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『どうする家康』『大奥』でも注目!武田信玄と柳沢吉保の墓がある恵林寺

墓地・墓石コラム

『どうする家康』『大奥』でも注目!武田信玄と柳沢吉保の墓がある恵林寺

2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、駿河国・遠江国(現在の静岡県)の守護大名・今川義元(演:野村萬斎さん)のもとで、のどかな人質生活を送っていた松平元信(後の徳川家康、演:松本潤さん)が、天下を治めるまでの波乱の生涯が描かれます。

75歳まで生きたといわれるその長い人生において、青年期の家康の前に大きな壁となり立ちはだかったのが甲斐国(現在の山梨県)の守護大名・武田信玄(演:阿部寛さん)です。

信玄の最期〜その後

信玄と家康との戦いで有名なものの1つは「三方ヶ原の戦い」です。元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と家康・織田信長の連合軍の戦いは、武田軍の圧勝に終わります。

信玄はその勢いのまま、三河国(現在の愛知県)野田城を攻め落とし(野田城の戦い)、いよいよ連合軍の本拠地である尾張国(現在の愛知県)へと肉薄したのです。

しかしその矢先、信玄は突如病に倒れます。元亀4年(1573年)4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で、この世を去ります。享年53歳。

武田家の戦略・戦術を記した軍学書『甲陽軍鑑』によると、信玄は「自身の死を3年の間は秘密にし、遺骸は諏訪湖に沈める事」と遺言を残しました。

同じく『甲陽軍鑑』には、天正3年(1575年)4月12日に、武田家の菩提寺である恵林寺(えりんじ)において、武田家の家督を継いだ武田勝頼による信玄三周忌の仏事が行われた記録が残っています。また、天正4年(1576年)4月16日には、勝頼により恵林寺で信玄の葬儀が行われています。

恵林寺の武田信玄公墓所

乾徳山(けんとくざん)恵林寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、元徳2年(1330年)に臨済宗の禅僧・夢窓国師(むそうこくし)によって創建されました。 信玄は永禄7年(1564年)にこの恵林寺を菩提寺と定めます。

境内にある信玄公宝物館には、信玄が使ったとされる兜や軍配団扇、風林火山で有名な「孫子の旗」など武田氏に関する文化財を数多く所蔵しています。

現在、武田信玄公墓所は信玄霊廟「明王殿」裏手に位置しており、正面向かって右側には五輪塔(ごりんとう)が、その左隣には宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建てられています。いずれも寛文12年(1672年)の信玄百回忌に建立されたものです。

なお、武田信玄公墓所は通常非公開で、信玄の月命日である毎月12日にのみ特別公開されます。

五輪塔とは?

五輪塔は、主に供養塔やお墓として使われる塔の一種です。

密教(7世紀後半にインドで興隆した一宗派)の教理にもとづいて作られた形で、上から、空・風・火・水・地という五大と呼ばれる宇宙を構成する5つの元素を表現しています。

五大で形作られた五輪塔で供養することにより、故人は宇宙(五大)に還元され、極楽浄土に往生するとされています。

宝篋印塔とは?

宝篋印塔は、供養塔や墓碑塔などに使われる仏塔の一種で、中国からの伝来後日本で独自の発展をしてきた塔です。五輪塔とともに平安時代以降多く造られ、石造の遺品が多く残されています。

一般的に上から「相輪(そうりん)」「笠」「塔身(とうしん)」「基礎」「基壇」で構成され、笠の四隅には「隅飾(すみかざり)」と呼ばれる突起があるのが特徴です。

「100年以上前の先祖を供養するためのお墓」とも言われ、現代でも、特に先祖代々の家系図が残る名家や旧家のお墓、寺院の歴代墓などで、遠いご先祖様の供養のために建てられることがあります。

なお、五輪塔と宝篋印塔については別の記事でその詳細をお伝えしております。合わせてお読みください。
五輪塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します
宝篋印塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

恵林寺には、信玄の墓以外にも、武田家家臣の墓約70基が信玄を慕うかのように墓所後陣に並んでいます。そして、信玄の命日である4月12日には、毎年、信玄を偲ぶお祭り「信玄公忌」がおこなわれています。

恵林寺には、柳沢吉保の墓地もある

恵林寺には、江戸時代に大老格として徳川幕府を主導した柳沢吉保の墓所もあり、その正室・定子の墓石も並んでいます。

柳沢吉保の人物像

男女が逆転したパラレルワールドの江戸時代を描く2023年のNHKドラマ『大奥』では、俳優の倉科カナさんが演じたことでも話題になった柳沢吉保。

史実では、徳川幕府5代将軍・徳川綱吉の寵愛を受け、その側近として文治派政治を推し進めました。“生類憐みの令”などに代表される綱吉の政策は悪政と評されることもあり、綱吉のもとで立身出世をとげた吉保もまた、批判的な人物像で後年描かれがちです。しかしながら、領地では新田開発や検地、城下町や用水路の整備を行い、領民から慕われていたという記録が残る、教養人・文化人であったと言われています。

柳沢吉保の墓塔〜恵林寺への改葬

現在、恵林寺にある吉保と正室・定子の墓塔は、花崗岩製で二重蓮座台、六角の形状で、幅は共に120cmあります。高さは、吉保のものが227cm、定子の墓は高さ200cmです。吉保の墓塔の正面には「永慶寺殿保山元養大居士」、定子の方は「真光院殿海月映珊大師」と彫られています。

ここに彫られた「永慶寺」「真光院」とは、吉保が亡くなった当時甲斐国にあった柳沢家の菩提寺・永慶寺とその塔頭(たっちゅう=大きな寺院の敷地内にある小さな寺院)・真光院のこと。享保9年(1724年)3月11日に亡くなった吉保は永慶寺に、定子は真光院にそれぞれ埋葬されますが、吉保から家督を継いだ吉里の代に、それまで治めていた甲斐国から大和国郡山(現在の奈良県)への国替えを幕府から命じられます。永慶寺も大和国郡山へ移されることになりましたが、信玄と同じ甲斐源氏の一族・武川衆(むかわしゅう)の出自であることを強く自負していた吉保の想いを汲み、墓所は恵林寺に改葬され、今に至ります。

まとめ

今回は、武田信玄と柳沢吉保の墓がある恵林寺をご紹介いたしました。
戦国最強と謳われ、病に倒れていなければ歴史は大きく変わっていたと評される“甲斐の虎”信玄と、その信玄の存在を誇りに想い生きた柳沢吉保。
その2人の足跡を、当地を訪れることで辿ってみてはいかがでしょうか。

なお、恵林寺の武田信玄公墓所以外にも、“信玄の墓”と伝わる場所がございます。別の記事にまとめておりますので、ぜひ、あわせてお読みください。
偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜武田信玄編

恵林寺への交通アクセス

自動車

中央自動車道勝沼ICからフルーツライン経由 約17分

バス

JR中央線塩山駅南口から西沢渓谷行 約22分
恵林寺前下車