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『どうする家康』でも注目!イケメンの猛将と言われる井伊直政のお墓

墓地・墓石コラム

『どうする家康』でも注目!イケメンの猛将と言われる井伊直政のお墓

2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、松本潤さん演じる徳川家康が、駿河国・遠江国(現在の静岡県)の守護大名・今川義元(演:野村萬斎さん)のもとで人質としての幼少時代を過ごし、弱小国と言われた三河国(現在の愛知県東半部)の主となったのち、天下統一を成し遂げていくまでの波乱の生涯が描かれます。

今回取り上げる井伊直政は、元からの君臣関係にない外様大名であったにも関わらず、数々の武功により徳川四天王の1人として名を馳せ、徳川の家臣随一の領地を与えられたと言われる戦国武将です。ドラマの中では、「絶世の美少年」としても知られる直政を、板垣李光人(いたがきりひと)さんが演じ話題になっています。

勇猛で政治手腕にも長けた、井伊直政の生涯

徳川家に仕えるまで

直政は幼名を「虎松」といい、遠江国祝田(ほうだ/静岡県浜松市北区)にて誕生しました。父直親(なおちか)が今川氏真への謀反の嫌疑をかけられ殺されてしまい、虎松自身も命を狙われたため、親戚の元や寺院に身を寄せて過ごすなど、苦悩の幼少期を過ごします。
14歳の時に、徳川家康に見出され「井伊万千代」と改名。旧領である遠江国井伊谷(いいのや)の領有も認められ、小姓として迎えられました。こうして、当主がおらずお家断絶の危機となっていた井伊家の復興を果たすことになりました。

この辺りのエピソードは、直政を菅田将暉さんが演じた2017年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』にも描かれており、記憶にある方もいらっしゃるかもしれませんね。

徳川家の家臣として活躍

万千代は、家康の小姓となった翌年には武田勝頼(演:眞栄田郷敦さん)軍を相手に初陣を飾り、その後も、高天神城の奪還に大きく貢献するなど、特に武田家との戦いで武功をあげたことが伝えられています。

22歳で元服し「直政」と改名。同年に起こった「本能寺の変」の際に家康を三河に帰還させた「伊賀越え」、「天正壬午の乱」での北条氏との講和成立など、武将の才覚を発揮していきました。

武田家の旧臣達を率いる形で一部隊を得た際には、武田家の兵法も継承する形で、部隊の軍装を赤で統一。その結果、「井伊の赤備え」と呼ばれ恐れられたと言われています。後の「小牧・長久手の戦い」にて、直政は赤備えに鬼の角のような飾りを付けた兜を被り出陣。先頭を切って長槍で敵を蹴散していくその姿から「井伊の赤鬼」と称され、その存在を知らしめました。

直政の武功は家康や豊臣秀吉(演:ムロツヨシさん)にも高く評価され、家康が秀吉の傘下に入り関東に移った際には、上野国箕輪(群馬県高崎市)に徳川家臣団の中でも最高とされる12万石を与えられることとなりました。

自分にも家臣にも厳しかった直政

歴史書にも「容顔美麗」と書かれ、美少年であったことでも有名な直政ですが、自身にも周りにも大変厳しい人物であったと伝えられています。特に家臣に対しては、些細な失敗でも手打ちにするなど気性が激しく、「人斬り兵部」の異名がつくほどでした。赤備えにあこがれて仕官したものの、直政のあまりの厳しさに耐えられずに逃げ出した者もあったようです。

関ヶ原の戦いから、直政の最期

関ヶ原の戦いでは、西軍の諸大名を東軍へと引き入れる見事な政治手腕を発揮。本戦では家康の四男である松平忠吉を補佐して先陣を切ったと言われています(福島正則が先陣を切る決まりであったところを抜け駆けしたとの説、霧の中で偶然出会い頭に戦闘が始まってしまっただけではないかとの説がある)。

戦の終盤、西軍が劣勢となり、西軍の精鋭と言われる島津義弘(しまづよしひろ)の軍が、敵中を正面から突破して退却するという決死の戦法に出ます。後に「島津の退き口(のきぐち)」と言い伝えられる退却戦です。このとき、決死の覚悟で向かってくる島津軍の勢いに東軍の兵達がひるむ中、直政は本多忠勝(演:山田裕貴さん)や松平忠吉と共に追撃。あまりの猛追に、護衛も兼ねる配下も追い付けず、単騎駆けのようであったとも伝えられています。この時に足を狙撃され落馬。大きな怪我を負いました。

島津義弘は退却に成功しますが、東軍は圧勝。戦後、直政は怪我を負いながらも優れた政治感覚を生かして戦後処理に尽力し、その結果、近江国佐和山(滋賀県彦根市)に18万石を与えられました。しかし関ヶ原の戦いから2年後の1602年(慶長7年)、直政は佐和山城でこの世を去ります。その死因については、関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷であるとも、大怪我を押して働き詰めていたことが原因とも言われています。

井伊直政の墓所「清涼寺」

井伊直政の墓所「清涼寺」

井伊直政の最期の地である佐和山の麓に、井伊直政の墓所として、直政の次男で長男直継(なおつぐ)の後に当主となった井伊直孝(なおたか)が開基した寺院が「祥壽山 清凉寺(しょうじゅさん せいりょうじ)」です。以来、井伊家歴代の菩提寺となっています。山号・寺号は、直政の法号である「祥寿院殿清凉泰安居士」から付けられました。

本堂裏手の高台に井伊家歴代の墓所があり、その前列中央に位置するのが直政の墓石です。「無縫塔」という、主に僧侶の墓塔として用いられる形式の墓石となっており、他の当主一族の墓にもこの形式が多くみられますが、これは生前に僧籍に入るという直政以来の慣わしによるものと言われています。

―無縫塔とは―

主に僧侶の墓塔として用いられている石塔(仏塔)で、基礎や台座の上に卵型の塔身をのせているのが特徴です。卵形の塔身が一石だけで造られており縫い目がないということで、無縫塔と名付けられています。

ちなみに、「どうする家康」の撮影にあたって、直政を演じる板垣李光人さんも清涼寺にお参りされ、「演じさせていただきます」との報告をされたそうです。

他にもある直政のお墓・ゆかりの地

この時代の「お墓」と言うと、「遺体や遺骨を埋葬した墓」の他に、供養を目的とした石塔や霊廟も多く建てられていたため、遺体や遺骨が埋まっていない「お墓」が各所に点在しています。

萬年山 長松院(滋賀県彦根市)

直政が亡くなったあと、その遺意により芹川の三角州にて火葬され、跡地に建てられたとされるのが長松寺です。山号・寺号は、小姓時代の名「万千代(萬千代)」と幼名「虎松」から付けられました。
その墓地の一角に、直政の墓所とされる五輪塔と石碑が建てられており、石碑には「井伊直政公火化委骼之処」つまり、井伊直政の遺体を火葬した場所であること、側面には明治34年の直政三百回忌に旧領内有志の者が健立したことが記されています。

五輪塔については以下の記事をご覧ください。
五輪塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

龍潭寺(静岡県浜松市)

直政の出身地で井伊家が長年治めてきた、井伊谷(静岡県浜松市北区)にある龍潭寺(りょうたんじ)にも、井伊家の墓所が築かれており、井伊初代当主の共保(ともやす)や直虎、直政などの墓石である五輪塔が並んでいます。

高野山 奥の院(和歌山県伊都郡高野町)

高野山奥の院は、戦国武将や大名の墓が数多く建てられていることで知られおり、ここにも井伊家の墓所があります。23町石付近を参道から少し奥に入ったところに、井伊家の墓所が2か所あり。その1つの中心にあるのが直政の御霊屋と言われています。

六波羅蜜寺(京都府京都市)

直政が六波羅蜜寺の住職と縁があったことで、次男の直孝によって直政像を安置する祥寿院と鐘楼が建てられ、供養が続けられてきたと言われています。
宝物館には、有名な平清盛像と並んで、直政の彫刻も置かれているようです。

井伊神社(滋賀県彦根市)

井伊神社は、前述した龍潭寺の参道脇に建てられた後、現在の場所に移ったとされ、井伊直政、直孝を祀っていた佐和山神社などを合祀したために、現在も直政が祀られています。

まとめ

井伊直政は、大変厳格な人物であったと伝えられていますが、これは、不遇な幼少期を支え取り立ててくれた井伊直虎や母親、家康の恩義に報い、また、若くしてあげた手柄が実力であることを示すためであったようです。
このように、忠義に厚く何事にも真っ直ぐに向き合う人柄が、周りの信頼を集め、井伊家のその後の発展や活躍につながっていったのかもしれません。

直政を始め井伊家の墓には、他の当主や親族が共に祀られている場所が多く、井伊家が代々国の発展に貢献してきたことが伝わってくるようです。ぜひ現地を訪れ、現代まで語り継がれる直政の勇猛で真っ直ぐな生き方に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

なお、直政に関わりのある武将のお墓を紹介している記事もございます。ぜひ合わせてお読みください。
偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜徳川家康編
『どうする家康』戦国時代最強の武将、本多忠勝のお墓は?

清涼寺へのアクセス

自動車

名神高速道路 西宮線「彦根IC」より約10分

鉄道

JR琵琶湖線 「彦根駅」下車 徒歩約20分