お役立ちコラム お墓の色々
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横浜中華街の関帝廟とは?三国志でおなじみの関羽にちなんだ寺院を解説

日々たくさんの観光客でにぎわう横浜中華街。その中でも際立った存在感を放つ、関帝廟(かんていびょう)という建物があります。「関帝廟って何?」「関帝って誰?」と思うかもしれませんが、関帝は三国志で人気の武将、関羽(かんう)の神様としての名前です。
今回は横浜中華街にある関帝廟とは何か、歴史やお参りの仕方、祀られている関羽はどんな人物だったのかについて解説します。
関帝廟とは?
三国志に登場する武将、関羽を神様として祀る寺院です。
関羽は中国で生まれた独自の宗教、道教において神様として祀られています。道教の神様としての正式な名前は、三界伏魔大帝神威遠鎮天尊関聖帝君(さんがいふくまたいていしんいえんちんてんそんかんせいていくん)。人々の間では、関聖帝君(かんせいていくん)や関帝(かんてい)という名前で親しまれており、商売繁盛、入試合格、家内安全などさまざまなご利益のある神様として、中国や台湾で多くの人に信仰されています。
廟は、先祖の霊や神様を祀っている建物という意味です。
関帝廟は世界各地のチャイナタウン(外国で暮らす中国人が集まって作った拠点となる街)にあり、日本では横浜以外に神戸、大阪などにもあります。
横浜中華街の関帝廟には、関帝聖君以外に以下の神様も祀られています。
- 道教における最高神で世界の平和を守る玉皇上帝(ぎょくこうじょうてい)
- 健康や除災のご利益がある大地の女神・地母娘娘(ちぼにゃんにゃん)
- 安全や健康を願う仏教の菩薩・観音菩薩(かんのんぼさつ)
- 商人を守り金運のご利益がある福徳正神(ふくとくせいしん)
- 関帝廟の守護神で生前の関羽に仕えていた周蒼将軍(しゅうそうしょうぐん)
- 関帝廟の守護神で生前は関羽の養子だった関平将軍(かんぺいしょうぐん)
関帝聖君と合わせて合計7柱の神様が、横浜中華街を見守っています。
横浜中華街にある関帝廟の歴史
江戸時代末期の1859年、ペリーの来航をきっかけに横浜は開港されました。それに合わせてたくさんの中国人が横浜に移り住みます。横浜での関帝廟の始まりは諸説ありますが、1862年、中華街の裏通りに建てられた、関聖帝君の木像を祀る小さな祠が現在の関帝廟の前身になったという話が有名です。
1871年には華僑(外国に住む中国人)たちの寄付で、本格的な関帝廟が作られました。その後、改築によってレンガ造りの塀がある立派な関帝廟になります。
1923年、関東大震災で関帝廟は倒壊してしまいましたが、1925年に再建されます。その後も関帝廟は1945年の横浜大空襲や、1986年に起きた原因不明の火災によって焼失しましたが、その度に再建されてきました。
現在の豪華絢爛な関帝廟は4代目で、1990年に完成したものです。必要な資材のほとんどを中国から取り寄せ、中国出身の職人たちが作り上げました。関帝廟の見どころの1つに、石段の横に置かれた、龍が彫られた巨大な石があります。北京から輸入された4.5トンもの雲龍石の1枚岩を彫り出したもので、美しく力強い龍の姿にきっと息を呑むことでしょう。
関羽とはどんな人?
2世紀から3世紀始め頃の中国で、蜀(しょく)の武将として活躍しました。
人気が出たのは14世紀ごろに書かれた小説、三国志演義がきっかけだと言われています。現代の日本でも漫画やゲームのキャラクターとして登場するなど、高い人気を誇ります。
関羽と言えば、真っ赤な顔と2m以上あったとも言われる大きな体を持ち、薙刀のような形の刀、青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)で戦う姿が一般的なイメージです。また長いひげがトレードマークで、美髯公(びぜんこう)という通称もあります。
関羽の生涯にはさまざまな説がありますが、後漢の時代の終わり頃に生まれ、もともとは塩を売る商人をしていたと伝えられています。のちに故郷を離れ、関羽と同じく三国志演義の中心的人物である劉備(りゅうび)と張飛(ちょうひ)に出会い、3人は義兄弟の誓いを交わしました。
「桃園の誓い」として有名なこのシーンで、3人は「生まれた日は違っても死ぬときは同じ。人々を助け、国のために尽くし戦おう」と誓い、それ以来力を合わせてさまざまな戦いに臨みます。
後漢が滅びると、3人は蜀という国を作り、関羽の義理の兄・劉備が領主を務めました。関羽と、義理の弟・張飛は劉備を助け、ともに蜀を発展させていきます。しかし、魏(ぎ)を建国し三兄弟のライバル的な存在として描かれることの多い曹操(そうそう)と、呉(ご)を興した孫権(そんけん)が関羽たちの前に立ちはだかります。関羽は戦いの中で魏と呉の軍に挟み撃ちにされ、最後は呉軍によって捕らえられ処刑されてしまいます。
生前、劉備への厚い忠義を持つだけでなく、弱い立場の人々を守り、敵に対しても誠意を持って接していた関羽は、死後も人々から大切にされ、後の時代には神様として敬われるようになりました。
商売をする上で、信義や相手との信頼関係は大切なものです。関羽は信義を守り礼節を尊んだだけではなく、そろばんを発明したとも言われており、現在では商売の神様として定着し、横浜など外国で商売をする華僑の人々の心のよりどころとなっています。
関帝廟のお参りの仕方
関帝廟では、日本の神社やお寺とは異なる、中国式のやり方で参拝します。中国でもさまざまなお参りの作法がありますが、ここでは代表的なものを紹介します。
- 参拝前に、受付で線香を購入します。金紙(神様へお供えするお金に相当するもの)もお供えする場合は、一緒に購入しましょう。
- 線香に火をつけたら、自分の手であおいで火を消します。仏教と同様に、息を吹きかけて消すのはマナー違反となりますので、避けてください。
- 本殿の中で線香や火を使うのは禁止されているので、本殿に入る前に、それぞれの神様に用意された香炉に、願い事をしながら3回お辞儀をして玉皇上帝、関聖帝君、地母娘娘、観音菩薩、福徳正神の順番に線香を供えます。
- 本殿では最初に最高神である玉皇上帝にお参りします。玉皇上帝はご神体がないため南の正門を向いて膝をつき、3回お辞儀をしたら、心のなかで自分の住所と名前、生年月日と願い事を言い、一礼しましょう。願い事を叶えてもらうためには自分の住所などをはっきり告げることが大切だとされています。
- ほかの神様の前でも同様の手順を行い、関聖帝君、地母娘娘、観音菩薩、福徳正神とお参りしていきます。
- 金紙は本殿の供物台にお供えしたあと、入り口にある炉でお焚き上げを行います。
参拝方法でわからないことがあるときは、関帝廟のスタッフに聞いてみましょう。
神様になった日本の偉人にも注目してみては
関帝廟には三国時代に活躍した武将の関羽が祀られ、商売の神様として中国や台湾を中心に多くの人に信仰されています。
日本の神道にも、生きていた人が死後に神様(氏神)になり、子孫や地域を見守っているという考え方があることをご存知でしょうか。
例えば、徳川幕府を開いたことでおなじみの徳川家康は、死後は東照大権現(とうしょうだいごんげん)という神様として、日光東照宮を始めとする全国各地の東照宮に祀られています。
東照大権現となった徳川家康のお墓や祀られている場所の詳細は、下記をご覧ください。
農民から天下人まで出世した豊臣秀吉は、死後に豊国大明神(とよくにだいみょうじん)という名前の神様になり、各地にある豊国神社(とよくにじんじゃ、ほうこくじんじゃ)に祀られました。
詳細は下記のページで解説しています。
◆『どうする家康』でも注目!天下統一を果たした豊臣秀吉のお墓
ほかにも神様になった日本の偉人はたくさんいます。
この機会に、地元にどんな偉人が氏神様として祀られているか調べてみてはいかがでしょうか。そして実際に参拝やお墓参りに行ってみると、歴史をより身近なものとして感じられますよ。
偉人のお墓参りに行くときのマナーについては、下記のページをご覧ください。