お役立ちコラム お墓の色々
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- 供養をきわめる -
『鎌倉殿の13人』源頼朝の墓と供養塔〜子孫は鹿児島に?
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、主人公・北条義時の生涯を軸に、源平合戦から鎌倉幕府の誕生、そして鎌倉幕府初代将軍である源頼朝の死後繰り広げられる御家人同士の権力闘争と、承久の乱までの様子が描かれます。
タイトルの「鎌倉殿」とは鎌倉幕府の将軍のこと。もともとは鎌倉幕府初代将軍である頼朝の敬称であり、または鎌倉幕府そのものを指す言葉として使用されていました。
頼朝の最期〜その後
建久9年(1198年)12月27日、相模川の橋供養に参列した頼朝は、その帰路で落馬し、翌年の建久10年(1199年)1月13日に亡くなったと伝えられています。
ただ、鎌倉幕府の公式な歴史書『吾妻鏡』には、建久7年(1196年)から建久10年(1199年)1月までの記述がなく、頼朝の死因については現在でも謎のままです。
頼朝の亡骸は、頼朝の邸宅であった大倉御所(大蔵幕府)北側の持仏堂に葬られ、持仏堂はそれ以降、法華堂(=貴人の納骨堂)と呼ばれました。
その後、時は流れ明治時代。廃仏毀釈(明治維新政府の神道国教化政策に伴って起きた仏教の抑圧・排斥運動)により法華堂は破却され、明治5年(1872年)、その跡地には頼朝を祀る西御門白旗神社が建立されます。
この白旗神社の境内に、頼朝の墓と伝わる石塔があります。
史跡法華堂跡(源頼朝墓所)/神奈川県鎌倉市
頼朝の墓は五層の石塔となっており、もともとは五輪の小さな墓であったものを、安永8年(1779年)に、薩摩藩主・島津重豪(しまづ しげひで)が再建立しました。
源氏の家紋である「笹竜胆(ささりんどう)」の他に、円の中に十の文字を入れた「轡十文字(くつわじゅうもんじ)」と呼ばれる薩摩島津家の家紋が刻まれているのは、そのためです。
一説には島津氏の祖といわれる島津忠久(しまづ ただひさ)は、頼朝の庶子であったとも言われています。つまり、島津重豪はご先祖様である頼朝の墓を建てた…のかもしれません。
なお、頼朝の墓は、「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」として昭和2年(1927年)4月8日に国の史跡名勝天然記念物に指定されています。
“お墓”は1種類だけではない
“お墓”という大きなくくりの中には、もっとも一般的な「遺体を埋葬したお墓」の他に、髪や爪、分骨といった遺体の一部や遺品等を埋めたお墓や、中に写経を納めるなどして死者を供養・慰霊するための目的で造立された供養塔などがあります。
そして、造立された石塔には、五輪塔(ごりんとう)や宝篋印塔(ほうきょういんとう)、無繕塔(むほうとう)、笠塔婆(かさとうば)等の多くの種類があります。同じ石塔で括られるものですが、地域や時代により、その形状には著しい差があります。
五輪塔や宝篋印塔、お墓に関する語句の解説については、以下の記事をご覧ください。
◆五輪塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します
◆お墓のデザインはどんなものがある?
◆墓標とは?墓石や墓碑など、似ている言葉との違いを解説します
実は他にもある頼朝の供養塔
頼朝は京都で生まれ、鎌倉の地でその生涯を閉じましたが、頼朝の遺徳を偲ぶ供養塔が、他の地域にも残っています。
伝「源頼朝の石塔」/鹿児島県伊佐市
鹿児島県伊佐市大口曽木の「広徳寺跡」(現在の曽木ふれあい公園内)には、伝「源頼朝の石塔」があります。そして、その塔身には「當(当)山本堂征夷大将軍/源頼朝公 源大居士塔」と刻まれています。
石塔のあった広徳寺の記録が火災で焼失しているため、その由緒は不明です。ただ、広徳寺を開いたのは、頼朝の異母弟「義円(ぎえん)」であるとの伝承があります。この石塔の由緒に、何らかの繋がりがあるのかもしれません。
大吉寺跡にある石造宝塔/滋賀県長浜市
大吉寺(だいきちじ)は貞観7年(865年)に天吉寺山(てんきちじやま/標高918m)の西側の斜面に創建されたと伝わっています。源氏と平家が争った平治の乱(1159年)で源氏が敗れた際、当時13歳の頼朝をかくまったことで、後に、鎌倉幕府初代将軍となった頼朝から堂宇(どうう/堂の建物)の再建と、寺領(じりょう)の寄進を受けた天台宗の寺院です。
鎌倉時代に隆盛をきわめましたが、戦国時代に六角定頼(さだより)、さらに織田信長の戦火によって焼失しています。
現在は、本堂、庫裏、山門からなる小さな寺院ですが、かつて本堂などがあったとされる「大吉寺跡」には、頼朝の供養塔が建てられています。
供養塔は宝塔(塔身に平面方形の屋根をもつ一重塔)で、高さは約1.57m。基礎(0.9m四方)、塔身(直径0.6m)、笠(0.8m四方)からなり、慶長3年(1251年)の刻印があります。
石山寺にある頼朝と亀谷禅尼供養塔/滋賀県大津市
滋賀県大津市石山寺にある東寺真言宗の大本山です。境内には日本最古、そして源頼朝の寄進と伝えられる国宝の多宝塔があり、その北西にある2基の宝篋印塔は、頼朝と亀谷禅尼(かめがつやのぜんに)の供養塔と伝えられています。
亀谷禅尼は、“鎌倉殿の13人”のメンバーである文官・中原親能の妻で、頼朝の次女三幡(乙姫)の乳母をつとめた人物です。頼朝に石山寺の再興を勧め、多くの寺領を裁定したと伝えられています。
亀谷禅尼供養塔は南北朝時代、頼朝供養塔はそれに続く時期のもので、後世の人が2人のために建立したと考えられ、亀谷禅尼供養塔は国の重要文化財に指定されています。
まとめ
今回は、源頼朝の墓と供養塔をご紹介いたしました。
辛酸を舐めた若き時代を経て、鎌倉幕府初代将軍にまで上り詰めた頼朝。
死後その魂は、遠く薩摩にまで受け継がれていたのかもしれません。
ぜひ一度当地を訪れ、その足跡を辿るとともに、歴史にふれてみてはいかがでしょうか。
史跡法華堂跡(源頼朝墓所)への交通アクセス
<鉄道>
JR鎌倉駅下車、東口から徒歩20分
<バス>
JR鎌倉駅東口4番・5番バス乗り場から「 八幡宮・浄明寺方面行き」に乗車
「岐れ道」停留所にて下車、徒歩約3分
伝「源頼朝の石塔」への交通アクセス
<自動車>
九州自動車道栗野ICから20分
大吉寺跡への交通アクセス
<バス>
JR琵琶湖線長浜駅から湖国バス、「野瀬」停留所下車、徒歩15分
石山寺への交通アクセス
<鉄道>
京阪石山寺駅から徒歩10分
<自動車>
名神高速瀬田東ICから10分。または名神高速瀬田西ICから10分