伊都郡高野町)

高野山奥の院にも、「伊勢桑名城主本忠勝墓所」として忠勝の供養塔が建てられています。
二十五町石東、子授け地蔵の向かい側に、2基の宝篋印塔(宝篋印塔)があり、向かって右の大きい方が本多忠勝の供養塔、左の小さい方が、忠勝の妻・於久の方の供養塔とされています。

宝篋印塔とは・・・供養塔や墓碑塔などに使われる仏塔の一種で、中国からの伝来後日本で独自の発展をしてきた塔です。一般的に上から「相輪(そうりん)」「笠」「塔身(とうしん)」「基礎」「基壇」で構成され、笠の四隅には「隅飾(すみかざり)」と呼ばれる突起があるのが特徴です。

宝篋印塔についての詳しい解説記事もありますので、合わせてお読みください。
宝篋印塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

その他、本多忠勝ゆかりの地

兵庫県姫路市の圓教寺の本多家廟屋

本多家は江戸時代に姫路城主となっていた経緯があり、姫路市の圓教寺に本多家を弔う廟が建てられています。5棟の廟屋の1つに、忠勝を供養するための五輪塔があります。

龍城神社

徳川家康が生まれ育った岡崎城の横にある龍城神社には、徳川家康を東照宮として祀るとともに、本多忠勝も合祀されています。

まとめ

本多忠勝は、このような数々の武功と、勇猛で忠義に厚い振る舞いから、敵味方問わず多くの賞賛を受けます。

忠勝といえば、愛槍「蜻蛉切」、名兜「鹿角脇立兜」が有名ですが、甲冑の上から大きな数珠を肩に提げていました。これは、自分が討った敵を弔う意味があったと言われています。戦の強さだけではなく、敵に対しても敬意を忘れない生き方が多くの武将の心を掴み、そして今日にまでその名を残しているのかもしれません。

生涯、徳川家に忠義を尽くし、困難にも退くことなく立ち向かっていった本多忠勝。その生き方に思いを馳せながら、当地を訪れてみてはいかがでしょうか。

浄土寺(袖野山 浄土寺)への交通アクセス

自動車

東名阪自動車道「桑名IC」より国道421号線経由、約10分

バス

JR桑名駅前より、桑名長島温泉線「寺町」バス停下車、徒歩約4分

良玄寺(金澤山良玄寺)への交通アクセス

自動車

首都圏中央連絡自動車道「市原鶴舞IC」から 国道297号経由 約20分

鉄道・バス

・JR茂原駅から「茂原駅南口」バス停より、大多喜車庫行「夷隅神社前」バス停下車、徒歩約2分
・いすみ鉄道「大多喜駅」から徒歩約15分