お役立ちコラム お墓の色々

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- 供養をきわめる -

物語とともに残る有名な犬・猫たちのお墓

墓地・墓石コラム

人とともに生きてきた動物たちの中には、その生涯を終えたあとも、多くの人の心に残り続ける存在がいます。
忠義を尽くした犬や、文豪に深く愛された猫。その物語は年月を経ても語り継がれ、今も人々の記憶の中で生き続けています。
そして、そうした物語において語られるだけではなく、実際にその生涯を伝えるお墓が残されています。
今回は、そんな物語とともに今も大切に守られている、有名な犬や猫たちのお墓をご紹介します。

吾輩は猫である

明治の文豪、夏目漱石の代表作として知られる『吾輩は猫である』。名前のない一匹の猫の視点から人間社会を風刺するこの作品は、日本文学を代表する名作として今も多くの人に読み継がれています。

この物語にはモデルとなった猫がいたといわれています。それは、漱石の家で実際に飼われていた猫で、特に名前は付けられていませんでした。

漱石一家の暮らしの中で飼われていたこの猫は、のちに小説に登場する「吾輩」のモデルになったとされています。

しかしこの猫は1908(明治41)年、物置で亡くなってしまいます。その死を悼んだ漱石は、自宅の庭に遺体を埋め、「此の下に稲妻起こる宵あらん」という句を墓標として、書斎裏の桜の木の下に葬ったといわれています。

埋葬した翌日、漱石は数名の門下生に「猫の死亡通知」を送り、その死を知らせたそうです。その後、漱石の死後には猫の十三回忌にあわせて供養塔が建立されましたが、戦時中の空襲によって破損してしまいます。

現在、東京都新宿区の漱石公園にある「猫の墓(猫塚)」は、そのとき残った石の一部を利用して再建されたものです。漱石の代表作のモデルとなった猫が、夏目家にとって大切な存在であったことを今に伝えています。

【新宿区立漱石山房記念館】 東京都新宿区早稲田南町7

夏目漱石のお墓は?と気になった方は以下の記事をあわせてご覧ください。

今こそお参りしたい偉人のお墓 東京編

義犬虎之墓

熊本市には、神風連の志士の一人である小篠源三(おざさ げんぞう)の愛犬「虎(とら)」を弔った碑と墓が残されています。

虎の墓があるのは、桜山神社に並ぶ神風連烈士一二三士の墓所です。入口を入ってすぐ右手に「義犬の墓」と記された石碑があり、比較的すぐに見つけることができます。墓石の表には「義犬之墓」、裏面には「明治九年十一月十一日殉死」と刻まれています。

神風連の乱は、1876(明治9)年に熊本で起きた士族反乱のひとつで、敬神党の乱とも呼ばれます。急速に進む文明開化の中で、明治政府が進めた廃刀令や散髪令などの欧化政策に反発した人々が立ち上がり、約170人の志士が決起しました。しかし反乱は翌日には鎮圧され、多くの志士が戦死あるいは自刃に追い込まれます。

小篠家の四兄弟も神風連に加わり出陣しましたが、敗戦後に四人とも自刃して果てました。このとき四男の源三は、まだ十八歳でした。

源三の愛犬「虎」は、主人の死を悲しむように墓前から離れず、与えられた餌も口にしないまま座り続け、やがて餓死してしまったと伝えられています。その忠義をたたえられ、「義犬(忠犬)」として主人とともに葬られることになりました。

また熊本市内から西へ進んだ場所にある本妙寺の雲晴院にも、小篠四兄弟と「虎」の墓があります。雲晴院の本堂裏手には、長男・一三、次男・彦四郎、三男・清四郎と四男・源三の合葬墓、そして虎の墓が並んでいます。四兄弟の墓碑は高さおよそ九十センチほどで、正面に実名、裏面に自刃の日付、さらに側面には辞世の歌が刻まれています。

その隣に立つ虎の墓碑は高さ約75㎝ほどの自然石で、正面には「殉死犬虎墓」と刻まれています。

【桜山神社】熊本県熊本市中央区黒髪5丁目7−57

【雲晴院】熊本県熊本市西区花園4丁目1−46

弘法大師が唐から連れ帰ったとされる犬のお墓

四国八十八ヶ所霊場の第十番札所「切幡寺」から西へ数キロメートルほど行くと、「犬墓(いぬのはか)」という地名の集落があります。周囲には田畑が広がり、低い山が連なる、静かな里の風景が続いています。

この地には、弘法大師にまつわる義犬の伝説が残されています。阿波市観光協会の紹介によれば、弘法大師が犬を連れて山に入った際、猪に遭遇しました。そのとき犬は主人を守ろうとして猪に向かい、争ううちに誤って滝壺に落ちてしまったといわれています。犬の死を憐れんだ弘法大師がその場に墓を築き、この地を「犬墓」と名付けたと伝えられています。現在残る墓は、享保年間(1716~1736)に犬墓村の庄屋・松永傳太夫が造ったものとされています。

「犬墓大師堂(いぬのはかだいしどう)」の前には、弘法大師と、その傍らに従う犬の像が置かれています。この像は平成14年(2002年)8月に建立されたものです。

像の向かい側には古い碑や祠がいくつか並び、その中に義犬の墓とされる石があります。基礎石は約34センチ×40センチで、もとは五輪塔の地輪部分とみられ、正面には「戌墓(いぬぼ)」と刻まれています。その上には直径36~40センチほど、高さ23センチほどの楕円形の自然石が据えられています。

【犬墓大師堂】徳島県阿波市市場町犬墓

また、善通寺のお遍路さん休憩所の裏手には「犬塚」と呼ばれる石塔があります。鎌倉時代につくられた高さ約2.5メートルの笠塔婆で、凝灰角礫岩で造られ、四方には大日如来を表す梵字「バン」が刻まれています。この塚には、空海(弘法大師)が唐から薬草を持ち帰る際に関わった義犬を祀ったという伝説が伝えられています。

【犬塚】香川県善通寺市仙遊町1丁目9−13

岸和田に残る義犬塚古墳(ぎけんづかこふん)

西暦587年。日本では古墳時代の後期、飛鳥時代とも呼ばれる頃のことです。大和朝廷では、仏教の受け入れをめぐって大きな内乱が起こりました。いわゆる「丁未の乱(ていびのらん)」です。

この戦いは、大陸から伝わった仏教をどう扱うかを巡って、廃仏を唱える物部守屋と、仏教を支持する蘇我馬子という有力豪族が対立したものです。蘇我馬子は厩戸皇子(聖徳太子)らと手を結び、最終的に物部守屋を破りました。大和朝廷が仏教を受け入れ、国家運営の中で重要な役割を担わせていく契機となった、歴史的に大きな意味をもつ戦いとされています。

この戦いで物部守屋の側近として戦った人物に、捕鳥部萬(とりとりべのよろず)という武将がいました。萬は奮戦したものの、最後は自刃して命を落とします。そのとき飼っていた白犬が主人の首をくわえて古い塚へ運び、そこに埋めたと伝えられています。犬はその後もその場を離れず、やがて飢えて死んでしまったといいます。

この話を聞いた朝廷の許しを得て、捕鳥部氏の一族は萬と白犬の墓を並べて築き、葬ったと伝えられています。

現在、大阪府岸和田市の郊外にある天神山古墳群には、「大山大塚古墳」と、その近くに「義犬塚古墳」と呼ばれる古墳が残されています。この伝承は、それらの古墳に結び付けられて語られています。

義犬塚古墳は直径およそ20メートル、高さ約3メートルの円墳で、現在は岸和田市の史跡に指定されています。実際に犬が葬られているかどうかは分かっていませんが、『日本書紀』にもこの白犬の話が記されており、古くから知られてきた伝承であることがうかがえます。

【義犬塚古墳】大阪府岸和田市神須屋町

まとめ

時代や場所は違っても、人と動物が共に過ごした時間の中には、忘れられない物語が生まれています。
その物語は、伝説や文学、歴史の記録として語り継がれるとともに、確かなカタチ「お墓」として今も残されています。

それらの墓石や古墳は決して大きなものではありませんが、そこには一匹の犬や猫と人との関わりが確かに刻まれています。

こうしたお墓を訪れてみると、歴史の中で人と動物がどのように寄り添いながら生きてきたのかを、あらためて感じることができるかもしれません。

お墓は、ただ故人を偲ぶためだけの場所ではありません。そこには、家族との絆やさまざまな出会い、その人が歩んできた年月や胸に抱き続けてきた想いが、静かに刻まれています。墓前に立つということは、そうした人生の物語にそっと思いを重ね、傍らにいる人と語らいながら、記憶を受け取り、また次へとつないでいく時間でもあるのではないでしょうか。

愛するペットの墓前に立てば、かけがえのない家族であったその存在をあらためて感じ、「供養とは何のためにあるのか」を見つめ直すひとときが生まれます。ともに過ごした日々や何気ない仕草、無条件に向けてくれた愛情。そうした記憶が胸によみがえり、手を合わせる時間は、悲しみだけでなく感謝の気持ちを確かめる場にもなります。

ペットへの供養に込められた思いは、命とどのように向き合い、どのように見送り、そしてどのように記憶を受け継いでいくのかを考えるきっかけにもなります。それは同時に、家族の在り方そのものを見つめ直す時間にもつながっていくのではないでしょうか。

ペットの供養に関しての記事や映画化された忠犬ハチ公やタロとジロのお墓に関する記事もあります。あわせてお読みください。