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『どうする家康』でも注目!天下統一を果たした豊臣秀吉のお墓

墓地・墓石コラム

『どうする家康』でも注目!天下統一を果たした豊臣秀吉のお墓

2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、松本潤さん演じる徳川家康が、駿河国・遠江国(現在の静岡県)の守護大名・今川義元(演:野村萬斎さん)のもとで人質としての幼少時代を過ごし、弱小国と言われた三河国(現在の愛知県東半部)の主となったのち、天下統一を成し遂げていくまでの波乱の生涯が描かれます。

家康の生涯に、ライバルのような存在として大きな影響を及ぼす武将が、豊臣秀吉です。秀吉は、低い身分の出身にもかかわらず、信長の後を継いで天下統一を果たし、織田信長(演:岡田准一さん)、徳川家康と並んで戦国三英傑と称されており、ドラマの中では、知略に優れ、人たらしでありながら不気味なほどの野心を覗かせる、ムロツヨシさんの強烈な演技が話題を呼んでいます。

豊臣秀吉の生涯

織田信長のもとで武功を上げる

尾張国(現在の愛知県)の百姓の家に生まれたとされる秀吉は、15歳で武家奉公を志し、今川氏の家臣である松下氏に仕えたのち、天文23年(1554年)頃からに織田信長の奉公人として仕えるようになります。冬の寒い日に、信長の草履を懐で温めておいたことで信長が喜んだという逸話はあまりにも有名です。

その後、美濃(現在の岐阜県)攻略の際、川の上流から木材を流し下流で築城するという奇策で、重要な拠点となる砦を一晩で築いたとされる「墨俣一夜城」をはじめ、「観音寺城の戦い」「金ヶ崎の退き口」などで数々の功績上げ、大名へと出世。元亀3年(1572年)に「木下藤吉郎」から「羽柴秀吉」に改名した後も、「長篠の戦い」などで力を発揮。中国(中国地方)平定では知略を駆使し、得意の水責めや兵糧攻めなどの戦術で難局を切り抜けていきました。

秀吉の人生の転機となった本能寺の変

天正10年(1582年)に起きた本能寺の変は、秀吉にとっても大きな転機となりました。織田信長が討たれたことを知った秀吉は、すぐさま謀反を起こした明智光秀を討ち、その勢いで、織田信長の後継者をめぐる争いにも勝利。織田家筆頭の柴田勝家(演:吉原光夫さん)らが自害したことで、織田家の実質的な権力を握ることになります。

更に、信長の次男・織田信雄(のぶかつ/演:浜野謙太さん)と家康の連合軍を相手に戦った「小牧・長久手の戦い」でも、開戦時の圧倒的優勢から家康得意の情報戦により徐々に不利な戦況に立たされながらも、優れた調略により、有利な条件で和議を結び政権を握ることに成功しました。

関白就任・天下統一へ

着々と天下統一を進める中、成人した天皇を助けて政治を行う役職である関白の座をめぐる公家同士の対立に、仲介役として介入したことをきっかけに、武士として初めて関白となり、「豊臣」の姓を賜ります。更に朝廷の最高官職である太政大臣にまで上り詰め、九州、奥州(現在の東北地方)を平定。同時に、太閤検地や刀狩りなどの政策を進め、茶の湯や芸能など文化の発展にも取り組みました。

更なる国の拡大を目指した秀吉は、2度にわたる朝鮮出兵を行いますが失敗。また、甥の秀次を養子として関白の座を譲り「太閤(たいこう)」と呼ばれるようになるも、秀次に謀反の疑いが持ち上がり切腹となるなど、豊臣家は弱体化していくこととなりました。

慶長5年(1598年)秀吉は病にかかり、死が近いことを悟ったのか、側近に遺言書を書き、家康には秀吉の三男・秀頼の後見人になるように依頼したと伝えられています。その年の8月18日、秀吉は享年62歳でその生涯を閉じました。

秀吉の墓「豊国廟」と「豊国神社」

秀吉は、その遺命により京都東山の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)山頂に埋葬され、墳上には霊廟が、麓の「太閤坦(たいこうだいら)」と呼ばれる場所には社殿が健立されました。しかしこれらは、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣にて豊臣家が滅亡すると、徳川家康によって廃祀されることとなってしまいます。一部残された建物も、修理が禁じられたためにそのまま朽ちていくこととなりました。
明治に入り、共に再興されることとなり建てられたのが、現在の「豊国廟(ほうこくびょう)」と「豊国神社(とよくにじんじゃ)」です。

豊国廟(ほうこくびょう)の五輪等(京都市東山区今熊野北日吉町

豊国廟(ほうこくびょう)の五輪等(京都市東山区今熊野北日吉町)

豊国廟は、豊国神社の境外地で、秀吉が埋葬されたとされる阿弥陀ヶ峰にある、秀吉の墓所です。家康による廃祀以降300年ほど手付かずにされてきましたが、豊国神社の再興に合わせて霊廟の整備も行われることとなり、豊太閤三百年祭を翌年に控えた明治30年(1897年)には、山頂に高さ10mという巨大な五輪塔が建てられました。

京都国立博物館の東側、東山七条の交差点から見える「豊国廟参道」の石標を目印に、智積院と妙法院の間の女坂を500mほど登って行くと、突き当たりに入り口となる鳥居が見えてきます。
鳥居をくぐると広場の先に拝殿がありますが、このあたりの平地が、かつて廟と社殿が建てられていたとされる太閤坦です。(現在は、拝殿に向かって左側(北側)の一角に、秀吉の孫の豊臣国松と秀吉の側室・松の丸殿(京極殿)の供養塔が建てられています。)拝殿の先に続く500段近い石段を登り切ったところに、秀吉の供養塔である石造の五輪塔が建てられています。往復で約30分ほどかかります。

基礎も含めたそれぞれの部分に高さがあり、存在感のあるこの五輪等は、橿原神宮や平安神宮を手がけた建築家・伊東忠太の設計によって造られました。

五輪塔に込められた意味や特徴についてはこちらの記事で詳しく解説しています。
五輪塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

再興の工事の際、土中から直径1mほどの素焼きの壺に入った、秀吉の遺骸とおぼしきものが発見されました。風化が進んでいたため破損してしまいましたが、再度丁寧に催事埋葬されたとのことです。

豊國神社(豊国神社/とよくにじんじゃ)(京都府京都市東山区茶屋町)

豊国神社は、秀吉が「豊国大明神」として祀られている神社です。
秀吉が亡くなった翌年の慶長4年(1599年)、秀吉が埋葬された阿弥陀ヶ峯の中腹に壮大壮麗な社殿が創建され、「豊国社」と命名されました。家康によって配祀・取りつぶしとなった後、明治元年(1868年)、明治天皇の勅命により再興が決定。明治13年(1880年)には方広寺大仏殿跡地である現在の場所に「豊国神社」が建てられました。

神社の正面には、伏見城の遺構と伝えられ、西本願寺・大徳寺の門と共に国宝三唐門に数えられる、国宝「大唐門/豊国神社唐門(ほうこくじんじゃからもん)」が堂々とそびえ、境内には、秀吉の正室である北政所(きたのまんどころ)を祀る貞照神社や、秀吉の遺品などを所蔵する宝物館があります。宝物館には、秀吉の七回忌に行われた盛大な祭礼の様子が描かれた重要文化財「豊国祭礼図屏風」なども収蔵されています。

また、宝物館の奥には、豊国神社が廃祀された際、家康が秀吉の神号を剥奪して戒名を与えたのち、秀吉の霊を移したとされる、「太閤馬塚」と呼ばれた五輪塔が残されています。

豊国神社は、秀吉の居城があった大阪(大阪城公園)や滋賀県長浜市、出身地とされる名古屋など、日本各地の秀吉に縁のある地に建てられています。

その他の豊臣秀吉ゆかりの地

俊龍寺(山口県山口市天花)

俊龍寺(しゅんりゅうじ)には、秀吉から、家康と共に死後の政務を任された五大老の1人、毛利輝元が家臣に造らせた秀吉の供養塔とされる五輪塔が残されています。献殊院とされていた寺の名前も、秀吉の神号「豊国大明神」から「豊国山」、法名「国泰寺殿雲山俊龍大居士」から「俊龍寺」としました。

不動院(広島県広島市東区)・国泰寺(広島県広島市西区)

秀吉の側近であった、臨済宗の僧侶・安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)が秀吉の遺骨を持ち帰り、広島市内の不動院・国泰寺に遺髪塚を作ったと伝えられており、それぞれの寺院の墓所に、五輪塔が残されています。

日光東照宮(栃木県日光市)

ここは、徳川家康が祀られていることで知られていますが、秀吉も相殿として祀られています。理由はわかっていませんが、一説には、元々祀られていた山王権現が、秀吉と縁の深い日吉大社の祭神であることと関わりがあるとも言われています。

まとめ

低い身分の生まれながら、知略・調略を駆使した優れた軍事・政治手腕と、「人たらし」と称されるほどの人心掌握能力で、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。
ドラマでは、主人公である家康と敵対する悪役として描かれていますが、「太閤様」と呼ばれ、墓所がなくなっても忘れられることなく人々に愛されてきたのは、国や民に対する大きな貢献をした秀吉への敬意と供養の心の表れなのかもしれません。

ぜひ現地を訪れ、秀吉の激動の人生に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

秀吉と関係の深い戦国武将のお墓についても紹介していますので、ぜひ合わせてお読みください。
偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜織田信長編
偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜徳川家康編
『どうする家康』でも注目!本能寺の変で討たれた信長の墓について
『どうする家康』福井の地で生涯を終えた夫婦、お市の方と柴田勝家のお墓

豊国廟へのアクセス

(入り口の鳥居までのアクセス。山頂の五輪塔までは往復で徒歩約30分。)

自動車

名神高速「京都南IC」「京都東IC」より約15分

鉄道・バス

京阪電車「七条駅」下車 徒歩約21分
市バス「東山七条」バス停下車 徒歩約8分

豊国神社へのアクセス

自動車

名神高速「京都南IC」「京都東IC」より約15分

鉄道・バス

京阪電車「七条駅」下車 徒歩約10分
市バス「博物館三十三間堂前」バス停下車 徒歩約5分