お役立ちコラム お墓の色々
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【逆賊の幕臣】小栗忠順のお墓はどこにある?

2027年から放送予定の大河ドラマ「逆賊の幕臣」。天才肌のエリートで、激動の幕末に幕府の要人として大いに活躍した小栗忠順(おぐりただまさ)にスポットを当てた物語です。日本初の遣米使節になるなどの功績で勝海舟のライバルと言われたほどの人物ですが、維新志士に危険視された結果、斬首にされてしまいます。そして死後も逆賊の汚名を着させられ、その存在を歴史から葬り去られてしまいました。
果たして小栗忠順という人物の評価はいかなるものか、時代のうねりの中でどのような人生を送ったのか、なぜ斬首に至ったのか、そしてそのお墓はどこにあるのかについてご紹介していきたいと思います。
悪童から武芸の達人へ
1827(文政10)年、忠順(幼名:剛太郎)は江戸の神田駿河台(千代田区)で、新潟の名門旗本であった小栗忠高の息子として生まれます。幼少期は周囲からうつけ者扱いされるほど悪戯好きだったそうですが、8歳の時に小栗家の屋敷内にあった私塾・見山楼に入門し学問を修めたことを機に、威風堂々たる人物に成長していったそうです。また、勉学のみならず武芸にも才能を発揮した忠順は、幕末の三剣士の一人と称される島田虎之助から剣術を学び、直心影流免許皆伝を許されるほどの腕前も持ち合わせていました。
その他にも砲術や兵学を修めた忠順ですが、江戸幕府の武芸訓練機関「講武所」で砲術を学んでいた時、同門であった結城啓之助(ゆうきけいのすけ)から開国論を聞き、それ以降開国論に傾斜していきます。
その後1843(天保14)年17歳の時に江戸城へ登城。城内でその才能を注目された忠順は、若くして両御番(徳川将軍の親衛隊)に抜擢されますが、率直な物言いを疎まれ幾度か役職を変えられてしまいます。しかしその度に忠順の才能を惜しむ声が上がり、役職を戻されるということを繰り返します。
それからおよそ10年後の1853(嘉永6)年、アメリカ合衆国の司令長官であるペリーが浦賀に来航。忠順は詰警備役(来航する異国船に対処する役職)に任命されます。しかし当時の日本は、戦国時代からの関船(中型の軍船)しか所持していなかったため、アメリカと対等の交渉をすることはできず、アメリカからの開国要求を受け入れることしかできませんでした。この出来事があって以来忠順は、造船所を作り大型の軍船を所有するという発想を持ったと言われています。
遣米使節の監察としてアメリカへ
1860(安政7)年に新見正興率いる遣米使節の目付(監察)としてポーハタン号で渡米。2か月の船旅の後、忠順はアメリカのサンフランシスコへ到着します。正興をはじめ他の面々が外国人に慣れていない中で、詰警備役としての交渉などで外国人と接する機会が多かったことから、外国人慣れしていた忠順は、使節団の代表と勘違いされ、行く先々で取材を受けたそうです。他にも機転が利き交渉慣れした忠順には「目付とはスパイのことだ」とスパイの嫌疑をかけられた際に「目付というのはケンソル(仏:監察官)だ」と主張して切り抜けた、といったエピソードも残っています。
忠順はワシントンの海軍工廠を見学した際、日米両国間の製鉄や金属加工の技術力の差に驚愕。その衝撃を忘れず、今後の糧とするために1本のネジを日本へ持ち帰りました。
またフィラデルフィアでは通貨交換比率(為替レート)見直しの交渉を行いました。この使節団の隠れた目的の一つが実は通貨交換比率の交渉で、その特命の担当が忠順でした。1858(安政5)年ハリスの働きかけによって結ばれた日米修好通商条約で同じ種類の貨幣を同じ重さで交換する「同種同量交換の原則」が盛り込まれます。幕府は反対しますが米国側に押し切られる形で承諾。結果として1ドル=一分銀3枚という日本にとって非常に不利な交換比率となってしまいます。つまり日本の貨幣価値が1/3になってしまったのです。つまり、貿易をすればするほど日本が損をする状態です。このような現状であることを国務長官に申し出、約半月にわたってアメリカ政府に「洋銀と一分銀の交換は禁止し、同一価値であるとフィラデルフィア造幣局に確認させた90セント=1分として一分金との交換を行う」ことを主張しました。アメリカ側は主張の正当性については理解をしめしたものの、合意には至ることはありませんでした。しかし、日本人が10進法の天秤や算盤で素早く計算したことなどがアメリカの新聞で紹介されたことで、日本人の評価を上げたと言われています。
その後忠順はナイアガラ号という船に乗り換え大西洋を渡り東京へ帰着します。帰国後はこの功により禄高を200石加増され、忠順は外国奉行に就任することとなります。
1861(文久元)年、ロシア帝国の軍艦が対馬を占領するというポサドニック号事件が発生。同年5月に、外国奉行の忠順は咸臨丸で現場の対馬に派遣され、3回に渡りロシア帝国の艦長と会談を行います。2回目の会談で忠順は「ロシア兵の無断上陸は条約違反である」として抗議をおこない、また3回目の会談では藩主との謁見を求める艦長に対し「謁見はできない」と回答。艦長は「話が違う」として猛抗議しましたが、対する忠順は「私を射殺して構わない」とまで言って押し切ったとされています。江戸へと戻った忠順は、老中に「対馬を直轄領とする」「事件の折衝は正式な外交形式で行う」「国際世論に訴え、場合によってはイギリス海軍の協力を得る」などを提言しますが、すべて受け入れられず、それをきっかけに7月には外国奉行を辞めてしまいます。
結局その1か月後にはイギリスの圧力でポサドニック号は対馬から撤退することになります。
財政立て直しのため製鉄所を建築
1862(文久2)年、忠順は勘定奉行に就任します。この時幕府は、海軍力強化のためという名目で44隻もの艦船を諸外国から購入し333万6千ドル(現在の価値でおよそ1876億円)の負債を抱えていました。この状況を打破するため、製鉄所を建て軍事力強化をも図るという一石二鳥を狙った計画を立案した忠順は、1863(文久3)年、正式に製鉄所の建設案を幕府に提出します。幕府首脳部から反発を受けますが14代将軍の徳川家茂はこれを承認し、実地検分の結果建設予定地は横須賀に決定します。
1865(慶応元)年、忠順の進言でフランスの技師であるレオンス・ヴェルニーを首長とした「横須賀製鉄所」が開設。この時に月給制や残業手当といった経営学・人事労務管理の基礎が日本に導入されたと言われています。忠順は兵器と装備品の国産化を推進し更なる幕府軍の軍事力強化のために尽力しました。加えて、忠順は陸軍の軍備も増強するため、小銃・大砲・弾薬等の兵器・装備品の国産化を推進。武田斐三郎、友平栄などの気鋭の技術者を関口製造所の責任者として新たに登用します。また、ベルギーから弾薬火薬製造機械を購入し、滝野川反射炉の一角に設置、日本初の西洋式火薬工場を建設します。
そして、忠順はさらなる軍事力強化のために幕府陸軍をフランス軍人に指導させることを計画し、1867(慶応2)年にフランス軍事顧問団が到着すると翌日から訓練を開始。同じころフランスに大砲90門、小銃25,000丁、陸軍将兵用27,000人分の軍服など大量の兵器・装備品を発注します。
経済面では関税率改訂の交渉に尽力。1867(慶応3)年に「兵庫商社」という株式会社の設立案を提出し、大阪の商人から100万両の出資を受けます。このように忠順の財政や経済、及び軍事上の施策は目を見張るものがあり、その手腕については倒幕派も認めざるを得なかったと言われています。
大政奉還
1867(慶応3)年、15代将軍徳川慶喜が大政奉還し、翌1868(慶応4)年に鳥羽・伏見の戦いが始まり戊辰戦争が勃発します。慶喜が京都から江戸へと帰還した後、江戸城で開かれた会議で忠順は榎本武揚らと徹底抗戦を主張します。この時忠順は「薩長軍が箱根を降りてきたところを迎撃し、同時に旧幕府艦隊を駿河湾に突入させ、艦砲射撃で後続の補給部隊を壊滅させた上で、孤立した薩長軍を殲滅する」という策を提案。この時旧幕府側は鳥羽・伏見の戦いに参加していなかった多数の予備兵力を保有していましたが、慶喜はこの作戦を退けて勝海舟の恭順論(謝罪の態度を示しつつ、攻撃されれば戦うという方針)を採用。しかし戦況は日ごとに悪化、1868年 (慶応4)年4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じた忠順は自身の養子をその証人として差し出しますが、反逆の疑いがあるとされ逮捕。同4月6日潜伏先であった烏川の水沼河原(群馬県高崎市倉渕町)にて斬首となります。享年42歳でした。
忠順の命により、申し開きをするために官軍のもとへ出向いた養子の又一も、忠順が斬首になった翌日の4月7日に高崎城内で斬首となりました。
小栗忠順のお墓はどこにある?
忠順のお墓は、斬首となった群馬県高崎市倉渕町にある東善寺の境内にあります。観音山小栗邸跡、小栗上野介忠順終焉の地と共に群馬県の指定史跡になっています。
1mほどの高さのお墓で、墓石には「陽嘉院殿法岳淨性居士」の文字が刻まれています。右側に「小栗上野介忠順墓」と書かれた群馬県の重要文化財を示す標柱が立っています。左隣には養子である又一(諱は忠道)のお墓もあります。忠順と同じ形の墓石で「本教院殿樹山貞松居士」の文字が刻まれています
【小栗忠順の墓】群馬県高崎市倉渕町権田
まとめ
忠順は斬首になる直前、家臣が改めて無罪を主張しようと声を荒げると、「お静かに」と言い放ち「もうこうなった以上、未練を残すのはやめよう」と諭し、「何か言い残すことはないか」と聞かれた際には、笑いながら「私自身には何もないが、母と妻と息子の許婚を逃がした。どうかこれら婦女子にはぜひ寛大な処置を願いたい」と頼んだといいます。
最後は明治政府によって斬首となった小栗忠順ですが、幼少の頃見山楼の同門には吉田松陰や高杉晋作など、のちの維新志士たちも学んでいたといいます。この縁が生かされていれば、悲運の最期をとげることはなかったかもしれません。明治維新へつながる近代化の礎を築き、のちに日露戦争で日本が勝利した際、海軍大将東郷平八郎に「小栗忠順が作った横須賀造船所があったおかげで勝てた」と言わしめた忠順。そのお墓に参って忠順の生きた時代に思いをはせれば「明治の父」とよばれるほどの才能を持った小栗忠順の強い信念や想いを感じとる事ができるかも知れません。
今でも受け継がれる想いや絆があふれる場所お墓。一緒に訪れた人との語らいの時間にもなるのがお墓参りです。教科書や作品でしか知らない有名人・著名人ですが、お墓を巡ることで、実際にその人が生きていた時代を感じることができるでしょう。
マナーに十分に注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょうか。