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辞世の句を読み解く ―徳川家康 後編―

供養・埋葬・風習コラム

辞世の句を読み解く ―徳川家康 後編―

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辞世の句を読み解く ―徳川家康 前編―

「先に行く あとに残るも 同じこと 連れてゆけぬを わかれぞと思う」
「嬉やと 再び醒めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」

2023年の大河ドラマの主役・江戸幕府を開いた天下人「徳川家康」は、この2つの辞世の句を残しています。
前編では、家康出生~人生最大の敗北「三方ヶ原の戦い」(家康30歳)までを紹介しました。今回は、その続きからみていきましょう。
時は1582年。「三方ヶ原の戦い」から10年後です。またしても家康に命の危機が迫ります。きっかけとなったのはあの有名な「本能寺の変」。その時、家康は?

徳川家康の生涯 ―その日、家康はオフだった―

「本能寺の変」といえば、当時破竹の勢いで勢力を広げる織田信長が、家臣である明智光秀の裏切りによって京都・本能寺にて没した事件です。この時、家康は信長に京都まで招かれたついでに近畿地方各地を観光していました。軍勢は連れてきておらず、30名程度の従者が付き添っていただけということなので、いわば“オフの日”だったといえます。本能寺の急報を受けたのは大阪・堺にいたときです。
家康は、きっと青ざめたことでしょう。信長と家康は同盟関係にありますので、光秀が自分も狙ってくることは想像に難くありません。しかも、本能寺と堺は60km程度しか離れていないので、1日もあれば刺客が到着してしまいます。もしかしたら、もう到着しているかもしれないのです。一方、味方は約30名だけ…。
こうして、後の世まで語り継がれる大脱出劇が始まりました。ちなみに、この本能寺の変は家康にとって相当ショックだったようで、一度は自刃を覚悟しています(家臣・本多忠勝に止められて未遂に終わりました)。そんな諦めの早い一面も、実はあるのです。

徳川家康の生涯 ―2度目の“人生最大のピンチ”―

領地である三河国(現在の静岡県)を目指して逃げる家康。最大の難所は「伊賀国(現在の北西部)」でした。この地域は中小の領主が共同統治していました(「惣国一揆」と呼ばれています)。家康にとって都合が悪いのは、1581年、この惣国一揆に対して、信長が徹底的に攻撃していたことです。同盟国である徳川も相当恨まれているはず…。「落ち武者狩り」にあう可能性があったのです。
結果的に家康はなんとかこの伊賀をくぐり抜け、無事三河国まで帰還します。危険地帯・伊賀を生き抜いた顛末は「神君伊賀越え」という逸話で語り継がれています。家康はその後、しばらくの間、関西で引きおこる信長の後継者争いの戦(山崎の戦い・賤ケ岳の戦い)を傍観していました。

徳川家康の生涯 ―小牧・長久手の戦い―

本能寺の変後、織田家臣内の権力争いを制したのは、豊臣秀吉でした。一方家康はこの間、関東の北条氏と同盟を結び、勢力を強めていきます。
1584年、織田信長の二男「織田信雄」と秀吉との間で戦が勃発します。家康は織田軍の援軍として参戦。現在の愛知県西部にあたる場所で起きたこの戦いは「小牧・長久手の戦い」と呼ばれています。徳川・織田軍約16,000人に対して、豊臣軍は約100,000人と大きな兵力差がありましたが、徳川・織田軍は戦を優位に進めます。
約8ヵ月に及んだ小牧・長久手の戦いは、豊臣秀吉から講和が持ちかけられ終結。1586年には天下人となった秀吉と縁戚関係を結び、家康はその配下となります。1590年には逆に元・同盟国であった北条氏を征伐するために、豊臣軍として参戦しました。
この頃家康は、領地である三河国を没収される代わりに、関東の8ヵ国を与えられます。徳川軍の力を削ぐための秀吉の作戦でしたが、家康は武田・北条氏の家臣を迎え入れ、さらに力を蓄えていきます。

徳川家康の生涯 ―ついに天下人に―

いよいよ家康が天下を取る時がやってきました。1598年に豊臣秀吉が没すると、1600年には、徳川家康 対 石田三成 の日本を2つの勢力に分けての大戦争が始まります。「関ヶ原の戦い」として有名なこの戦は、家康が指揮する東軍の勝利で終了しました。1603年には、朝廷から征夷大将軍に任命され、「江戸幕府」が誕生します。
このあたりの顛末は家康の晴れ舞台となります。大河ドラマを楽しみにお待ちください

徳川家康の生涯 ―そして江戸時代へ―

1605年、家康は将軍職を三男の「徳川秀忠」へと譲ります。これが一応の“現役引退”ですが、その後も陰ながらも政治の主導権を握り続けました。
後の1614~1615年には「大坂冬の陣・夏の陣」で豊臣家を完全に滅ぼし、ついに家康の天下掌握が完了したのでした。そして歴史は「江戸時代」へと続いていきます。
1616年4月17日、家康の生涯に幕が下ります。この時、75歳。当時としては異例の「長生き」でした。その理由は、出世してからも質素な食事と節制を続けていたからと噂されています。

天下人の残した句、その意味とは?

「嬉やと 再び醒めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」

現代の言葉に訳すと「もう目が覚めることはないかと思って眠ったが、再び目覚めることができて嬉しい。この世で見る夢は、夜明け前の空のようなものだ。さぁもうひと眠りしよう」といった意味になります。なんとものんびりした句ですが、本記事をここまで読んだあなたはまた違った意味を見出すかもしれません。たびたび死の危険に直面した家康だからこそ、目が覚めただけでも感謝できる、とてもポジティブな句にもとれます。「夜明け前の空」とは一体どんな比喩なのでしょうか。その想いは家康にしかわかりませんが、暗い夜空に朝日が差し込む様子から「希望」を感じさせます。「もうひと眠りしよう」なんて、「転生してまた新しい夢に挑戦しよう」という意味にさえ思えてきます。いずれにしろ、この句からは晩年を満足げに過ごす家康の姿が浮かんでくるようです。
耐え忍ぶ人生の果てに天下人の夢を成し遂げた家康。この句から感じる「感謝の心」「前向きさ」「希望」こそ、人生の成功の秘訣なのかもしれません。

前後編に渡って紹介した「辞世の句を読み解く ―徳川家康―」はこちらで完結となります。あなたもぜひご自身の辞世の句を作ってみてはいかがでしょうか。そこにはあなたの人生訓や人柄が自然と折りこまれてくるはずです。あなたの生きた証のひとつになるでしょう。

できあがった辞世の句は墓石に刻むこともできます。好きな言葉や「心」「絆」といった漢字一字を入れてみるのもよいでしょう。
墓石に刻む文字、言葉、漢字のおすすめを紹介します