お役立ちコラム お墓の色々
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- 供養をきわめる -
【花物語の作者】吉屋信子のお墓はどこにある?

大正から昭和にかけて活躍した作家・吉屋信子(よしや のぶこ)という女性をご存知でしょうか。
信子は『花物語』『安宅家の人々』『徳川の夫人たち』など、時代の変化の中で女性の心と生き方を繊細に描き続け、同時代に活躍した「放浪記」の作者・林芙美子(はやし ふみこ)と並び称される、近代日本文学を代表する二大女流作家のひとりです。
少女たちの淡い友情や、社会の枠の中で自立を模索する女性の姿を描いた筆致は、今もなお新鮮な感動を呼び起こします。
また、信子の作品はしばしば映画化され、『花物語』『鬼火』『安宅家の人々』などには、高峰秀子や田中絹代といった昭和の銀幕スターたちが出演し、戦後の映画界においても一世を風靡し、文学の世界を広く伝えました。
女性が文学界で活躍することが難しかった時代、信子は“女性の生き方”そのものを作品として提示し続けました。
華やかでありながらどこか凛としたその文体には、信子自身の強さと孤独、そして美への揺るぎない信念を感じる方も少ないのではないでしょうか。
今回は、そんな信子の生涯と作品、そしてそのお墓がどこにあるかについてご紹介します。
信子誕生
1896(明治20)年、8人兄弟の中でただ一人の娘として新潟県に生まれた信子は、警察署長であった父の転勤に伴い、栃木県で少女時代を過ごしました。
家長である父は、当時の社会に根強く残っていた男尊女卑の価値観を持っており、信子はその価値観に反発を感じながら成長したといわれています。
8歳のころから児童雑誌や文学書を愛読し、作文を担任教師に褒められたことをきっかけに、少女雑誌への投稿を始めました。また、幼少期から通っていたキリスト教会での教えや体験は、のちに彼女の文学に深い精神的基盤を与えることになりました。
栃木高等女学校に入学した吉屋信子は、在学中に教育者・新渡戸稲造の講演を聴く機会を得ました。
その際、新渡戸が語った「良妻賢母となるよりも、まず一人のよい人間になりなさい。教育とは、まずよき人間になるために学ぶことです」という言葉に、深い感銘を受けたといわれています。
この教えは、女性の生き方が限られていた時代において、信子にとって大きな励ましであり、のちの文学的信念の礎となりました。
14歳のとき、信子は雑誌『少女界』が募集した懸賞小説に応募し、見事一等に選ばれます。
幼少期から親しんできた読書と文章への情熱が結実した瞬間でした。
この経験をきっかけに、作家として生きるという意識が芽生え、創作への意欲を一層強めていきます。
高校を卒業した信子は進学を望むも、当時の価値観から両親の理解は得られませんでした。
1916年(大正5)年、それでも文学への情熱を諦められきれないまま20歳になった信子は、東京帝国大学に在学していた兄を頼って上京しました。
新しい環境の中で執筆活動を続け、やがて少女雑誌『少女画報』において、後に映画化もされる代表作『花物語』の連載を開始します。
繊細な感情描写と清らかな友情を主題としたこの作品は、当時の少女たちの心をとらえ、連載は10年以上にわたり続く長寿企画となりました。
単行本として刊行された『花物語』はベストセラーとなり、信子は一躍、時代を代表する人気作家としてその名を確立していきます。
信子の創作活動
『花物語』の成功を機に、信子は次々と作品を発表し、少女文学の第一人者としての地位を確立していきます。
その後は『地の果てまで』や『安宅家の人々』など、より社会的な題材を扱った長編小説にも挑戦し、作風の幅を広げました。
女性の友情や自立、家族関係など、常に「人としてどう生きるか」というテーマを根底に据えた作品群は、読者の共感を集め、信子の文学的評価を高めていきます。戦時中には特派員として中国、インドネシア、ベトナム等に派遣され従軍記事を発表、戦後は再び創作活動を活発に行い、文化功労者としての地位を築きました。
また、社会奉仕活動にも力を注ぎ、養子を迎えて家庭を築くなど、人生の後半も誠実で穏やかな日々を送りました。
昭和初期以降、信子は鎌倉に居を構え、その地を終の棲家としました。静かな海と緑に囲まれた環境は、信子の創作の場として、大きな安らぎを与えたといわれています。
自宅の庭には花々が咲き誇り、彼女の代表作『花物語』を思わせるような柔らかな雰囲気に満ちていたそうです。
吉屋信子のお墓はどこにある?
1973(昭和48)年、ガンのため、信子は鎌倉の恵風園病院でその生涯を閉じました。享年77歳でした。没後、その功績が讃えられ、勲三等瑞宝章が追贈されました。
信子は現在、神奈川県鎌倉市にある、鎌倉のシンボルともなっている大仏で有名な高徳院清浄泉寺の一角にて眠っています。
墓碑は黒色の大きく薄い台石の上に、ピンク色のさくら御影で作られた、上部が丸みを帯びた薄く、背の低い石碑が設置され、左手に墓誌、右手に墓灯籠という簡素ながら品格のある特徴的な造りとなっています。
墓碑の前には、墓碑と同じピンク色のさくら御影で造られた小ぶりな香炉が台石の上に置かれ、台石の手前には花立が左右対称に据えられており、参拝者が静かに手を合わせられるよう配されています。
墓誌には、信子とともに養女であり晩年の伴侶でもあった吉屋千代の名が刻まれています。二人が生涯をともに過ごした証として、その石面には穏やかな気配が宿っています。
この控えめで清らかな墓所には、彼女が生涯にわたり描き続けた「品位」「やさしさ」「自由への憧れ」といった精神が、今も静かに息づいているようです。
【鎌倉大仏殿高徳院】 神奈川県鎌倉市長谷4丁目2−28
また、南東に1kmほど行ったところには、信子の遺言で鎌倉に寄付された土地に建てられた「吉屋信子記念館」もございます。年に数回一般公開されているようですので、タイミングを合わせて訪れてみてはいかがでしょう。
【吉屋信子記念館(旧吉屋信子邸)】 神奈川県鎌倉市長谷1丁目3−6
まとめ
吉屋信子は、大正から昭和にかけて女性文学の新たな地平を切り開いた作家でした。少女たちの繊細な感情や、社会の中で自らの生き方を探し続ける女性の姿を描いたその作品群は、時代を超えて多くの人々に読み継がれています。さらに『花物語』『安宅家の人々』をはじめとする多くの作品が映画化され、文学の魅力を映像として後世に伝え続けています。
信子が生涯をかけて追い求めた「人としての美しさ」と「自由な精神」は、今もこの地に静かに生き続けているのです。
信子のお墓を訪れると、信子が生涯を通じて求めた「誠実に生きること」「人を思いやること」の大切さが、その熱い思いを少しでも感じ取ることができるかもしれません。
お墓は受け継がれる想いや絆があふれ、過去の偉人が遺したその功績までをも感じ取れる場所。そして、一緒に訪れた人との語らいの時間をもたらしてくれるのがお墓参りです。作品や教科書でしか知ることのない有名人・著名人ですが、実際にお墓を巡ることで、その人が生きていた時代を感じることができるのではないでしょうか。
マナーに十分に注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょう。
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