お役立ちコラム お墓の色々
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【三国志】呉の初代皇帝・孫権のお墓はどこにある?

三国志の世界において、父と兄から受け継いだ江東の地を守り抜き、激動の乱世を生き延びて一国の君主として君臨し続けた人物、孫権仲謀(そんけんちゅうぼう)。名門の後継として若くして重責を背負いながらも、周瑜(しゅうゆ)や魯粛(ろしゅく)、呂蒙(りょもう)といった優れた人材を見出し、その力を引き出すことで呉という国家を築き上げました。
三国志では卓越した武勇や圧倒的な知略が語られがちですが、孫権の真価は「人を信じ、任せる力」にあったといえるのではないでしょうか。
勝者の功績が華々しく語られる歴史の中で、なぜ孫権は「江東の虎」「第三の英傑」「堅実な守城の君主」などと称され、今もなお語り継がれるのでしょうか。
今回は、三国志の中でも独自の存在感を放つ孫権の生涯と功績、そしてそのお墓がどこにあるのかをご紹介します。
※一部「三国志演義」からの脚色を含む描写があります。ご了承ください。
孫権誕生
孫権は、後漢末期の名将・孫堅(そんけん)の次男として生まれました。父・孫堅は「江東の虎」と称される勇猛な武将で、暴君として悪名の高い董卓の討伐などで名を挙げた人物です。しかし、孫堅は若くして戦死してしまいます。
その後、家督を継いだ兄・孫策は、若き英雄として頭角を現し、江東一帯を次々と制圧していきました。苛烈な戦いの中で勢力を拡大し、孫家の基盤を築き上げたその姿は、まさに乱世を駆ける覇者そのものでした。しかし、その勢いは長くは続かず、孫策は狩りの最中に許貢(きょこう:孫策に殺害された人物)の残党の襲撃を受け、その傷がもととなり、わずか26歳で亡くなったと伝えられています。孫策は死の際で後継ぎに孫権を指名、わずか19歳という若さで家督を継ぐことになります。
荊州の伏龍
孫権が当主となった当初、その立場は決して安定したものではありませんでした。父・孫堅、兄・孫策という強烈なカリスマを相次いで失った直後であり、江東の地はまだ統治が固まりきっていない不安定な状態にありました。家臣の中には孫策の代から仕える歴戦の将も多く、若き当主に対して内心では力量を測りかねる者や、将来に不安を抱く者も少なくなかったといわれています。
さらに当時の江東は、外には北方から勢力を伸ばす曹操、内には独立性の強い豪族たちを抱える、極めて繊細なバランスの上に成り立っていました。ひとつ判断を誤れば、内外から一気に崩れかねない状況の中で、孫権は舵を取らなければならなかったのです。
しかし孫権は、こうした状況において自らの武勇や独断で押し切る道を選びませんでした。むしろ、自身の限界を冷静に見極め、有能な人材に権限を委ねるという統治の形を選び取ります。周瑜や魯粛、張昭といった重臣を深く信頼し、その進言に耳を傾けながら、最終的な判断を下していく姿勢は、単なる若き君主ではなく「統治者」としての自覚を感じさせるものでした。
また孫権は、人材を見抜くだけでなく、その力を発揮させることにも長けていました。後に台頭する呂蒙のように、もとは武勇一辺倒と見られていた人物に学問を奨励し、成長の機会を与えるなど、個々の資質を引き出す柔軟さも持ち合わせていたのです。
こうした姿勢によって、孫権率いる江東の地は単なる武力集団から、政治・軍事・外交が機能する一つの国家へと成長していきました。孫権が築いたのは、自らがすべてを担う体制ではなく、人が支え合いながら持続する統治のかたちだったといえるでしょう。
赤壁の戦い
孫権の名を大きく世に知らしめた出来事が「赤壁の戦い」です。北方をほぼ統一した曹操が大軍を率いて南下し、その矛先がとうとう江東へと向けられます。父・孫堅の仇を夏口の戦いで討ち取り、宿願を果たしたばかりの孫権でしたが、突如として国家の存亡を左右する決断を迫られることになります。
当時の曹操軍は圧倒的な兵力を誇り、各地の勢力が次々と屈服していく中で、「抗えば滅び、従えば生き残れる」という現実が目の前にありました。実際、家臣団の意見でも文官筆頭の張昭を中心に降伏を主張する声が大勢を占め、主戦を唱えたのは周瑜や魯粛ら一部のみでした。
その中で孫権は、ただ多数の意見に流されるのではなく、一つひとつの進言を慎重に見極めていきました。魯粛は同盟の必要性を説き、周瑜は戦うべき理由と勝機を具体的に示します。孫権はその言葉に耳を傾けながらも、最終的に決断を下すのは自らであるという覚悟を持っていたのです。
やがて孫権は、抗戦という道を選びます。伝えられるところでは、降伏を主張する家臣の前で剣を取り、「戦わぬ者はこの刃にかける」と覚悟を示したともいわれています。この一挙は、単なる感情の発露ではなく、迷いを断ち切り、組織を一つにまとめるための強い意思表示でもありました。
さらに孫権は、劉備との同盟という選択を下します。かつては利害の異なる勢力であった相手と手を結ぶことは、決して容易な決断ではありません。しかし、単独で曹操に対抗することの危険性を見極めたうえで、孫権はあえて他者と力を合わせる道を選びました。この柔軟さこそが、孫権の統治者としての大きな特徴でもあります。
戦いそのものにおいては、周瑜をはじめとする将たちが前線で奮戦し、火攻めなどの戦術によって曹操軍に大打撃を与えました。そして連合軍は勝利を収め、曹操の南進を食い止めることに成功します。この勝利によって、江東の地は守られ、やがて諸葛亮孔明の計略により魏・呉・蜀が並び立つ三国鼎立の構図が形づくられていくこととなりました。
呉の皇帝・孫権
その後、孫権は江東の地を基盤に着実に勢力を拡大し、やがて正式に皇帝として即位します。魏・蜀と並び立つ「呉」という国家を築き上げました。孫権にとって単なる称号の獲得ではなく、長年にわたり積み重ねてきた統治の成果が一つの形として結実したものでもありました。
もともと孫権の立場は、父と兄の遺産を受け継いだ「継承者」にすぎませんでした。しかし孫権は、内政の安定、豪族との関係調整、人材登用、そして対外戦略を積み重ねることで、江東を一つの独立した国家へと成熟させていきます。皇帝即位は、その積み重ねが周囲にも認められた結果であり、孫権自身も積み重ねた「成果」を自覚するという、統治者としての完成を示す出来事でもありました。
その証拠に、魏や蜀で次々と皇帝が即位する中、家臣団から何度も皇帝即位を推挙されながらも、石亭の戦いで勝利し魏を徹底的に打ち破り、国の安定が見込めるまでは、自身の無力さを理由に、断り続けたといわれています。慎重さと謙虚さがうかがえる孫権らしさをあらわすエピソードといえるでしょう。
孫権の治世は長く、およそ半世紀にわたって国を維持しました。これは三国志の群雄の中でも特筆すべき長さです。戦乱が常態であった時代において、単に勝利を収めること以上に、「国を持続させる」ということははるかに困難な課題でした。外には魏という大国と対峙し続け、内には多様な勢力を抱えながら、その均衡を保ち続けたことこそが、孫権の真価を物語っています。
また孫権は、時に魏に臣従の姿勢を見せ、またある時には独立を強めるなど、情勢に応じて柔軟に立場を変える外交も行いました。一貫した強硬路線ではなく、国を存続させるために最も現実的な選択を重ねていく姿は、理想よりも現実を見据えた統治者の在り方を感じさせます。
一方で晩年には、後継者をめぐる争いや猜疑心の高まりによって、国内の統制が揺らぐ場面も見られるようになります。長期政権ゆえの疲弊や、権力の集中による歪みが表面化したともいえるでしょう。かつて人を信じて国をまとめてきた孫権にとって、この変化は決して小さなものではありませんでした。
そして252年、孫権はその生涯を閉じます。父と兄の遺志を継ぎ、若くして背負った重責の中で国を守り続けた歳月は、決して平坦なものではありませんでした。幾度もの決断を重ね、迷い、時に揺らぎながらも、江東という地に一つの国家を築き上げたその歩みは、乱世を生き抜いた統治者の姿そのものといえるでしょう。
それでもなお、孫権が築き上げた統治の基盤そのものが崩れることはありませんでした。孫権が整えた制度や人材の層は、個人の死を超えて国家を支え続け、呉という国はその後も存続していきます。
孫権のお墓はどこにある?
孫権は現在、中国・南京市にある孫権墓と呼ばれる陵墓に葬られています。南京市はかつて呉の首都「建業(けんぎょう)」が置かれた地であり、孫権にとってゆかりの深い場所です。
この孫権墓は「孫陵崗(そんりょうこう)」または「蒋陵(しょうりょう)」とも呼ばれ、南京市有数の観光地である鐘山風景区内に位置しています。周辺には中山陵(ちゅうざんりょう:初代中華民国大総統・孫文の陵墓)や、世界遺産に登録されている明孝陵(みんこうりょう:明の初代皇帝・朱元璋の陵墓)があり、中国を代表する歴史的陵墓が集まる地域となっています。
明孝陵の造営計画の際、もともと孫権墓は移転される計画でしたが、明皇帝自身が「移動させなくてよい」と言ったことで明孝陵への参道(神道)を湾曲させ、孫権墓を避けるように北斗七星のような特徴的な形にしたといわれています。
もともと中国の皇帝陵は、墳丘を中心に参道や石像、神道などが一体となって構成される壮大な空間を特徴としており、日本の墓所とは大きく異なる構造を持っています。孫権墓も本来はそうした形式を備えていたと考えられていますが、現在の墓域は、木々に囲まれた丘陵地に広がる静かな空間となっているものの、長い年月の中で本来の構造の多くは失われ、墓標や孫権像が残るのみで、正確な埋葬位置も明確には分かっていません。
孫権のほかに歩夫人、潘夫人が合葬され、太子・孫登もその付近に埋葬されたと伝えられています。
【呉大帝孫権蒋陵】中華人民共和国江蘇省南京市玄武区紫金山
また、杭州市中心部から南西約50kmの場所には、龍門古鎮(りゅうもんこちん)と呼ばれる集落があります。富春江と龍門山の豊かな自然に囲まれたこの地は、三国時代に呉を治めた孫権の末裔たちが集住する村として知られています。
その起源は、孫権から数えておよそ27代後の子孫・孫忠が10世紀頃にこの地へ移り住んだことに始まるとされ、現在でも住民の大半が「孫」姓を名乗るなど、強い血縁的結びつきを保っています。村内には孫権の祖先を祀る廟や家系図を伝える施設が残されており、長い年月を経てもなお一族の歴史が受け継がれている様子をうかがうことができます。
また、集落には明・清時代の建築が多く残り、古い町並みと周囲の自然が調和した景観を形成しています。観光地として整備されつつも過度な開発は避けられており、素朴でどこか人の温もりを感じさせる雰囲気の中で、静かに歴史に触れることができる場所となっています。
【龍門古鎮】中国浙江省杭州市富陽区龍門古鎮
まとめ
父と兄の遺志を受け継ぎ、若くして乱世の真っ只中に立たされた孫権は、多くの人材とともに歩むことで一国を築き上げました。父や兄が持っていたような圧倒的な武力や戦略の才ではなく、「人を信じ、任せる」という統治のあり方こそが、孫権の最大の強みだったのかもしれません。自らが前に出てすべてを決するのではなく、適材適所に人を配し、その力を引き出すことで国を支え続けた姿は、乱世におけるもう一つのリーダー像を示しています。
戦乱の時代において、国を守り続けるということは決して容易なことではありません。外敵との対峙だけでなく、内部の均衡を保ち、人々の信頼をつなぎ止める必要があります。孫権の歩みは、勝ち続けること以上に「続けること」の難しさと重みを物語っており、リーダーとは何か、組織とはどうあるべきかを静かに問いかけているようにも感じられます。
また、その統治は一代で完結するものではなく、後の時代へと引き継がれていくものでした。晩年に揺らぎを見せながらも、孫権が築いた基盤は呉という国家を支え続け、その影響は長く残っていきます。人に任せるという選択は、同時に未来へ託すということでもあったのでしょう。
孫権の墓前に立てば、江東の地を守り続けた長き歳月と、数多くの決断の重みが思い起こされるのではないでしょうか。そしてそこには、一人で成し遂げた英雄の姿ではなく、多くの人とともに歩み、支え合いながら国を築いた統治者の姿が、静かに浮かび上がるでしょう。
お墓は、亡き人を悼む場であると同時に、その人が生きた歳月や想い、家族とのつながりを静かに伝える場所です。墓前に立つことは、物語に心を寄せ、記憶を分かち合う時間でもあります。歴史上の人物の墓を訪ねれば、偉人もまた一人の人間であったと実感し、「お墓の意味」をあらためて見つめ直すきっかけとなるのではないでしょうか。その気づきは、自身の家族のお墓について考える機会にもつながります。
お墓の継承や建て替え、墓じまいなどに迷った際は、石材店へ相談することも一つの方法です。
お付き合いのある石材店が特にない場合は、以下の記事を参考に、ご自身に合った石材店をお探しになってみてはいかがでしょうか。
マナーに十分注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょう。
赤壁の戦いで共闘した劉備玄徳や諸葛亮孔明、覇を争った魏の君主・曹操孟徳、そして荊州をめぐる攻防の末に呉との戦いで命を落とした蜀の名将・関羽の記事などもあります。あわせてご覧ください。