お役立ちコラム お墓の色々

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一度は見ておきたい重要文化財シリーズ・滋賀の旅編・その4

供養・埋葬・風習コラム

一度は見ておきたい重要文化財シリーズ・滋賀の旅編・その4

日本では、国内にある建造物、美術工芸品、考古資料、歴史資料等の有形文化財の中で、歴史上・芸術上の価値が高いもの、または学術的に価値の高いものを、文化財保護法に基づき重要文化財として指定、保護しています。

全国各地にある石仏や石塔の中にも、重要文化財や自治体の指定を受けているものがいくつもあり、その所有者や地域の人々によって、石仏や石塔に込められた想いや由来が語り継がれてきたことで、今もなお私たちに歴史や文化の息吹を感じさせてくれます。

今回は「一度は見ておきたい重要文化財シリーズ」と題し、歴史的価値、学術的価値の高い石仏や石塔をご紹介し、その魅力に迫っていきます。

観光情報も添えていますので、ぜひ実際に足を運んでいただき、その雰囲気を肌で感じ、目で愉しみ、心で歴史に触れてみてはいかがでしょうか?

一度は見ておきたい重要文化財シリーズ・滋賀の旅編・その4

鏡神社 宝篋印塔(滋賀県蒲生郡竜王町鏡)

滋賀県蒲生郡竜王町鏡にある鏡神社は、新羅(しんら/しらぎ=紀元前57年〜935年に朝鮮半島南東部にあった国)の王子であったといわれる「天日槍尊(アメノヒボコノミコト)」を主祭神として祀っています。
天日槍尊は紀元前31年に新羅から多くの技陶物師・医師・薬師・弓削師・鏡作師・鋳物師などを連れて日本にやってきて、近江の国に集落を成しました。天日槍尊の持ってきた鏡をこの地に納めたことが、「鏡」という地名の由来です。

その鏡神社の境内を離れ、国道8号線を渡った先にある「西光寺跡」に国の重要文化財に指定された宝篋印塔があります。

宝篋印塔とは

宝篋印塔は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種で、「宝篋印陀羅尼経(だらにきょう)」という経典を内部に納めたことが、その名の由来となっています。中国から伝来し、日本で独自の発展をしたといわれ、鎌倉時代から江戸時代頃に全国各地で信仰の塔や墓石としてさかんにつくられました。子孫が宝篋印塔を礼拝供養すれば、成仏し、極楽浄土へ往生できるとされています。

一般的に上から「相輪(そうりん)」「笠」「塔身(とうしん)」「基礎」の4つの部位で構成されます。

笠の四隅には隅飾(すみかざり)と呼ばれる突起があるのが特徴です。

また、基礎の上面には反花(かえりばな/下側へ反転するように開いた蓮弁)を据えたり、塔身を2〜3段の階段状に据えることもあります。

塔身の4面に四方仏を梵字で刻むことなどから、宝篋印塔は多数の如来が集っているとも考えられ、ご先祖様の供養はもちろんのこと、子孫を守り、一族の繁栄へと導くともいわれています。

特徴

鏡神社宝篋印塔は花崗岩製で、鎌倉時代後期である1300年代の作で、高さは2.10mです。
切石で造った2段の基壇上に据えられています。石塔の下には石室が設けられ、多数の埋葬骨が納められていました。
西光寺跡に建てられていますが、鏡神社の管理下にあることからこう呼ばれています。

相輪

相輪は下から伏鉢(ふくばち)・請花(うけばな)・九輪(くりん)と呼ばれ、九輪の七輪目を残し上部が欠失しています。

笠の段型は、下2段・上6段で、隅飾は三弧輪郭付。内側の蓮華座(台座)上には、西側2面に大日如来の「バン」、残り6面に地蔵菩薩の「カ」という梵字の入った月輪が刻まれています。

塔身

塔身の四隅には、梟(ふくろう)らしき鳥(仏舎利を運んだガルーダ(迦楼羅/かるら)という鳥)が彫られています。この手法はあまり例がありません。宝篋印塔の源流を考察する上でも貴重なもので、「この塔を見ずして他の宝篋印塔を語るなかれ」とも言われるほどです。荘厳豊かな造りは、中国の呉越王・銭弘俶(せん こうしゅく)の金塗塔からきているとされています。
また、4面には蓮華座上月輪内に金剛界四仏の種子(しゅじ=梵字)を刻んでいます。

基礎

基礎上端は、段を1つ造り、上に複弁反花座(かえりばなざ)を設けます。
側面3面は、輪郭を巻き、格狭間内には向かい合う優美な孔雀が刻まれています。

歴史

鏡神社宝篋印塔のある「西光寺跡」。その西光寺は、天台宗の開祖である伝教大師最澄が建立し、源頼朝や足利尊氏も泊まったとされる古刹です。康平(こうへい)2年(1060年)の乱で焼失し、その後中興されましたが、信長による戦火のため、元亀2年(1571年)に廃寺となります。
その当時の名残でもある宝篋印塔。記念宝塔として昭和35年(1960年)2月9日に国の重要文化財に指定されました。

周辺の観光情報

鏡神社への参道の左側に、源義経がただひとりで元服した後、参拝した時に烏帽子(えぼし)をかけた「烏帽子掛けの松」があります。明治6年の台風で松が倒れてしまったため、株上2.7mを残し石垣上に仮屋根をして、現在は保存されています。
また、地元「鏡」の烏帽子屋五郎大夫(ごろうたゆう)に源氏の左折れの烏帽子を作らせ、鏡池の石清水を用いて前髪を落とし元結(もとゆい)の侍姿を池の水に映し元服をしたと伝えられています。それが「元服池」です。鏡神社より西側へ130mのところにあり、そばには石碑が建てられています。

鏡神社への交通アクセス

<鉄道&バス>
JR琵琶湖線 近江八幡駅からバスに乗車15分 鏡口停留所下車
JR琵琶湖線 野洲駅からバスに乗車10分 道の駅竜王かがみの里停留所下車

<自動車>
名神高速 竜王ICより10分

寂照寺宝篋印塔(滋賀県蒲生郡日野町蔵王)

寂照寺(じゃくしょうじ)は、滋賀県蒲生郡日野町にある臨済宗の寺院で、平安時代中期の天台宗の僧・寂照(じゃくしょう)法師が開創したと伝わっていますが、詳細は不明です。
東に隣接する金(きんぷ)神社を、奈良の吉野山からこの地に移して祀った修験道者たちが創建したとも考えられています。
その境内の北側に建てられているのが、国の重要文化財に指定された宝篋印塔です。

特徴

宝篋印塔は花崗岩製で、後年取り付けられた相輪を除くと高さは1.29mです。
もともとは金峯神社の参道入り口にある鳥居の横にありましたが、大正3年(1914年)にあった県道の拡幅工事の際に、現在の場所に移築されました。
造立年を示す刻銘などはありませんが、その様式や手法から鎌倉時代後期の造立と考えられています。

相輪

後年、補修されたものです。

笠の段形は、下2段・上5段です。隅飾は一弧で無地となっており、馬耳状で垂直に立っています。隅飾面と軒付面が同じ面となっている古い形式です。

塔身

塔身は、舟形を彫って凹めてあり、西に阿弥陀如来、東に薬師如来、南に釈迦如来、北に弥勒菩薩といった四方仏坐像を半肉彫りしています。

基礎

基礎はやや低く造られ、上端は2段あります。側面は輪郭が巻かれ、内側にある格狭間内には、4面ともに近江文様の特徴である三茎蓮を浮き彫りにしています。

歴史

寂照寺のある日野町の山手には、蔵王や熊野といった地名が残っていて、東にある綿向山(わたむきやま)は修験の山であったと伝えられています。
この蔵王地内、近年ダムに水没した場所には「かったい谷」と称する石切場があったとされ、蔵王は近江における石造文化の中心地のひとつと目されています。

なお、寂照寺宝篋印塔は昭和36年(1961年)3月23日に国の重要指定文化財となりました。

周辺の観光情報

寂照寺から車で5分ほどのところにある「滋賀農業公園ブルーメの丘」は、花畑や動物とふれあえるエリアの他に、醸造所や中世ドイツ風の建物がある施設です。
10月頃になると、ブルーメの丘に向かう沿道の花畑や、園内に植えられた12品種約100万本ものコスモスが一斉に咲き乱れ、ブルーメの丘周辺はコスモス一色となります。
その他、四季を通して様々なお花が楽しめる施設です。寂照寺に行かれた際に立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

※新型コロナウイルス感染症の影響等で、イベント内容や営業時間等が変わる場合がございます。お出かけの際は、施設からの情報等をご確認の上お出かけくださいませ。

寂照寺への交通アクセス

<自動車>
名神高速 蒲生スマートICより25分

まとめ

宝篋印塔は鎌倉時代から江戸時代頃にかけ、全国各地で信仰心を表した塔や墓石としてさかんに造られました。そのため、今もなお、当時のままの姿を残すものが存在しています。

たとえ、経年により一部を欠いてしまうことがあっても、地元の方の強い想いにより復元され、今日も美しい姿を見ることができています。

長い年月をかけて受け継がれてきたその姿を、ぜひ直にご覧いただき、当時の様子に想いを馳せ、受け継がれてきた人々の心に触れてみてはいかがでしょうか。


なお、滋賀県内には他にも歴史的価値、学術的価値の高い石塔があり、過去の記事では下記の石塔をご紹介しています。こちらもあわせてお読みください。

一度は見ておきたい重要文化財シリーズ・滋賀の旅編
・正法寺石造宝塔
・少菩提寺跡 石造多宝塔

一度は見ておきたい重要文化財シリーズ・滋賀の旅編・その2
・比都佐神社 宝篋印塔
・梵釈寺 宝篋印塔

一度は見ておきたい重要文化財シリーズ・滋賀の旅編・その3
・西明寺 石造宝塔
・懸所宝塔